翌朝、もう一度縁側からおじいさんの家を覗いてみると、電気がついていた。
「なんだ、こんな朝から?」
縁側のカーテンの小さな隙間からおじいさんがこっちに気づいて、開けてくれた。
腰はすっかりよくなっているのか普通に歩いてる。よかった。
「ゆうべいなかったから心配で……これ、大したものじゃないけど食べてください」
小さな紙袋に入れた肉じゃがのタッパとおにぎりを手渡すと、おじいさんは怪訝そうな目でそれを見てた。
「なんじゃこれは? ちゃんと味付けできるのか?」
「う……おじいさんの奥様の味とは違うと思いますが……結構自信作なんですよ。あ、仕事遅刻しちゃうんで!」
縁側を後にしようとした時、怒鳴るような声が聞こえた。
「急いで転ぶんじゃないぞ!」
それに驚いて振り返ると、ニコニコとおじいさんが笑ってこっちに手を振っていた。
わたしが手渡した紙袋を大事そうに小脇に抱えているその姿を見れてうれしかったんだ。
だからわたしも飛び上がるようにして、おじいさんに向かって大きく手を振った。
その日の夜も残業になった。
要領が悪い、やる気ないんでしょ? と散々罵られ、身も心もヘトヘトだった。
きっとこういう扱いはずっと続くんだろうなとわかっていてもどうにもならない。騒ぎ立てようものならさらに悪化する。
事務管理課は昔からこういう洗礼みたいなものがあるって聞いていた。わかっていたけど……。
自分が変わらない限り扱いも変わらない。それもわかっている。
だけど突飛な変化をしてさらに粘着されても困る。だからどうしたらいいかわからない。変わり方だってわからない。
理不尽なことをされても今は歯を食いしばって仕事をこなすしかない。
ほぼ、諦めの気持ちだった。
だって、他にどこで働くというの? この不景気の中、新しい仕事が見つかるなんて思えない。
しかも今の会社はお給料も福利厚生もいい。これ以上の条件の職場、見つかるわけがないって思うから……簡単に手離すわけにいかないんだ。
一生ひとりで生きて行くつもりなら、こんなこと耐えないといけない。
今日は午前中に算出した管理伝票が、昼休みにお茶を買いに行った間に消えていた。
慌てて探したら、シュレッダーの中身が増えていた。たぶんこれがそれなんだろうってすぐにわかった。
もちろんバックアップもとっていたし、また出力すればいいだけなんだけど……それが莫大な量になる。
プリンターを長時間独占することも、プリンター用紙を大量に使用することも咎められた。
PC内データでやり取りをするからわざわざ印刷なんかしなくてもいい気がするけど、資料室に保存するため一部は書類として作成する必要があるらしい。それをしてもこうして切り刻まれることになるのに。
結局就業時間中にプリンターを使用できず、残って印刷するしかなかった。
アパートの前についたのは、やっぱり二十一時をまわっていた。
むくんだ足を引きずるように階段を昇る。
小さく軋む音を立てる木の階段。スリッパが脱げそうになりながらようやく自分の部屋の前にたどり着くと、扉のノブにさっきおじいさんに渡した小さな紙袋がかかっていた。
扉の前の床には、ピンクと赤のチューリップの花束。
それを抱えると、ふわっとチューリップのいい香りがした。
間に小さなメモ用紙のようなものを見つけ、手にしてみる。
『煮物 九十五点。美味しかった。握り飯は塩気が足りぬ。八十点。山部』
筆で書いた縦書きの達筆な文字。あのおじいちゃん、
山部っていう名前なんだ。
しかも点数つき。塩分は血圧が上がるかと思って塩少なめにしたけど……。
「ぷっ」
思わず堪えていた笑いが出てしまった。
それでも全部食べてくれたのか、タッパを綺麗に洗って返却してきた山部のおじいさんを思ったらおかしくて笑いが止まらなかった。
しばらくその場で涙を流しながら笑っていた。
**
それからわたしと山部のおじいちゃんは急速に仲良くなった。
あまりしなかった料理をするようになり、魚の煮つけを作ってみたりもしてみた。
その都度おじいちゃんは点数を付けてくれるけど、辛口採点で結構手厳しい。
「みりんは入れたか?」
「ううん」
「やっぱり! 照りが足らん!」
ダメ出しされたあとは、おじいちゃんの家のコンロを使って味付けを直される。
おじいちゃんはひとり暮らしが長いのか料理上手。わたしが持ってきたタッパの中身を鍋にサッと入れてすぐに直してしまう。
「ほら、このほうがうまいだろうが。メモにみりん少々って書いとけ」
