四月になって新入社員が入ってきた。
今は研修期間になる。配属はもう少し先のことだろう。
今年、営業部事務の女性社員が配属されるかもわたしが異動になるかもまだわからずじまいだった。
南雲係長には期待せずに待ってと言われていたからしょうがないけど……。
翔吾さんとはほとんど話していない。
仕事は頼まれるけど、大体メモをデスクに置いておいてくれるから話さなくてすむ。
こうしてだったら仕事を続けられるかもしれない。でも異動できるなら、それに越したことはないだろう。翔吾さんのためにも、そして自分自身のためにも。
こうやってずっと気にして仕事していく重圧に耐えられそうにないから。
「ゆきおねーちゃん♪」
終業時間が過ぎて会社を出ると、聞き覚えのある高くて澄んだ声がわたしを名を呼んだ。
パタパタとかわいらしい足音を立て、三つ編みを揺らしながらこっちに駆け寄ってくるのは紛れもない、みゅうちゃんだった。
どうしてこんなところに……この子が?
再び会社の前に翔吾さんのお姉さんがわたしを待ち伏せしていたのだ。
胸には下の子を抱いている。なんて人なの。めまいがしそうなくらい腹立たしかった。
すでに辺りは暗くなっている。こんな小さい子を連れてくるような場所じゃないはず。
「ゆきおねーちゃん!」
ぎゅうっとわたしに抱きついてくるみゅうちゃんを無碍にできず困惑していると、お姉さんがゆっくりとこっちへ近づいてきた。
みゅうちゃんを連れてくるなんてずるい。わたしの心の中にどす黒い雲みたいなものが浸透していくような気がしていた。
「雪乃さん、お話ししたいの」
「無理です」
「お願い、少しでいいの」
翔吾さんのお姉さんの胸元で眠る赤ちゃん。この子も父の血を引いているのだろう。
そう思っただけではらわたが煮えくり返りそうになった。
みゅうちゃんがしきりにジャンプしてわたしの意識を自分に向けさせようと必死になってる。
この子にもその胸に抱かれている子にも罪はない。
「みゅうちゃん、ほら、ママの手を握らないと」
なるべく冷静にみゅうちゃんを自分の身体から遠ざける。
躊躇うようにみゅうちゃんは翔吾さんのお姉さんの手を握った。
「いい加減にしてください。迷惑です」
「お願い……あの人に逢ってほしいの……」
「は?」
「あなたのお父さんに……逢ってあげてほしいのよ」
この人は何を言っているんだか。
あまりにも身勝手すぎて相手にするのもバカらしくなった。
「父はいません。死にました」
「雪乃さん!」
「逢う人なんていません。それでは」
会社の前の信号が赤になりそうになっている。
そこを渡ってしまえば子連れのこの人は追いかけて来れないだろう。
「雪乃さん! 待って!」
「ゆきおねーちゃん!」
後ろでわたしの名を呼ぶふたつの声。
もういい加減にして……関わらないで……わたしの人生に足を踏み込まないで。
小走りで横断歩道を駆けていく……と。
「――――みゅう!!」
翔吾さんのお姉さんの叫び声。
それは愛する子どもを呼ぶにはありえないくらい切羽詰った大声で、まるで断末魔の叫び――
それに驚いて振り返ると、赤信号の横断歩道をこっちへ向かって駆けてくるみゅうちゃんの姿。
それはまるでスローモーションのように見えて。
泣きそうなみゅうちゃんが両手を広げてこっちに必死で駆けてくる。
だけど左からまぶしいくらいの光に照らされて、その姿は一瞬見えなくなった。
「みゅうちゃん!!」
「ゆきおねー……」
煩いくらいのクラクションが耳を劈くように聞こえる。
お願い! 間に合って! その思いだけがわたしの足を動かした。
ドン!! と鈍い音と共に衝撃が、走る。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
胸に抱いた小さな大切な命が、失われませんように。
そう祈ることしかできなかった。
その時、わたしは思い出していた。
あの時のことを……そして、母のことを。
→ NEXT→ BACK
Information
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学