わたしは辞令の出たその日の仕事帰り、クマさんのお店へ寄っていた。
ひとりで来るのは初めてだけど、クマさんは歓迎してくれた。
今日は比較的団体客が多いらしい。カウンター席にお客さんはいなかった。
今ならクマさんも時間が空いているとのことで、人事異動で翔吾さんと仕事の繋がりがなくなったことを話した。
引っ越しの家探しをしていることも……そして、父と翔吾さんのお姉さんのことも。
わたしが翔吾さんの姪を庇って事故に遭い、記憶を失ったから翔吾さんが責任を感じて優しくしてくれているであろうということも全部話した。
話すことによって少しだけ心が軽くなった。
翔吾さんの家のこともあるから自分だけの判断で話していいのかすごく悩んだけど、クマさんは他の誰にも言わないと約束してくれたから。
そしてわたしはクマさんを信じている。
そのクマさんは難しい顔で唸って、わたしの前に烏龍茶を出してくれた。
「最後は、雪乃ちゃんの自己判断だよね。雨ちゃんがそう思ってるとは限らないじゃない。確かに責任感じてはいるかもしれないけどだから雪乃ちゃんを自分の家に住ませた、というのは少し安易な判断なんじゃないの? 雪乃ちゃんはさあ、もう雨ちゃんが君のことを好きじゃないって思い込んでいるようだけど、どうして?」
怪訝そうな表情でクマさんに問われ、その言葉の意味を考えた。
確かにクマさんの言う通りだ。わたしの勝手な思い込みなのかもしれない。
烏龍茶で喉を潤して、グラスを置こうとしたらカウンターテーブルに三日月形の水滴が残っていた。
それを指で伸ばすようにしてから、クマさんに何とか笑いかける。
思い込みだったとしても、もう何も変わらない。
「それは……事故の前、もうすでに距離を置いてたし……」
「雪乃ちゃんがお父さんと雨ちゃんのお姉さんのことを許せないからって雨ちゃんを拒絶したから、雨ちゃんは雪乃ちゃんを好きでもこれ以上無理強いできないって思ってるのかもしれないじゃない」
「でも……」
何もかもクマさんの言うとおりのような気がして、胸の奥がズキズキする。
クマさんは決して容赦しない。わたしの痛いところを的確に突いてくる。だけど――
「っらっしゃい! あれ? 三ちゃん?」
お店の扉が開く音と共にクマさんの大きな声。
三ちゃんって……振り返ると、暖簾を手で避けた三浦さんの姿があった。
「あれ? 風間ちゃん来てたんだ。まさかひとりでここ来るほどハマったとは……」
「違うよー三ちゃん。雪乃ちゃんはボクに逢いに来てくれたの。ねっ」
曖昧にふたりのやり取りを誤魔化して前を向き直ると、三浦さんが当たり前のようにわたしの右隣の席に座った。
コートを脱いで背もたれにかけてふーっと大きなため息をつく姿は少し疲れている様子。
だけどやっぱりカッコイイなと思う。
「クマさん、ビールといつもの一式お願い」
「なんだよ、ボクと雪乃ちゃんの邪魔するんだ」
「え? 邪魔なの?」
「いや、言ってみただけ」
クマさんが厨房に消えて、わたしと三浦さんのふたりきりになる。
わたしは烏龍茶を飲んで一息つくと、三浦さんが頬杖をついてこっちを見ているのに気がついた。
その目はとっても優しいんだけど、少しだけ元気がなさそうにも見えた。
「風間ちゃん異動しちゃって寂しいよ。オレのオアシスだったのになー……」
「やだ、三浦さん。言いすぎですよ」
「なんだ、三ちゃんが雪乃ちゃんを口説いてるの? 見過ごせない光景だな……正直ボクの心情穏やかじゃないよ?」
ダン! と低く鈍い音を立てて三浦さんの前にビールが置かれた。
口元をクッとあげて少し眉根を寄せたクマさんが三浦さんを刺すように見つめている。クマさんのそんな表情初めて見た。
「え? 風間ちゃん口説くのにクマさんの許可要るの?」
「そりゃボクの前で口説くつもりならね。雪乃ちゃんを困らせるなら、いくら三ちゃんでも容赦しないよ?」
「じゃ、証人になってもらおうかな。クマさんに……」
三浦さんのビールジョッキがわたしのほうに向けられる。
証人? なんの? 口説くとかまた冗談ばかり言って……。
かちん、とわたしの烏龍茶のグラスを当てると満足そうにニンマリと微笑む三浦さん。
なんとなくクマさんとの会話が途切れて、揚げ出し豆腐をつまんで食べる、と。
「雨宮とどうなってるかわからないけど……もし曖昧な関係なら本気で口説くよ」
「ぶっ!!」
いきなり三浦さんがとんでもないことを言い出すもんだから、口に入っていた揚げ出し豆腐をふき出しそうになってしまった。
ビックリして三浦さんの顔を覗き込むと、真剣な表情だった。
ジョッキのビールを呷るようにゴクゴクと飲んで息づく三浦さん。いつもだったら目を細めて、冗談って流してくれると思うのに。
……冗談じゃ、ないの?
