空色なキモチ

□ 満月の夜に見る夢は □

満月の夜に見る夢は 第5章 第58夜 記憶 

 
 姉から電話がかかってきて雪乃が事故に遭ったと聞いた。
 運ばれたのは職場のすぐ近くの湊総合病院で、出先からすぐにタクシーで向かった。


 なぜ姉が職場の近くにいる?
 どうして雪乃と接触している? なぜ彼女が事故に遭う?
 何を訊いても姉はパニック状態で埒が明かなかった。


 俺が姉の頼みを……雪乃に義兄と逢ってほしいと頼むことを拒否したから、直接接触を試みたというのか? ばかげている。


 一階の救急外来で彼女の名前を告げると、一足違いで九階の外科病棟へ移動したと言われた。
 エレベーターを待つのがじれったくて、非常階段で駆け上がる。

 息切れをしながら重い扉を開けて病棟内に入ると、目の前にエレベーターホールと、その右にナースステーションと書かれていた。
 ナースステーションには小さな小窓の着いた受付があり、そこにいた事務服姿の女性に雪乃の名前を告げる。すると、ナースステーションの右隣の個室だと教えてもらえた。
 

 『九〇一号室:風間雪乃殿』

 そう書かれたネームプレートを見て身体が凍りそうなくらいひやっとする。
 事故の事実を受け入れなければならない瞬間だった。


 ノックもせずに病室の扉を開けると、入口付近につっ立っていた姉が驚きの表情で振り返った。
 その顔は涙に濡れていて、胸が張り裂けそうなくらい不安が押し寄せてくる。
 姉の胸元には悠斗が抱かれていた……子どもまで一緒になにをしてるんだ。


「雪……彼女は?」


 入口からは雪乃のいるベッドは見えなかった。
 姉は俺から目を逸らして、病室の中の方へ視線を落とす。
 なるべく足音を立てないようにして中に進むと、雪乃が寝ているベッドの右側に義兄が座って彼女の手を握っていた。

 左のこめかみの辺りに小さなガーゼを貼られ、両頬と顎の辺りに擦過傷が見られた。だけどそれ以上の治療の形跡は見られなかった。

 だからただ、目を閉じているだけのようにしか見えなかったのだ。


「ゆき――」
「翔吾くん……」


 義兄が震えた声で俺の呼びかけを遮る。
 酷く青ざめた表情で俺を見上げて首を横に振った。

 雪乃の意識はないようでしっかり閉じられた瞳と唇の青さが俺の不安を駆り立てた。
 義兄のいない雪乃の左側のベッドサイドに歩み寄り、彼女の頬に指の腹で触れると暖かくて少しだけほっとする。

 だけどその思いは義兄の言葉によってすぐに覆された。


「雪乃……記憶を失っているようなんだ」





 言っていることの意味がわからなかった。

 記憶を失っている? どういうことだ?
 記憶なんて簡単に失えるものなのか? そんなことあるわけないだろう。


 
**


 少し前に雪乃は一度目を覚ました。

 姉を見て、そして義兄を見てパニックになったそうだ。
 義兄が名前を呼んで抱きしめたらさらにパニックを起こして鎮静剤を打たれた――


 そして今、再び眠りについている。


 その時、叫んだ言葉。


『知らない! 知らない! 誰だ! 出ていけー!!』


 それはもう半狂乱のようだったと言う。
 
 本当は雪乃が目覚める時にここにいないでほしいと医師に言われているそうだ。
 だけど、義兄が立とうとしない。雪乃の手を握って離さない。

 姉が震える声でそう告げた。


**


「今さらなんじゃねーの?」


 思わず俺の口からその言葉が出た。
 義兄の顔が苦しそうに歪み、充血した赤い目で俺を睨みつける。きっと泣いたんだろうとすぐにわかる目だった。


「今さら父親ぶんなっての! 雪乃を捨てておいて今さらなんだよ!」

「翔吾! よしてよ……そんな……」

「姉貴もだ! 本当に悪いと思ってんのかよ? 雪乃にも……お母さんにも――」
「うえーん!」


 子どもの泣き声で我に返る。
 病室の窓際の方に向いていたソファに寝ていたみゅうが俺たちの言い争いに驚き、起き上がって泣き出した。

 一瞬にして言い争いが中断され、みゅうの泣き声だけが病室に響き渡る。


「ごめんな。起こしちゃったな」


 義兄が雪乃の手を離してソファのみゅうへ駆け寄って行く。
 結局そんなもんだよな。こんな時でも雪乃よりみゅうのほうが大事ってわけだ。
 雪乃とその母親が不憫でしょうがなかった。無意識に薄ら笑いを浮かべてしまう。


「もう出て行けよ。あんたら雪乃に必要ねーよ」


 みゅうを抱き上げてあやす義兄の背に向けて言い放つ。
 その背中が妙に小さく見えた。


「雪乃さんはみゅうを庇って……事故に遭ったのよ……」


 震えた姉の声を信じられないくらい冷静な気持ちで聞いていた。

 雪乃がみゅうを庇って事故に……。
 それがとっても雪乃らしくて、知らずうちに俺は笑っていた。


「だから起きるまで傍に……」

「起きたって記憶がないならしょうがないだろ? 余計混乱起こさせるんじゃないのかよ」


 胸元の悠斗をぎゅっと抱きしめて身を縮める姉も、みゅうをあやす義兄の存在もうざったかった。
 無性に雪乃とふたりになりたかった。

 出て行け! 出て行け!
 
