空色なキモチ

□ 満月の夜に見る夢は □

満月の夜に見る夢は 第5章 第64夜 記憶

 
 退院してから土曜日の引っ越し前日まで、毎日病院の外来へ通った。
 

 こめかみや頬の傷の処置、そして思い出したことを少しずつ話していたようだ。
 雪乃が処置を終えた後、受診についていった俺だけ診察室に呼ばれ、担当医師と話す機会を作ってもらえた。 医師と話したかったからちょうどよかった。

 
 傷の治りはとてもよく順調で、あとは家でガーゼを取り替えるなどの処置でいいとのことだった。傷の痕も残らないだろうと言われ、つい『よかった』と声を出してしまう。
 目の前の医師は二度うなずき、優しい笑顔を浮かべた。

 家での雪乃の状況を詳しく聞かれ、パニックなどの症状は起こしていないこと、ここ一年以内のこと以外は憶えていそうな旨を伝えると深くうなずかれた。
 目の前の大きな椅子に座った医師は、俺が話すことを一語一句丁寧にパソコンの電子カルテに打ち込んでいる。その表情は終始穏やかで、少し皺の刻まれた目許にほっとしてしまう。

 引っ越ししたばかりの時、家を出てしまったことも念のため伝えておいた。それは記憶の障害ではないだろうと判断され、わかっていたこととはいえ安心した。

 
 担当医から精神科の医師に相談して診断を仰いだところ、やっぱり雪乃の記憶の障害は逆行性健忘と診断して間違いなさそうなこと。
 そして、必要ならば精神科の医師と面談する時間をとってもらえることを順を追って話してくれた。
 今、特別支障がなければゆっくりでも構わないし、雪乃の状況次第で受けても受けなくてもいいとのことだった。

 今の状況で落ち着いているのなら、無理に思い出させたりするのは返って酷なことなのかもしれない……そう神妙な顔つきで告げられたのだ。

 少しでも状況が変わった場合はすぐに受診するよう伝えられ、診察室を出た。
 


**
 


 土曜、雪乃の引っ越しの日。

 大学時代の同級生の志田が自営業の父親の使っている軽トラックを運転してくれたから、思いのほかスムーズに荷物を運び終えた。
 雪乃の許可を得て、ベッドは数日前に処分した。運んでもよかったのだけど、寝ている間にベッドから落ちたら怖いなと思っていたから。
 そして三浦さんも手伝ってくれたから一日かかってしまうと思っていた作業も半日もかからずに済んでしまった。あとは俺の家に運び込むだけ。
 
 雪乃は俺の家で待機させている。
 本当は自分も行きたい、引っ越し作業をしたいと言っていたのだがまだ受傷して一週間ほどしか経ってないから無理は禁物だと思い、止めさせた。


 雪乃がうちで暮らし始めてから約一週間。
 一緒に寝るのを躊躇うため、玄関を入ってすぐ左にあるほぼ荷物置き場と化していた部屋を雪乃の部屋にした。
 その部屋はあまり日当たりがよくないので使わせたくなかったのだが、致し方ない。
 そこに布団を敷いてひとりで眠る雪乃を、夜中に時々覗いてはホッとする日々が続いている。

 なんとなく、陽の光のようにいつか消えてしまいそうで怖いんだ。






「え? 三浦さん?」


 俺の家に着いて荷物を運ぶ三浦さんの姿を見て、雪乃が驚きの声をあげた。
 三浦さんも目を丸くして雪乃を見て、そして微笑んだ。
 雪乃が記憶障害を呈していることを知っている三浦さんは彼女が自分のことを憶えていたことがうれしかったのだろう。
 容易にその思いは見て取れた。

 そして、俺は軽い嫉妬を覚える。言うまでもないだろう。


 男三人で荷物を運び込んでいる間、雪乃は邪魔しないよう俺の寝室に押し込めた。
 自分も何かしたいと言い張る彼女を納得させるのが大変だったが「危ないから!」と少し強めに言って了承させる。

 物が少ないから運び込むのも思いのほか早く終わってしまった。


「あの、ありがとうございました。本人が何もしないですみません」


 一連の引っ越し作業を終えて、ソファで男三人くつろいでいると雪乃がお茶を淹れて運んできた。
 初対面の志田にも丁寧に挨拶とお礼を述べ、そそくさとキッチンへ戻って行く。


