翔吾さんの家の玄関に立っている女の人。
そしてその女の人の前に立ちはだかる翔吾さんの姿。
わたしの胸には、甘い香りのみゅうちゃん。
一瞬でわかった……辿りついた真実。
***
夏の暑い日だった。
母がクーラーの風に弱くてほぼ使ってない状態のこの家は、常に古臭い扇風機が回っている。
それが忙しなく首を振り、風を生み出す。その音すらも煩わしく感じた。
外ではセミがうるさいくらい騒いでいて――
『妊娠三ヶ月なんです』
ふすまで仕切られた部屋の向こうから、女の人のすすり泣く声が聞こえてきた。
わたしはその時の状況を全く知らない。
客間に父と母、そしてその若い女性の三人で閉じこもり、わたしは蚊帳の外だった。
だけどその女の人の震える声はよく聞こえていた。
背筋につうっと流れる汗。
わたしの父は銀行の支店長をしていた。
見合いで母と結婚したとは小さい頃に聞いた。
両親とわたしの三人暮らし、仲はいい方だと思っていた。
箱入り娘で、料理も掃除も家事全般が苦手な母に父が根気よく教えた。
父が作る料理はなんでも美味しくて、その中でも茶碗蒸しは天下一品だった。
母は何度も教わってその味を習得していた。
そんなささやかながらもしあわせな家庭だったのに――
父が浮気した。
しかも自分より二十歳も年下の女と。
相手は同じ銀行の受付の女性だった。
わたしが十七歳、高校三年生の時に発覚した事実。
相手は二十四歳、父よりもわたしとの方が年が近いような人に父を奪われた。
ハンカチで涙を拭いながら父に肩を支えられて出て行くあの女の人の顔は一生忘れられない。
憎悪の目でわたしが睨んでいたのをたぶんあの人は見ていたはず。
それなのに……父を当たり前のように連れて出て行った。
あの時の、ひと。
***
「雪乃さん……ですよね?」
躊躇うように強張った表情をわたしに向けてその人は訊いてくる。
この人が、翔吾さんのお姉さんだった……。
父とともに出て行った時よりも少しふっくらしているように見える。
でも間違いない。この顔だった。そしてこの人もわたしを憶えていた。
もしかして、翔吾さんはこのことを知っていた?
だから、しきりに『お母さんに会わせて』と言い、父のことは何も訊かなかった――
「みゅうちゃん、お迎え来てるから、ね」
そっと抱きしめていたみゅうちゃんの身体を離す。
この子は、わたしの妹?
この子ができたから、わたしとは母は捨てられたの?
「ゆきおねーちゃん、またあえるぅ?」
そう言ってわたしの顔を見つめるみゅうちゃんのおかげでふと我に返れた。
大粒の涙をポロポロと零して鼻をすするこの子は本当にかわいくて愛しい。
お姉ちゃん、昨日からずっとそう呼んでくれていた。
むず痒いような、でも……うれしくて。
だけど今は、全く別の感情を抱いていた。
うれしさは一気に萎え、むしろ嫌悪感が……募る。
「ん、どうかなぁ……わからないや。ごめんね」
「やだあ! ゆきおねーちゃんともっとあそぶぅ!」
こんな時、また会えるよって言ってあげられれば納得したかもしれないのに。
そんなこと言えなかった。
言えるはずもなかった。
わたしはあの人を憎んでいる。
当然あの人と父の子だって……。
立ち上がってみゅうちゃんの肩を押す。
玄関にいるお母さんの元へ誘導する間、わたしはずっと廊下のフローリングを見つめていた。
誰の目も見たくなかった。誰とも口を聞きたくなかった。
「あの……雪乃さ……」
「じゃあね、みゅうちゃん」
あの人に何か言われるのもいやだった。訊きたくなかった。
わざと言葉を遮り、みゅうちゃんに話しかけた。
みゅうちゃんが真っ赤な顔でわたしを見上げている。
そのみゅうちゃんに苦笑いを向けるのがせいいっぱいだった。
小さな柔らかい手を離し、わたしは踵を返してリビングへ引き返す。
「――――雪乃さん!」
「悪いけど、帰ってくれ」
背後であの人と翔吾さんが言い合っているのが聞こえる。
聞きたくなくて、わたしは開け放たれていたリビングの扉を閉めた。
「みゅう、帰ったよ」