 その思いは口にせず、半ば強引に病室から追い出した。


 
 静かになった病室。雪乃とふたり。
 雪乃の意識はなくて、その顔色はひたすら悪かった。唇も青く、しっかり閉ざされている。
 病院特有の匂いがする。こんな匂いの場所に雪乃を寝かせているのが申し訳ないとさえ思えた。

 だけど……やっとふたりきりになれた。

 それだけでなぜか心は少しだけ満たされた。雪乃に笑いかけてみせるけど、頬が強張った。
 もちろん反応があるわけがない。だけど、笑いかけたかったんだ。
 雪乃を見て、笑顔を返したいってずっと思っていた。最近目を合わせることもできなかったから。

 雪乃がこんな目に遭ったのは俺の家族のせいだというのに。
 申し訳ない、心からそう思う。俺なんか傍にいないほうが雪乃にとってはしあわせなのかもしれない。

 それでも一緒にいたいと願ってしまう。

 それはとても傲慢で許されないことなのかもしれない。目を覚ました雪乃は拒絶するかもしれない。
 だけどもしかしたら、こうして俺がいることを受け入れてくれるかも――

 小さく自嘲する。そんなことはありえない。

 わかっている。でも、今だけはこうして傍にいることを許してほしい。
 君が拒絶するのならすぐに出て行く。だけど今だけは……意識が戻るまでは傍にいさせて。


 パイプ椅子を雪乃のベッドサイドに近づけて座る。
 点滴の入った左手を握りしめたけど反応はない。
 その時、ひとつの可能性を思い、胸の奥が冷える思いがした。


『雪乃……記憶を失っているようなんだ』


 義兄の言葉を思い返す。
 雪乃はもしかして、俺のことも忘れてしまったのだろうか? 

 
 目が覚めるまで不安でしょうがない。
 だけど焦ってもしょうがない。雪乃が目を覚ますまでは待つしかないんだ。

 ぎゅっとその手を握りしめると、ピクリと雪乃の指が小さく動いた。


「雪乃……?」


 重そうな瞼がゆっくり開いてゆく。
 意識が戻った? それがうれしくてもどかしくて、椅子から立ち上がって顔を覗き込むと、雪乃の綺麗な瞳がじっと俺を見つめた。

 何度も瞬きを繰り返す雪乃。
 だけど俺から一瞬たりとも目を逸らしたりしなかった。それがうれしくて。

 両手で雪乃の左手を握りしめてうなずくと、たどたどしくその唇が動いた。
 小さな掠れた声が言葉を紡ぐ。


「だ……れ?」


 雪乃の少し垂れた目尻から大粒の涙が零れた。

 安堵と絶望がない交ぜになったような衝撃が襲う。
 だけど、生きている。 


 その涙を指でそっと拭ってやると、雪乃はびくりと身体を強張らせた。


「雨宮翔吾。君の恋人だよ」


 その手で頭を撫でてやると雪乃は驚いたように息を吸い込み、小さく首を振った。
 再び泣きそうな表情で俺を睨み上げる。


「うそ……恋人なんて……いない……」


 わなわなと唇を震わせて涙を流し続ける雪乃。
 鎮静剤を打たれて思うように身体が動かないのか、首だけををふるふると震わせて俺を凝視する。
 手の甲でその頬をそっと撫でると再び身体を強張らせた。


「本当だ。俺は君の恋人だよ。そんなに怖がらないで。大丈夫だから」

「や……触らないで……」

「どうして? 俺は君のことが大好きだから……触れていたいんだ」


 雪乃の顔が歪んでいく。俺の目は白っぽい膜が張ったかのように潤んでいて視界がぼやけていた。
 もっとしっかり雪乃を見たいのに……。

 すると雪乃の目がこれでもかってくらい大きく見開かれたのに気づいた。
 片手で握りしめ続けていた雪乃の左手が動く。その手が俺の手を少しだけ強く握りしめた。


「どうして……泣くの?」


 心配そうな表情の雪乃が俺の顔を覗き見る。
 事故に遭った雪乃が俺の心配をしている。立場が逆なはずなのに、彼女に慰められてうれしいような恥ずかしいような気持ちでいっぱいになった。


「君が無事で……うれしくて……」

「へんな……ひと」

「そう? へん? でも別にいいよ」


 雪乃の左手を持ち上げて、その甲に口づけを落とすと「ひゃっ」と小さく驚きの声をあげた。
 だけど手を振り払うまではされなかった。きっと身体が痛いのだろう。

 俺の顔を見ても雪乃はパニックを起こさないでいてくれた。
 それだけが救いだった。歓喜で胸が震えた。

 たとえ俺のことを憶えていなくても……。


 さっきまであんなに青ざめていた顔が一気に朱を帯びている。
 何度も瞬きを繰り返し、躊躇うように視線を逸らす雪乃。
 そんな彼女がかわいくて、本当は唇にキスしたかった。


 いつかこの思いが君に伝わる日が来ると信じて。
 祈るような思いでその手をきつく握りしめた。



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Date:2013/03/01
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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