それからがさらに大忙しだった。
翌々日雪乃が退院して、そのまま俺の車で彼女のマンションへ向かう。
俺が雪乃の家の場所を知っていたことにすごく驚いていた。
これで俺が本当の恋人だと認めてくれればいいなと少しだけ期待してしまった。
雪乃は自分の家のことは覚えていたようで、どこに何が入っているなどは把握していた。
俺の家から持ってきた大き目のバッグも使って衣類は全て詰め込むことができた。
「あと必要な物は……」
雪乃が持っていたのは正方形のクッションくらいの大きさの古いクマのぬいぐるみだった。
クリーム色のタオル素材のそれは何度も洗ったようで色も薄くなっていたが肌触りはよくてもこもこしている。
「随分昔のものみたいだけど……?」
恥ずかしそうにうなずいて胸にそのクマを抱く。
俺がこの家に泊まりに来た時にはこのクマはなかった。もしかして恥ずかしくて隠していたのか?
大切そうに頬をすり寄せてほっとした表情を見せる雪乃を見たら、ライナスの毛布みたいなものなのかもしれないなと思った。
そして、もうひとつ。
赤い表紙の分厚いアルバムを本棚から取り出した。
きっと昔の思い出の写真がいっぱい詰まっているのだろう。それもバッグに詰め込んだ。
**
俺のマンションに着くと雪乃はキョロキョロし始めた。
はじめてくる場所に閉じ込められた猫みたいに落ち着きなくそわそわしているように見える。
パニックを起こさなければいいけどな……。
「雪乃ちゃん、ソファに腰掛けてようか?」
優しく声をかけて背中を押すと、びくっと身体を強張らせて俺を見上げる。
オドオドした様子でなんとなく想像がついた。
「なにもしない、約束するよ」
「……」
なんで考えていることがわかったの? っていう表情で俺を見るもんだからつい笑ってしまった。
あーおかしい。なんてわかりやすいんだろうか。
ぎゅうっとクマのぬいぐるみを抱きしめてソファに座る雪乃は子どもに戻ったような感じだ。
俺はソファに座る雪乃の足元にしゃがみ、下から彼女の顔を見上げて声をかけた。
「雪乃、聞いて。今からここが君の家だ。好きなものを好きないように使っていい。でもね、ひとりでこの家を出て行くのだけはダメだよ。どこか行きたい時は必ず俺に言うこと。ほしい物がある時も必ず言って」
「……はい」
「これから俺は雪乃のアパートの解約手続きと、引っ越しのための準備をしてくるからひとりで留守番できるよね? 誰かが来てもドアを開けちゃだめだよ。いないフリしていいから。何かあったらすぐ俺に電話するんだよ」
「うん」
なんとなく子どもに対するような態度になってしまって申し訳ない気がしたが、雪乃はちゃんと受け入れた。かわいくて頬を撫でるとくすぐったそうに身をよじる。
部屋着に着替えさせ、俺のベッドで休んでいるように伝えて家を出た。
**
雪乃の家にはほとんど大きい荷物がないので荷造りは比較的楽だった。
タンスなどもないし、洋服も収納ボックスを使用しているから移動しやすい。開かないようガムテープで固定すればいいだろう。食器棚もないし、大きいものはベッドと本棚と冷蔵庫くらいだ。
女の子の部屋にしては殺風景で、彩りも少ない。寝室のカーテンも紺色だし、居間のテーブルの下に敷いている小さなラグも同色。
加えて異様なまでに少ない私物。わざと拠点を定めないようにしているようにしか思えなかった。
母親が亡くなって叔母夫婦の家にお世話になり、高校卒業後は誰にも頼らずに生きてきた雪乃。
根無し草のように生きていこうとしていたのかもしれない。ずっとひとりきりで。
寝室に入ってすぐの壁際にある本棚の本をダンボールにつめている時、俺の携帯電話が鳴った。
三浦さんからだった。
「はい」
『雨宮? 今、話しても大丈夫か?』
「ええ、大丈夫っす。一週間も休みすみません。来週挽回しますんで……」
『いや、いいよ。風間ちゃんのこと聞いたよ。大丈夫なのか?』
「えっ? もう部署全体に知れ渡ってるんですか?」
『いやいや、違う違う。おまえの仕事のフォローを任されたオレしか教えられてないから大丈夫だ』
ほっと安堵のため息を漏らす。
三浦さんなら安心できるし、口も堅いからバレることはないだろう。
ひょっとしたらすぐに記憶が戻るかもしれないからあまりことを大きくはしたくなかった。雪乃のためにもそのほうがいいと思うから。
『今、風間ちゃん何してるの?』
「あー……今は俺ん家で寝てます。俺は彼女の家の荷造りをしてて……今度の土曜に大学時代のダチに手伝ってもらって引っ越し作業するんです」
『……一緒に、暮らすのか?』
一瞬間があって三浦さんのいつもより低いトーンの声が聞こえてきた。
「はい、ひとりにしておくのが不安なので」
『おまえら、何かもめてたんじゃないのか? 大丈夫なのかよ』
確かに三浦さんの言うとおりだ。
今、こんなことがなければ俺と雪乃は別れの方向へ向かっていて……いや、ほぼ別れていたと言っても過言ではない。
雪乃は完全に俺を拒絶していた。現に異動願いも出していたくらいだ。
三浦さんが気にかけるのも無理はない。俺が雪乃の異動願いを知らない時点で何かあったと思っていただろう。
そんな状況だったのに、雪乃の記憶がなくなった今、何事もなかったように寄り添っているんだから。
ふと、気づいた。
雪乃が記憶を失って、ショックな反面ホッとしている自分。
最低だな、俺。
土曜日の引っ越し作業は三浦さんも手伝いに来てくれると言って電話を切った。
少しでも男手が多い方がいいから助かる。
雪乃が三浦さんを覚えているかどうかはわからないが……。
一通りの作業を終えて、雪乃のアパートを出る。
少しでも早く雪乃が待っている自宅へ戻ろうと、スピードを上げて運転をしていた。
家まであと半分くらいだなと思った時、助手席に置いてあった携帯電話が震えた。
――――雪乃?
