おまえなんて呼ばれたの初めてだと思う。
口元だけは笑っているように見えるし、目は酔っているのだろう……トロンとしていて眠そうだ。
でも、確実にその瞳の奥には憤怒が見て取れる。
「……俺に隠してること、あるだろ?」
「え?」
「か・く・し・ご・と」
ローテーブルの上に何かが置かれた。
それはわたしの鞄の中に入れておいたはずのピルが入った薬の袋。
一瞬目の前が暗くなって、身体がぐらりと揺れたような感覚がした。
「――!? どうして?」
「それはこっちが訊きたい」
少しも悪びれず翔吾さんが立っているわたしを上目遣いに見て、片方の口角を上げた。
今ちょっと前に見せていたの眠そうな目はすっかり消失している。
だけどその瞳に宿る怒りは消えるどころかさらに激しく燃え盛るようだった。
そんな笑い方するんだ……バカにされたようで少しショックだった。
こんな翔吾さんを見るのは初めてで、戸惑いを隠しきれない。だけど、勝手にされたことに対して苛立ちがふつふつと湧き上がるのも事実。
とりあえず、自分が落ち着かないと口論になるだけだと思って心の中で一度小さく深呼吸をする。
声を出そうとして、一瞬、喉の奥に何かがこみ上げてくるような違和感を覚えた。
「鞄の中、見たんですか?」
「見たんじゃない。鞄を蹴っ飛ばしちゃって中身が飛び出したから拾っただけ」
「見たんじゃないですか」
「それを見たというなら見たよ」
明らかに怒っている。と、いうことは中身が何の薬かもわかっているということだろう。
その薬を取って鞄の中に押し込む。
そのままソファには座らずラグの上に正坐して、鞄の中を見るように俯くことしかできなかった。
――――帰りたい。
でも今帰ると言ったらきっとさらに機嫌が悪くなるだろう。
「そんなに俺の子どもできるのいやなの? だったら言えばいいのになんで言わないの? こんなふうにこそこそ」
ローテーブルに飲みかけのビールの缶が乱暴に置かれる。
その音にビックリしてわたしは身体をすくめてしまった。
言うも何も……そう言おうとして顔を上げると、悔しそうな嘆声が聞こえた。
「なんで俺と姉貴を別に考えてくれないんだよ……」
前髪を掻きあげながら自分の膝に肘をついて悔しそうにつぶやく翔吾さんがいつもより小さく見える。
また、喉元の辺りに胸の奥から何かがせり上げてきた。それが苦しい。
わたしだってそうしたい。でもできない。
だってどう考えたって翔吾さんはあの人の弟なんだもの。
「俺が、嫌い?」
そんなわけない。
口から出そうになった言葉に嘘はない。でも言ってしまったら……。
「俺が、雨宮の家と絶縁すれば……許してくれる?」
「ダメ!!」
「じゃあどうすればいいんだよっ!!」
翔吾さんが泣きそうな声で怒鳴った。
心からの叫び声。こんな声を荒らげる翔吾さんも初めてだった。
わたしは今まで翔吾さんの何を見てきたんだろう? こんなにも感情を露わにするなんて。
そしてそれをさせているのが自分だと思うと、苦しいような切ないような申し訳ないような気持ちに苛まれる。
「どうしたら雪乃は俺を許してくれる? どうすればいいのかわからないから教えてほしい……」
頭を抱えて小さく肩を震わせる翔吾さんの切なげな声。
それだけで彼の混乱や戸惑い、やるせない思いが痛いほど伝わってくる。
そんなのわたしだって知りたい……。
でもどうしても父もあの人も許せない。その関わりのある人だって。
「……翔吾さんは悪くないです」
「……」
「悪いのは、わたし……かもしれません。でも! これだけは曲げられないです」
母のためにも、父と関わりのある人とは今後一切関わりを持たない。
これはあの時、自分の中で決めたこと。
だから父にも伝えていないのだから。
「だから俺が……」
「あなたがあの人の弟って事実は何をしてもかわらない!」
「雪乃……頼むよ……そんなこと言わないでくれ……」