「へえ、初々しい子だね。今までおまえのまわりにいたタイプとは全く違うけど?」

「余計なこと言うな」


 左肘で右に座っている志田の肘を突くと、唇を尖らせて小さくうなずいた。
 するとそんな話に興味のなさそうな三浦さんがキッチンの方へ向かい、雪乃と話し始める。
 
 ここからは何を話しているか全く聞こえないが、楽しそうに笑う雪乃が見えた。
 そして三浦さんも優しい表情で雪乃を見つめている。まるで見守るようなそんな表情で。
 俺が最近の雪乃を子ども扱いしているようなそんな感じじゃない。むしろそれだったらよかったのに。



「何かあのふたりいい雰囲気なんじゃないの?」

「……志田、おまえ痛いとこ突くなよ」

「あ、痛いんだ。妬いてるのか」


 言うまでもない、俺は嫉妬している。

 雪乃が俺じゃなくて三浦さんを覚えていたこと。
 それはしょうがないことなのかもしれないけど……あんなに楽しそうな笑顔を向けて。
 退院してから一度もあんな満面の笑みを俺に向けてくれたことないのに、三浦さんには見せるのか。


 俺の視線に気づいたのか、ちらっと雪乃がこっちを見た。
 
 すると、その目には戸惑いの色がはっきりと見えた。
 三浦さんへ向けるものとは毛色の全く違う、迷っているような視線。


 早鐘のように鳴り響く心音、苦しいくらいに胸を締め付ける。
 

 思わずソファから立ち上がってしまい、その体勢で静止する。
 そうじゃないとキッチンに走っていって何かしでかしてしまうんじゃないかと自分が不安になった。


 向こうから怪訝な表情で俺を見つめる雪乃と三浦さん。

 こんなにも目の前の女を愛している、欲しているのに……彼女は俺を憶えていない。


「オレ、帰るわ」


 苦笑いで三浦さんが雪乃に声をかける。それを雪乃も苦笑いで返す。
 軽いお礼が交わされて、三浦さんがリビングから出て行った。
 それを追いかけて雪乃がリビングを出て行く。


 ――――行かないで。


 そう思ってしまう自分が情けなくて仕方なかった。


 玄関の扉が閉まる音が聞こえてきて、ぎくりとする。

 雪乃のスリッパの音がこっちに近づいてくる音が聞こえてホッとした。
 もし三浦さんと一緒に出て行ってしまっていたら。そんな思いまで自然に浮かんでしまった。

 ただの見送りにさえ嫉妬が芽生える。
 
 引っ越し作業を手伝ってもらったのにろくにお礼も言わず、見送りもしなかった自分の非常識さに嘆きたくなる。完全に冷静さを欠いている自分が腹立たしい。
 

「翔吾さん、三浦さんから近々奢れって伝言が……」

「あ、ああ。うん、わかったよ。今日のお礼はちゃんとしておくから」


 目を細めて俺に笑いかける雪乃が少しだけ憎くて、胸の奥がちくりと痛んだんだ。







 その後、志田にお礼がてら飲みに行くことにした。
 
 雪乃を気遣って志田は遠慮したが、俺が飲みたい気分だった。
 その気持ちを察したのか雪乃は家で待ってると言う。
 絶対家から出ないよう伝えて念のため鍵も取り上げた。


 駅前の居酒屋でかなりの量を飲んだが、全く酔えなかった。
 雪乃と三浦さんの楽しそうに話す姿が頭から離れてくれない。


「おまえもう帰れよ。雪乃ちゃんひとりにしておいたらかわいそうだろ?」


 志田の方がよっぽど雪乃を心配していた。
 まだ飲むという俺を志田が無理やりタクシーに押し込み、結局帰らざるを得なくなった。
 雪乃をひとりにして申し訳ないという気持ちもあるのに、なぜか今は雪乃に会いたくないという思いも入り交じっていた。

 会いたくないわけじゃない。
 俺にも三浦さんに向けるような笑顔を向けてもらいたいのに向けてもらえない歯痒さとか、嫉妬心むき出しの自分が恥ずかしくて顔向けできないだけなんだ。

