「そう……だった、のか」
雪乃が淡々と語る記憶。
その一語一句を聞き逃すまいと、涙ながらに語る彼女の手を握りしめていた。
雪乃に対して申し訳ない気持ちが押し寄せてくる。
自分の姉がいなければ……義兄と出逢っていなければ今頃雪乃はしあわせだったろう。そして雪乃のお母さんも……。
それは俺にどうすることもできないかもしれないけど、罪悪感を抱かずにいられなかった。
「お父さんのことは憶えているの?」
姉から、雪乃は義兄のこと憶えてなかったようだと聞いていたから気になって尋ねてみた。
小さく雪乃がうなずく。
義兄の記憶はあるようだった。母親との離婚当時のことも詳細に憶えている。
意識が戻った時はパニックを起こして記憶障害が発生したのかもしれない。
落ち着いている今、義兄を見れば自分の父親だと認識できるような気がした。
もちろん素人判断だから決めつけてはいけないけど、全く記憶がないわけではない。
それだけでも俺を安心させるだけの要素は充分にあった。
ベッドに横になって目を潤ませる雪乃の頭をそっと撫でてやると、猫の子のように気持ちよさそうに目を瞑った。
「おかしいですね……見ず知らずの人に……こんな……」
「いや、見ず知らずじゃないよ。俺は君の恋人なんだから」
「……やだ、まだ言ってる……そんなの信じませんったら」
くすっと笑い声を上げる雪乃に驚いて目を見張る。
すると雪乃も驚いたような表情で俺を見ていた。
「どうして信じてくれないの?」
なるべく怖がらせないよう、でもその否定的な気持ちが悲しくて苦笑いしかできず微妙な感じで問う。
雪乃は少し膨れた表情で「んー」っと小さく唸り声を上げた。
「だって……あなた素敵だし……わたしなんかを相手にするような人じゃないでしょう?」
「なんか、って言ったな」
「――――った!!」
あ、やば。
つい今までの癖で軽くデコピンしてしまった。
「いたあい……ひど……」
「ごめん、今までもそうやって君が自分を卑下する発言をするたびデコピンしてたもんだからつい……ごめんね。痛かった?」
「卑下じゃないです。本当のことを……」
額をさすりながら雪乃が唇を尖らせてそう言った。
「卑下だよ。君は“なんか”じゃない。俺は君を愛しているんだ。結婚したいと思っている」
ひえっ! と雪乃が小さく驚きの声をあげた。
口をパクパクさせて真っ赤になった顔は金魚のようだった。
「なにを言って……わたし、あなたの名前すら……」
「翔吾、雨宮翔吾だよ。覚えて」
「あめみ……や、さん」
「翔吾」
「しょ……ご……さん」
ああ、まるで最初に名前を呼ばれた時のように胸が高鳴る。
雪乃が初めて俺の名前を口にしてくれた時、本当にうれしくてずっとそうやって呼んでほしいと心から願っていた。その呼び方を今、雪乃がしてくれている。
「雪乃、愛してる」
「え……やあ……やめ……」
立ち上がって顔を近づけると、逃げられない雪乃が布団を口元まで引っ張りあげた。
そこに隠れたいんだってすぐにわかっておかしくて……笑いを堪えるのに必死だったんだ。
目をしっかり閉じて小さく震える彼女が愛しい。
無理をさせてはいけないことは百も承知だから、そっとその額にかかる髪をかきあげてそこに口づけを落とした。
ちゅっとわざとリップ音を立ててやると、びくんっと身体が反応を示す。
「ふわあ……なにをして……」
「キス。本当は唇にしたいところを我慢して額なんだからね」
「……あの、わたし、こういうの、初めてで……そゆの慣れてないから……」
しどろもどろになって真っ赤な雪乃を見て思わず笑ってしまった。
もう我慢できなかった。それでも大声で笑うのは堪えたつもり。
「初めて、じゃないよ。もう俺は君に何度もキスをしているんだ。額にも頬にも、もちろん唇にも」
「嘘っ! そんなの信じません!」
雪乃の顔が茹でタコのように真っ赤になってしまった。今はこれ以上刺激を与えない方がいいだろう。
本当はその胸にも、大事な部分にも……この唇で触れていない部分はないんじゃないかって言おうと思ったけど自重する。
「そっか。じゃもう一度はじめから、だね」
「……はじめ、から?」
「そう。雪乃、君にはもう一度俺に恋してもらうから覚悟して」
「……!?」
あっけに取られた顔で驚きを隠せない雪乃が小さく首を振る。
唇は小さく“ムリムリ”と動いている。ビックリしすぎて声も出せないようだ。
無理なんかじゃないよ、雪乃。
もう一度、最初からやり直しだ。俺は絶対にもう一度君を振り向かせてみせる。
記憶を無くした雪乃につけ込んでいるだけ。
そんな思いが頭をかすめる。俺は最低なことをしているのではないか、と自問自答する。
そうするしか雪乃に接することができないなんて情けない……けど。
これは神様が与えてくれた大きなチャンスのような気がして、しょうがなかったんだ。
**
雪乃が眠ったのを確認してから病室を出ると、義兄が扉口の横に寄りかかって立っていた。
それにビックリして少し身を引くと、目を赤くした義兄が困惑顔で笑いかけてきた。