お互い泣きそうな表情になっている。
翔吾さんがわたしのほうに近づいてきて目の前に跪く。
わたしの身体を足で挟むようにしてゆっくり体育座りの体勢を取り、その胸に抱き込まれた。
肩に翔吾さんの額がのせられている。
それはとっても熱くて、身体は小さく震えていた。
「……俺、雪乃がいないと……生きていけない……」
「……」
「雪乃は……俺がいなくて……生きていける?」
なんでその質問なのかわからない。
生きていけないって言ってほしいのだろうか? そんな言葉は負担になると思うのに。
誰かに依存して生きていこうなんて思い、あの時に捨てた。
だって、もう何年もひとりなのだから。
だからこれからだってずっと、そう思って生きてきたのに……そこに入り込んできたのがこの人。
「生きて、いけます」
生きていけないと思っても生きていくしかないんだから。
翔吾さんの身体に力が入り、ぎゅっと強く抱きしめられた。
そして、ゆっくり離れる。
肩に優しくのせられた手。そこからじんわり伝わってくる温もりが少しだけ重く感じた。
「……ごめん。わかった」
俯いたままゆっくり立ち上がる翔吾さんをわたしはじっと見つめていた。
前髪に隠された瞳の奥は窺い知ることはできなかった。
「連れてきておいて悪いけど、ひとりにしてもらって、いい?」
わたしの返事を訊く前に、ふらりと背中を向けて寝室のほうへ翔吾さんが歩いて行った。
その背中をただ見つめてうなずく。
寝室の扉の前で少しだけこっちを振り返り、翔吾さんが小さい声で言った。
「帰るなら、タクシー使って。財布、鞄の中に入ってるから」
パタンとすぐに閉められた扉は、永遠の別れを表しているようだった。
これでいい。
きっと間違ってなんかいない。
父とあの人が一緒になった時点で、関わる運命じゃなかったんだ。
それなのに、神様が間違えてわたしと翔吾さんを逢わせてしまった。それだけのこと。
ただちょっとだけ、いい夢を見させてもらっただけ――
私服に着替え、今着ていた室内着を鞄に詰め込む。
なぜか動きが緩慢になってしまう。
気持ちとは裏腹に、この場所から……ううん、翔吾さんから離れたくないという意思の表れなのかもしれない。そう思ったら情けなくなって涙が出そうだった。
自分が手離したくせに、泣く資格なんてないのに。
リビングの電気を消してから静かに翔吾さんの家を出る。
扉についている郵便受けの中に合鍵を落とすと、かすかな金属音がした。
もう、ここにくることもないだろう。
時計を見るとまだ二十二時前だった。
タクシーを使うよう言われたけど、まだ早い時間だから電車を選ぶ。
駅前は、サラリーマンの人だかりやカップルが多くてひとりで歩いている人がほとんどいない。
急に身を切り裂かれるような寂しさを覚えた。
そして無意識に身体が震えた。
無性に母に会いたかった。
会いに行こうか迷ったけど、この時間じゃ無理だ。もう、会えない。
真っ直ぐ家に帰って、ベッドに寝そべり携帯でネット小説を読む。
楽しみに読んでいたお話が終わってしまった。もちろんハッピーエンド。
いっぱいすれ違って誤解して何度も別れたけど……最終的にふたりは結婚した。
「よかったねー……」
つい声が出てしまう。
結婚ってなんなんだろう。よくわからない。
永遠の愛を誓って一緒になったのに、別れる時は別れてしまう。
父と母だってそうだったはずなのに、あっけなく別れてしまった。
そんな両親を見ていてどうして結婚に夢や希望を抱けるのか? ううん、抱いていない。
そもそも一生続く愛なんてあるわけないのだから……だったら早いうちに離れた方が傷は浅くてすむ、はず。
――――なのになぜ、こんなに涙が溢れるのかわからない。
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