「なんか、雨宮も風間ちゃんもおかしい。一緒に暮らしてるのにそんなギクシャクしてて平気なの? 家でどんな風に接してるの? すごい気になる。オレが口出しすることじゃないのはもちろんわかってるよ。けど……」
「三ちゃん……雪乃ちゃんに絡むなよ」
「絡んでないよ。ただ、オレはさ……雨宮も風間ちゃんも心配なんだよ。だんだんすれ違ってる気がして……せっかくオレ諦めたのに意味ねーのかって思ったらさ」
「ん? 諦めた? どういうこと?」
クマさんが三浦さんに突っ込み始めた。
いやいやいや、そこスルーするところなんだけど……。
わたしがクマさんに目線を送って小さく首を振ってみせると、ぽかーんとした表情をしている。
「風間ちゃんはきっと忘れてると思うけど……オレ、前に彼女に告ってるんだ」
「――――はあっ!?」
クマさんの意表を突かれたって顔がわたしと三浦さんを交互に見た。
憶えてるからこそ蒸し返したくなかったのに……。
どんな顔をしていいのかわからず、わたしは俯いて目を合わせないようにするしかできなかった。
手持ち無沙汰に目の前の揚げ出し豆腐を崩す。
「風間ちゃん、記憶戻ってるんでしょ?」
「え?」
「オレの言葉に動揺見せないのが答えだよね。別にそこを問い正すつもりはないけどさ……」
テーブルに頬杖をついた三浦さんが苦笑しながらわたしを見た。
わたしって単純だ……自分の態度で肯定していたなんて。
ビールの空のジョッキをクマさんに渡して三浦さんがこっちを向き直った。
身体もこっちに向け、真顔で俯いたわたしの顔を覗き込んでいる。
それを横目でちらっと見てすぐに視線を揚げ出し豆腐に戻すけど、心臓がすごくドキドキしてる。
なんでこんなに高鳴ってるの? おさまれ! わたしの鼓動!
三浦さんはわたしの記憶が戻っているか探りを入れただけ。
それにまんまとひっかかった単純な自分。
現にこの胸の鼓動は記憶が戻ったことがバレてしまったからのはず。
なんでこんなに一生懸命自分に言い聞かせているんだろう。バカみたい。
翔吾さんに記憶が戻ったことを知られたくない。
翔吾さんだけには悟られないように、もっと冷静にならないと。
「……雨宮さんには、黙っててください」
「ん、黙ってるのは構わないんだけど……あいつさ、落ち込んでるよ。あいつのこと避けてるでしょ?」
「……それは」
「記憶が戻ってるから、だよね。そんなんで一緒に暮らしてるの辛くない?」
仰るとおりだ。だから今、新しいアパートを探している。
だけどそこまで三浦さんに言ってしまうのもよくない気がする。
どうして? って話の流れになってしまうから。クマさんには話してしまったけど、三浦さんには話すつもりはなかった。
本当は誰にも話さないつもりだったのに……今更だけど弱い自分が情けなくなる。
「だ……大丈夫ですよ。とにかく雨宮さんには内緒でお願いします」
とりあえず、今は。
少しでも早く不動産屋に行って物件を見せてもらわないといけない。
気持ちは焦っているのになぜか不動産屋に足が向かない。
それは、翔吾さんの傍から離れたくないって自分の意思の弱さなのかもしれない。
こんなんじゃだめだよ。早く翔吾さんの元を離れないといけないんだから。
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