「あー……はーい」
こうして土日の昼間はおじいちゃんと過ごすことが多くなった。
平日会社でたまっているストレスも、山部のおじいちゃんと一緒にいると減っていく。
ひとりで燻っていたらもっと暗い休日を送っていただろう。
山部のおじいちゃんと接して、怒られながらも会話を楽しんでいると、ここにいていいんだって気持ちになれてうれしかった。
「まったく……まだまだじゃの。こんなんじゃ恥ずかしくて嫁に出せんわ」
おじいちゃんが筑前煮を小皿にとってパクパクとリズムよく食べ始めた。
文句言う割に箸が進むんだよね……自分で味を直してるからだと思うけど、確かにおじいちゃんの味付けの方が美味しい。
わたしもおじいちゃんの向かい合わせに座って、手を合わせてからごはんを食べ始める。
今日の味噌汁はおじいちゃんのお手製。豆腐とわかめ。いい味付け。お袋の味って感じがする。
「嫁には行かないし、行く気もない。ずっとおじいちゃんの傍にいていいでしょ?」
いつの間にかわたしは山部のおじいちゃんを『おじいちゃん』と呼び、本当の祖父のように慕うようになっていた。
元々祖父はいないも同然だったからうれしい。唯一の肉親のような気持ちで接している。
おじいちゃんは大きなため息をついて、沼のように濃い緑茶をすすった。
「おまえの天国の母親も浮かばれんな。こんな若いうちから結婚に夢も希望もないようなこと抜かしおって……孫の顔が見たいだろうになあ。天国からでも見えるんじゃぞ」
「……嘘ばっかり」
「嘘じゃない! 庭の花を見てみろ。ばあさんもそう言っておる」
縁側のガラス窓越しに、庭を見るとチューリップと忘れな草が風に揺れていた。
わたしの後ろの壁沿いにある茶箪笥の上のおばあちゃんの写真が微笑んでいるから本当にそう言われている気持ちになる。
一度も会ったことのないおばあちゃんだけど、なんだか本当の祖母のように自然に親しみの気持ちを抱いていたから不思議だ。
「好きな男はいないのか?」
「いない」
即答すると、また大きなため息が聞こえた。
「まあ、まだ若い。今後どうなるかわからんしな……料理を学んでおいて損はないだろう。だけどな、そんなふうにまともに恋もしたことのないうちから諦めるようなことは口にするな」
「だって……」
「だっても何もない。このヒヨッコが」
湯飲みが大きい音を立ててちゃぶ台の上に戻された。
そんなにエキサイトすると血圧上がっちゃうのに……あ、おじいちゃん血圧は高くないって言ってたか。
「おじいちゃんは『永遠の愛』って信じる?」
箸をちゃぶ台の上に戻しておじいちゃんに視線を移すと、眉間にシワをぐっと寄せてわたしを見ていた。
訝しげなその表情はすぐに崩され、ニヤリと小馬鹿にしたような笑いを向けられた。しかも鼻で『ふんっ』と……。
「なんじゃそりゃ。じゃ、おまえは『永遠の命』があると思うのか? そんなものありはせんだろう。おまえが求めてるのはそんなもんか? じゃ、逆に聞くがおまえはその『永遠の愛』とやらがあると思っちょるのか? おまえはそれを誓えるのか?」
「え……え……」
「そんな覚悟もないくせに相手にそれを求めるなんて傲慢だと思わんのか?」
「ちが――」
そう言いかけて口を閉ざす。
違わない。その通りだ。
今はっきりわかった。自分の傲慢さ。
父と母は永遠の愛を誓い合ったはずなのにあっさりその約束は破棄された。
しかも父は別の女性を愛しはじめた。
そんな簡単に破られる約束なんてって思ってた。
ただ、あるって言ってほしかっただけだった。
そのひと言だけで、救われる気がしてた。
でもそうじゃなかった。
自分が永遠の愛を誓えもせずにそれを求めるなんて虫が良すぎる……。
父と母はたまたまうまくいかなかっただけだって。だからしょうがないことなんだって割り切るきっかけがほしかったのかもしれない。
だけど父が出て行った後、そして今でもずっとそんな風には思えなくて。
そんな風に思わないといけない? そんなことはないって自分の中で否定し続けた。
みんなみんな父が悪い。あの人が裏切ったから――
ボロボロと滝のように涙が溢れ出す。
それが古いちゃぶ台を濡らしていくのをただただ見つめていた。
父と翔吾さんのお姉さんのことを知って、諦めようと思った。
翔吾さんとわたしはダメなんだってその思いに封をして閉じ込めてしまえばいいと思った。
まだはじまったばかりだから諦められる。いいほうになんか考えないで全て悪いほうへ考えようと押し込めた。