「翔吾くん、ちょっといいかな……」
促されるままナースステーションの並びの病室の最奥にある談話室に連れて行かれた。
そこには大きなテレビとその前にL字型に並べられたソファがあり、その後ろに椅子が四つセットで並べられたテーブルが四つ配置されている。
談話室に入って左壁の奥に三つ並んでいる自動販売機で義兄が缶コーヒーを買って俺に手渡した。
テレビの前のソファに姉とみゅうと悠斗しかいない。貸し切り状態。
不安そうな表情の姉が俺を見て小さくため息をついた。
談話室の入口に背を向けるようにテレビの前のソファに座る。
着いていないテレビの真正面側のソファに義兄、姉が並んで座る。みゅうはソファで義兄の上着をかけられてよく眠っていた。
雪乃の状態を訊かれたので、見たまま、ありのままの状況を伝える。
「俺のことも忘れているようだけど、拒絶はされていない。だから退院後は俺が雪乃を看る」
「翔吾くん、そのことなんだけど……」
「もう彼女と決めたことだから口出ししないでほしい」
義兄が何かを告げようとしたからその言葉を遮断する。
少し口ごもった様子で鼻で小さなため息をついたがそんなの構わない。なんとでも言えばいい。俺の意思は変わらない。
雪乃は義兄のことを憶えているようだ。
その事実を俺はかみ殺した。それを言って何が変わるわけでもない。
それを知った義兄は無理にでも雪乃に接触しようと試みるかもしれない。それだけは避けたかった。
これ以上雪乃に刺激を与えたくない。いや、本心はそうじゃない。
義兄の記憶があって、俺の記憶がない。
その事実に敗北感のようなものを感じていたんだ。ただの嫉妬に過ぎない。
だけどそんな俺の中のどす黒い気持ちを認めたくなかった。知られたくなかったんだ。
「翔吾。でもね、ちゃんと雪乃さんのお母さんに伝えた方がいいと思うの。私も謝罪しに行かないとって思ってて」
――雪乃のお母さん。
その言葉を訊いて、思わず全身が震えてしまった。
この人たちは何も知らないんだ。義兄でさえも……。
そう思ったら目の前のふたりを傷つけたくて堪らなくなった。
「……ははっ、おめでたい人たちだよな。あんたらふたりさ、誰になにを謝罪するの? 雪乃のお母さん? いるならここに連れて来いよ。せいぜい眠っている墓に謝りに行くんだな。場所は落ち着いた頃、雪乃に訊いておいてやるから」
皮肉めいた言い方をしているのはわかっている。
だけどそういうふうにしか伝えられなかった。
このふたりがしたことの重大さを、雪乃のかわりに……義兄と姉の愛とやらを踏みにじってやりたかった。
「自殺したそうだ。あんたと離婚した三ヶ月後、だと」
義兄の顔がこの世の終わりのように青ざめ、上半身がぐらりと揺れた。
姉も息を吸い込んだままその後の呼吸を忘れたかのように固まっている。
「雪乃はそのことをちゃんと覚えていたよ。父親の顔は忘れていてもその悲しみや憎しみだけは忘れたくても忘れられなかったのかもな」
「ほんと……なのか?」
「ああ、本当だ。前に『お母さんに会わせて』と言った時、彼女は話を逸らすようにしてた。その意味が今日やっとわかった。いない母親にどう会わせろって思ったんだろうな。しかも今までそのことをひと言も言わなかった……」
ああっと姉が両手で顔を覆って嘆く。
今さら後悔してもしょうがないんじゃないか、そう思ったけどもう何も言う気はなかった。
あんたらは殺人者だよ。
喉元まで出た言葉を飲み込む。あとは自分達で罪の意識に苛まれればいい。
「翔吾くん……雪乃は……雪乃を……どう思っているんだ?」
震えた声で義兄が俺に尋ねてくる。
「あなたに報告する義理はないと思いますが、一応。俺は彼女を愛していますよ。誰が反対しようとも俺は彼女と結婚します」
ふたりの動きが完全に止まる。
これ以上ないというくらいできる限り冷酷な視線でふたりを交互に睨みつけた。
「そんなことより、どうして姉貴が社の傍にいたんだ? それになんで雪乃が事故に……みゅうを庇ってって言ってたけど?」
その時、俺は初めて姉が雪乃に二度も接触していたことを知った。
雪乃に自分の携帯のアドレスを渡したけど連絡をもらえなかったから、今日もう一度足を運んだとまで……。
雪乃と何を話したかったのかは訊かなかった。
こんな目に遭わせたのは自分のせいだと泣きじゃくる姉を義兄は優しく『そうじゃない』と宥めている。
結局義兄にとっては雪乃より姉なんだな。
こんな男の子どもに生まれてかわいそうだと心から思った。
俺に背を向けて姉の肩をそっと抱く義兄の右の頭頂部には、雪乃と同じ場所につむじがあった。
雪乃がそこを気にしている理由、そしてキライな理由を目の当たりにして冷ややかな気持ちになっていった。
雪乃に何度も母親に会わせるよう促し、最後のほうは咎めるような言い方をしてしまった自分にも酷く苛立ちを感じていた。
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