 だから雪乃は何も悪くない。

 雪乃が絡むと冷静でいられない自分。
 その相手が職場の尊敬する先輩、三浦さんであろうとも。
 三浦さんは雪乃のことが好きだったはずだ。今の気持ちはわからないけど、好意は抱いたままであることはすぐにわかる。


 だけど、雪乃に『三浦さんと親しくしないで』と言う権利もない。言うのも恥ずかしい。
 そんな自分のちっぽけな嫉妬を雪乃が知ったらどう思われるか考えたら、こんな思いは絶対に口にできない。


 雪乃を看ていく、そう決断し姉と義兄に宣言したくせに。
 今の雪乃の居場所は俺の元しかないはずだし、彼女だって全面的に俺を頼ってくれている。
 そう思っているのに。こんなにも自信が持てない自分が情けない。

 こんなことで揺らぐなよ、しっかりしろ。俺。

 帰りのタクシーの中、強めの力で両頬を叩いた。

 
 
 


 家を出たのが十八時頃、着いたのは二十二時をまわっていた。


 真っ暗なリビングに入ると部屋はひんやりしている。
 雪乃は……自室かな? そう思ってリビングの電気をつけて目を見張った。

 ソファに寄りかかって眠っている雪乃の姿があったから。

 毛布もかけずクマのぬいぐるみを抱きかかえているその横に、赤い分厚いアルバムが置かれていた。


 雪乃が大事なものの中に入れたアルバム。
 静かにそれをソファの上に置いたまま開いてみた。


 赤ちゃんの雪乃の写真の下にシールで説明書きがついていた。
 ほっぺたがまっかでぷくぷくの柔らかそうでかわいい赤ちゃん。今にも泣き出しそうな表情で写っている。


  “命名:雪乃。名付け親はパパ。三月にしては珍しく雪の降った日だったから”


 義兄がつけた名前だったのか……。
 雪乃は三月の初旬生まれだったはず。その頃から雪乃が遠くなってしまってそれどころじゃなかった。
 今更だけどなにかお祝いをしたいなと思った。


 小さい雪乃を義兄が抱っこして笑っている。とてもしあわせそうな笑顔だった。
 その写真のふたりはそっくりで、隣で写っている母親とはあまり似ていなかった。
 母親は目が大きくて、ストレートヘア。まるで日本人形のような黒い髪をした美しい女性。
 
 小さい頃の雪乃の写真はどれもこのクマのぬいぐるみを抱いていた。
 きっと大事にしてきたのだろう。

 小学校の入学式、卒業式、中学の入学式、卒業式、高校の入学式……。

 そこまでは義兄と母親に挟まれて笑顔で写る雪乃の姿。
 そこで写真は途切れていた。

 親子三人並んで写っている記念写真の義兄の顔はすべて小さな紙で隠されていた。
 少しだけ破けたようになっているものもある。義兄の部分を破り捨てようとしたのかもしれない。
 それを思いとどまったのか、セロハンテープで補正してある。それも少し茶ばんでいた。

 ソファで気持ちよさそうに眠る雪乃の目許は泣いたあとのように少し赤くなっている。
 この写真を見て、思い出して泣いていたのか。

 雪乃の頬にかかる髪をそっと横にずらし、耳元へかけると少しだけくすぐったそうに顔をしかめた。

 もしかして、寂しくて俺が帰ってくるのを待っていてくれたの?
 ひとりでこうして……電気もつけずに。


 雪乃の身体を抱き上げ、自分の寝室へ運ぶ。
 よく眠っているようで動かしてもベッドへ横たえても起きる気配はなかった。

 今日だけ、俺と一緒に寝て。


 素早くシャワーを済ませ、雪乃が寝ている自分のベッドにもぐり込むと布団が暖かかった。
 雪乃の温もり、そして匂い。
 こんなに近くにいて感じられる幸せを噛みしめる。

 静かに雪乃の首下に腕を通し、抱き寄せた。


「愛してるよ、雪乃」


 目覚めないよう小さな声で囁いて額に口づけを落とした。





 翌朝、雪乃がビックリして飛び起きたのは言うまでもない。



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Date:2013/03/11
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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