翔吾さんがわたしを大切にしてくれているのはただの同情でしかない。
専務の娘さんと結婚した方がしあわせになれる。
わたしなんて誰からも必要とされていないただのお荷物――
そうやって卑屈になって思いを閉ざしてこれ以上深く傷つかないように自分を守ってるだけ。
そんなことしたって好きな気持ちは止められないのに。
わたしの泣き声だけが静かな部屋の音と化している。
両手で目をぐしぐしと拭っていたら、目の前に白い手ぬぐいが差し出された。
困ったような表情のおじいちゃんが、小さなため息をついた。
「雪乃よ、『永遠の命』と『愛』を引き合いに出したのは悪かった。だか『永遠の愛』がどんなもんかワシにはわからん。未来なんて誰にもわからないこと。そんな不確かなものを求めては“ない”と卑屈になるのは何の得にもならん。そんなものが枷になって恋愛ができないのはただの臆病者。みーんなそんな不確かなものがあるんだかないんだかわからないまま人を好きになる。みんなができておまえができないわけがない。好きな男がいるなら真正面からぶつかれ」
わたしはただおじいちゃんが言うことを黙って聞いていた。
だけど流れ落ちる涙は止められなくて、しゃくりあげながら問いかけることしかできなかった。
「ぅえっ……でも……好きになっちゃいけないひとで……」
「不倫か?」
「違うよぅ!」
不倫と聞かれて、思わず身体が反応してしまう。違うのに。
おじいちゃんの目が鋭く光るから、慌てて首を振って全力で否定した。
「……婚約者がいるの。だから」
「婚約者がいようがいまいが好きな気持ちを伝えちゃいけないわけでもありゃせん。あわよくば掻っ攫ってしまえ。ワシはそうしたぞ」
「ええーっ!?」
勝ち誇った笑みでわたしを見るおじいちゃん。
その後、目を細めて「昔話だがな」と淡々と話を聞かせてくれた。
おばあちゃんは小さな老舗の呉服屋の娘で、女学校を卒業する間際に同業の大きな老舗の呉服屋の息子との縁談が持ち上がっていた。
もちろんお家にとっては願ったりで、おばあちゃんのご両親は二つ返事でお受けしたらしい。
相手のほうもおばあちゃんをたいそう気に入り、すぐにでもと乗り気だったと。
美人ではないが気立てがよくて、福々しかったからだろう、とさらりと惚気も加えられた。
でもおばあちゃんにその気がなかった。だけど家のためには自分が嫁ぐしかないと腹を括った時、おじいちゃんが告白をした。
おじいちゃんとおばあちゃんは幼馴染でそれはもう小さい頃からの仲良しだったそうだ。
「ばあさんのしあわせを考えたら何度も諦めようと思った。だけどどうしても諦めきれない。こんな思いを抱えて一生生きてゆくなんてことワシにはできなかった。思い切って告白したあとに知ったのだが、ばあさんの家は借金を抱えておってどうしてもその男の許へ嫁ぐ必要があった。要は体のいい人質じゃった……」
「酷い!」
つい声を荒らげてそう言ってしまい、慌てて口をつぐむ。
おじいちゃんは困ったような笑顔をわたしに向けて、小さくうなずいた。
「だからワシは遠慮しなかった。ばあさんを掻っ攫って駆け落ち同然で逃げようと思った。だけどそれじゃばあさんが不幸になる。だから借金はワシが肩代わりすると言った。でも認めてもらえんかった。だがワシは諦めず身を粉にして働いた」
開いた口がふさがらなかった。
おじいちゃん、本当におばあちゃんが好きだったんだ。
「でも、結局間に合わなくてなあ……ばあさんの実家は潰れてしまった……だけどな、雪乃。ばあさんの両親はワシを認めてくれた。娘を好きな男に嫁がせることができてよかったって、最後は感謝された」
「本当?」
「ああ。本当じゃ。それにワシは未だかつてばあさん以上の女に巡りあったことがない」
……それって。
得意満面の笑みでおじいちゃんがわたしを見た。
再びポンポン、と頭を優しく撫でられる。
「残りの人生、何があるかわからんけどな。老いぼれの戯言じゃ」
おじいちゃんは照れたようにに笑うと、縁側から庭に出て、チューリップに水を撒きはじめた。
素敵な夫婦だな。
おばあちゃんは、おじいちゃんと一緒になれて……しあわせだっただろうな。
そしておじいちゃんも……。
止まりかけた涙がまた溢れ出して、手ぬぐいで顔を拭く。
しあわせそうに微笑みながら水遣りをするおじいちゃんは、愛しいものを見つめるような優しい表情をしていた。
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