ディスプレイに表示されたその名前にドクンと鼓動が高鳴る。
何かあったのだろうか? 嫌な予感しか浮かばなかった。
車を左に寄せて停め、急いで電話に出る。
「雪乃?」
『翔吾さ……あの……あの……』
「どうした? なにか……」
電話の向こうで車のクラクションの音がする。
まさか……外にいるのか? 背筋がひやりとした。
あれだけ外に出るなと言っていたのに、なぜ雪乃の電話口から外にいる状況が伝わってくるのかわからず俺がパニックしそうだった。
「雪乃っ? 今どこにいるんだ? 外なのかっ?」
『……わからないの……ここどこだか……た、すけて……』
すすり泣く声が聞こえてくる。パニックを起こしたら何をしでかすかわからない。
思わず声を荒らげてしまいそうになる自分を抑えて、一旦深呼吸をする。俺が落ち着かないでどうする。
大声なんかあげたら余計に雪乃が萎縮して訳わからなくなってしまいそうで怖かった。
なるべく優しく声をかけようと、いつもより高めの声を出すことにしてみた。
「落ち着いて、雪乃。今いるところ何が見える? 大きな看板とかないかな?」
『……えと……大きいビルに虹の写真の看板が見えるの』
「あー……わかった。その看板右に見える? 左に見える?」
『んと、大通り挟んで左側に建ってる……』
俺がわかったと言ったから少し安心したのか声の震えが収まってきた。
家から歩いて十五分くらいの真奈美の家のマンションの近くの広告代理店のビルに間違いないだろう。あれはかなり目立つんだ。
「そっか、わかりやすい説明をありがとうな。じゃあ今、雪乃がいる場所の近くにシズールがあるだろ? シズールわかるか?」
『ん……ちょっと先に見える』
「そこにいて。お金持ってる? 座って何か飲んでて。二十分くらいでそっちに行けるからそこを動かないで」
『わかった……』
「約束だよ。絶対どこにも行かないで」
電話を切って車を走らせた。
なんで雪乃は外に出たんだ? もしかして記憶をなくしたことに関係あるのか?
雪乃の病状を説明してくれた医師から『逆向性健忘に対し前向性健忘というのもある』と言われた。
記憶障害後の出来事を記憶できない、つまり新しいものを覚えられなくなってしまう健忘……それならかなり厄介だと身震いがした。
シズールの傍のコンビニに車を停めて駆けつけると、入ってすぐの窓際のカウンターに雪乃の姿を見つけた。
「雪乃っ!」
「翔吾さん……」
目許には涙の後が残っていたけどすでにそれは止まっており、少し落ち着いていたようだが俺を見てまた泣きそうな表情になった。
スツールから飛び降りるようにして俺に駆け寄ってきて左腕にしがみつかれた。
その力はとっても強くて雪乃の不安の強さを表しているように思えてしまう。
「もう大丈夫だよ。怖かった?」
「うん……ごめんなさい……ごめ……」
右手で雪乃の猫っ毛を撫でる。右側の頭頂部のつむじがぱっかりと開いていた。
そこを隠すように髪を梳いてやると少し身体を震わせた。くすぐったかったのかな?
だけど構わず雪乃の頭を撫で続けた。
「なんで外に出たの? 俺、外に出るなって言ったよね? 覚えてるかな?」
「……うん、覚えてるの。でもね……」
覚えていた。その言葉を聞いてホッとした。
それだけでもよかった。だけど、じゃあなぜ? という苛立ちが顔を出す。
「あの……に、なっちゃって……」
「え?」
声が小さくて訊き返すと、俺を見上げて口をパクパクさせる雪乃。
それで意思を伝え、真っ赤になって俯いた。
――生理。
「持ってなくて……あの……買いに行きたくて……」
「電話で言ってくれれば俺が買ってきたのに。なんで……」
「男の人にそんなの頼むの……買うのだって……恥ずかしいでしょ?」
俺のことを気遣ってくれたのか。
だからわからない道をひとりで歩いて……。
「そっか。気にしてくれてありがとうな」
昔から姉に頼まれて買いに行くことがよくあったからそういうことにあまり抵抗を感じないんだ。
でも、今姉のことを口にするのはやめておいたほうがいいと思って言わなかった。
雪乃が姉のことを憶えているかどうかはわからないけど、不必要な因子はなるべく与えない方がいいと判断した。
帰りの車で雪乃が会社のことを口にした。
連絡もせず欠勤してしまってどうしよう、今さら怖くて連絡できないと言う。
会社のことを憶えていたのには正直驚いた。
それなのに俺のことは憶えていない……と、いうことはここ一年内の記憶を飛ばしているということなのだろうか?
そうとも言い切れない、まだらに抜けている可能性だってある。まだ雪乃の記憶に関してはわからないことばかりだ。
雪乃がよくなるまで会社は休職扱いにしてもらっていることを伝えると目を丸くして驚いた。
なぜ俺が雪乃の会社のことを知っているのか? かなり不思議がっていた。
同じ会社に勤めていて、俺が雪乃の後輩なことを伝えると首を傾げて疑う。
仕事内容を覚えているか聞くと覚えているという。
家にひとりきりにするほうが不安だから月曜から出社させようか悩む……。
と、ひとりで考えていたら雪乃はソファで眠っていた。
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