なぜかわたしは寝室のベッドとクローゼットの間に体育座りでいた。
全くの無意識だった。
「どこか出かけよう。映画行こうか?」
「……」
ベッドがギシリと軋む音がして、翔吾さんが乗ったんだってわかる。
わたしのほうに近づいてきて、頭を撫でられた。
しかも、右の頭頂部のつむじの辺りを……。
「――――触ら、ないで」
その手を跳ね除けて翔吾さんに背中を向ける。
胸の奥がモヤモヤして落ち着かず、ずっと心臓がドキドキと強く早く拍動していた。
何も考えたくなかった。ほっといてほしかった。
しばらくひとりでいたい。
膝を抱えてそこに額を乗せて縮こまると、小さなため息が聞こえてきた。
「――雪乃」
大好きなバリトンの翔吾さん声。今はほしくない。
この人が悪いんじゃないってわかっている。
でも知ってたのならなぜ教えてくれなかったの? その思いしか浮かんでこない。
もしかして……。
いやな思いがわたしの心の中を駆け巡る。
ドクン、ドクンと心臓の音が煩い。考えがまとまらなくなる――
「雪乃、あのさ……」
申し訳なさそうな翔吾さんの声。
もしかして、この人はわたしのことなんか好きでもないのにつき合ってくれているの?
お姉さんのしたことの、つぐないで。
右肩に手を置かれ、背筋がぞくりとした。
「触らないで!」
叩くように勢いよくその手を振り払う。
翔吾さんの表情に驚愕と悲哀を感じた。
涙が出そうで必死に堪えて唇を噛みしめる。
すくっと立ち上がって、目の前のクローゼットから着てきたコートとバッグを取り出し、素早く着込んだ。
「雪乃?」
翔吾さんに名を呼ばれても顔も見たくないし声も聞きたくなかった。
ショルダーバッグを肩にかけて、足早に寝室の出口へ向かう。
「待ってよ、雪乃」
ベッドから飛び降りた翔吾さんに後ろから抱きしめられた。
身をよじって抵抗するけど、強い力に抱きしめられて全く動く気配はない。
足を踏み出そうとしても一歩も出ない。
「離して、ください」
「ちゃんと話しをしよう、頼むよ」
「いや!」
堪えていた涙が頬を伝った。
つぐないなんか、いらない。同情なんて、ほしくない。
「雪乃っ……頼むよ、話をさせて」
「いやだったら!」
振り払おうとしてもわたしの抵抗なんて全く意味を成さない。
なんてちっぽけな人間なんだろうって自分がどんどんいやになっていく。
徐に身体の向きをかえさせられ、向き合う形になって抱き寄せられる。
「逃げるなよ……」
「……逃げてなんか、ない」
「じゃ、なんで出て行こうとする? おまえの居場所はここだろう?」
――――違う。
わたしは間違えていた。ずっとここにいていいんだって思い込んでいた。
ここにいてはいけない。わたしの居場所なんかじゃない。
この人との幸せを考えたこともあった。ううん、夢見てた。
だけど、この人との未来はいつも見えなかった。想像もできなかった。
考えても靄がかかって、全く見えない。
ようやくそれの意味がわかった。
わたし達は一緒になれない運命だったんだ。
「……いらない」
「え?」
「居場所なんかいらない! わたしは一生ひとりでいい!」
そう叫んだ途端、唇が塞がれた。
後頭部を大きな手が包み、顔を持ち上げられて固定されている。
押し当てられるだけの唇は熱くて、少し乾いていた。
何度も胸を押して離れようとした。
首も何度も振って、唇を離そうと努力した。
だけどその力は全く緩まなくて、強張ったわたしの全身から自然に力が抜けるのは時間の問題だった。
その時を待っていたかのように、翔吾さんの唇が離れる。
やっと解放される、そう思ったのもつかの間。
わたしの目の奥を覗くブラウンの瞳が再度近づいてきて唇を重ねる。
唇の隙間から舌が入り込んでくる。
もう抵抗する気力も残っていなかった。
わたしの口の中を翔吾さんの舌が泳ぐように動く。
静まり返った部屋の中で聞こえるのは、濡れた音と喉元でくぐもる自分の声だけだった。
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