「お母さん、助けて!」
家の近くの山にある浅い川岸で見つけたずぶ濡れの白い子犬。
後ろ足から出血し、お腹にも傷があるようで血がにじんでいた。
その子を抱き上げて着ていたカーディガンにくるんで家まで必死で運んだ。何度も転びそうになりながら、それこそ山を転がり降りる勢いで。
犬を抱きながらよく効くと言われている薬草を摘んで帰ってきた。これを使えば治るはず。前に怪我したうさぎもお母さんは治してくれたもん。
「治るけど、この子は……」
「お願い! 早く治して!」
苦しそうに小さな声でうなり声をあげる子犬を見たお母さんが躊躇うようにして手を伸ばした。
その時はなんでお母さんがすぐに手を差し伸べてくれなかったのか理解できなかった。
その子は少しずつ回復していった。
最初は水すら拒んで口にしなかったけど、お母さんが教えてくれたように少しずつ根気よく飲ませたら次第に自ら飲むようになっていった。
わたしにもお母さんにもよく懐いてくれた。最初引きずっていた足もみる間によくなっていった。幸い腹部の傷はすりむいた程度で内臓の損傷はなく、大事には至らなかった。
「この子『太陽』って名前にした。目が太陽の光みたいにきれいだもん。うちで飼っていいでしょ?」
お母さんは逡巡して「そうね」と言った。
許可が出たと思って喜んだのもつかの間、続く言葉は期待していたものではなかった。
「幸音の気持ちはとてもよくわかる。でもこの子のお父さんもお母さんも心配しているの。わかるでしょう。家にいるよりお父さんとお母さんのところへ帰りたいと思っているはずだわ」
治ったから山に帰してあげよう。
最後まで言われなかったけど、お母さんの言いたいことがすぐにわかってしまった。
「太陽はお父さんの生まれ変わりかもしれないよ。それにまた怪我しちゃうかも……だったら家にいたほうが――」
「じゃあ、こうしましょう。しばらく庭にこの子の小屋を置く、もし自然にいなくなったら本当のお家に帰ったと諦めるの」
うなずくしかなかった。
お母さんが『太陽』ではなく『この子』と呼んでいる時点で受け入れていないことがわかったから。
怪我が完全に治った太陽は元気に庭を駆け回っていた。
わたしは太陽がいなくなるのが怖くて縁側に布団を敷いて小屋で眠る太陽を見ながら毎日眠りに落ちた。
繋がれていない太陽が静かに庭から消えるのは簡単なこと。
だから朝目が覚めた時、小屋に太陽の姿があるのがうれしくてしょうがなかった。太陽はわたしの顔を舐めて起こすこともあった。
こんなに懐いてくれているんだからいなくなるわけがない、絶対に。
そう思っていたのに、それからまもなくして太陽はわたしの前から姿を消した。
「お父さんとお母さんの元へ帰ったのよ」
お母さんの言葉はわたしの救いにもなったけど、喪失感も容赦なく与えた。
数日泣き続けたわたしの目は見るも無惨に腫れた。
***
あれから、すぐには思い出せないほどの年月が経っていた。
子犬かと思っていた太陽は狼で、わたしの頭に人間の言葉で語りかけてきている。
あの時お母さんが躊躇っていた理由が今はっきりとわかった。
太陽が犬ではなく狼だとわかっていたから――
――ゆきね
名前を呼ばれている。
驚きのあまり声なんかでなくて返事すらできない。
足が、というより膝が震えて立っているのも必死なくらいわたしは太陽から目を逸らせなくなっていた。
くぅ、と小さな声をあげながら太陽が近づいてくる。
怖いわけじゃない。むしろわたしだってずっとずっと会いたかったんだから。
「た、いよ」
わたしの手に太陽がすり寄る。
ふわふわの毛だけど昔より少しだけ堅くなったような感触。
――ぼくに またがって
すい、と太陽がわたしの前に出て座る。
またがるって馬に乗るみたいに?
確かに太陽は大きい。大型犬よりもかなり大きめだし立ち上がったら二メートル近いのではないかと思う。だけどわたしだって体重はある方だし乗ったら潰れてしまうかも。
――はやく
「えっ、あっ」
何かの気配を察したのか、耳をぴくっと動かして太陽がせかすものだからついまたがってしまった。
太腿に太陽の毛が触れて全身が震える。思ったより柔らかくて温かかったから。
――くびにしがみついて ぜったいにはなさないで
えい、ままよ!
太陽の背中に上半身をつけ、後ろからしっかりとしがみつく。
頬に当たる太陽の毛はふんわりと柔らかくわたしを包むようだった。
狼なのにあんまり獣臭くないのが不思議。
その瞬間、タッと小さな足音がしてふわりと身体が浮いた。
「――――っ!?」
無意識に大きく吸い込んだ空気が喉元で音を立てた。
太陽が飛んでいる。
ううん、飛んでいるというのは違うのかも。
小さな踏切音とともに屋根から屋根に飛び跳ねる。そのスピードは駆け抜けるといった感じで、夜の少し冷たい風を切りながら進んでゆく。さながらジェットコースターに乗っているような感覚。
怖くて顔を上げることなんてできないけど、うっすら開けた目には離れた場所にある都会のネオンが小さくだけどきらきらと光っているのが映っている。
暗い夜空がいつもよりずっと近く感じて怖いんだけど興奮してしまってどくどくと加速する鼓動と全身の毛穴が収縮した感覚が収まりそうになかった。
――めをとじて
急に頭の中に語りかけられた。
なんでわたしが目を開けているのがわかったんだろう。いけなかったのかな。
と、思ったのもつかの間。
「きゃああ!」
太陽の身体は一気に急下降し、目の前の大きなマンションに突っ込んでいく。
激突して死ぬ! 咄嗟にそう思ったのに、トンっと小さな足音がして身体が安定した。同時に太陽のふわふわの毛の感触がなくなっていく。
「だから目を閉じてって言ったのに」
「え、きゃああっ!」
太陽の首筋にしがみついていたはずだったのに、おそるおそる目を開けると……
「みっ! 美山さんっ!?」
なぜかわたしは裸で四つん這いになっている美山さんの背中にまたがっていたのだった。
慌ててその手を離すと後ろにどしんと尻餅をついてしまった。そしてその瞬間美山さんのきゅっと締まった筋肉質のお尻が目の前に!
「ひええええ!」
「ああこの格好が悪いのか」
ソファの上にあった大きめのタオルを腰元に巻いた美山さんがすくっと立ち上がり、ニヤっと不適な笑みを浮かべる。
暗いマンションの部屋なのに、月明かりだけでその様子が窺えた。
逆光になったその裸体は想像したとおり美しかった、ってそうじゃなくてなんでこんな状況になっているのか頭がパニックしてしまう。
「なんっ、太陽が……っ」
「うん」
「みやっ、み、や……」
「美山太陽。君がつけてくれた名前を使っている」
美山さんが太陽で、太陽が美山さんーっ!?
瞬時に狼から人間にかわったのも、あの長い道で美山さんが消えたのもこれで辻褄が合う……けど。
美山さんは人間じゃなくて、太陽はただの狼じゃないという事実に頭がおかしくなりそうだった。
「幸音」
再び四つん這いになった美山さんが尻餅状態のわたしに近づいてくる。
うっ、その艶めかしい目で近づかないでっ。
床についたお尻と手と足で下がるけど、どんどん距離を縮められてすぐに行き場を失ってしまう。
大きく開いたベランダの窓から風が吹き込んでカーテンがふわりと舞った。
「逃げないで」
「いっ」
くいっと三つ編みが軽く引っ張られ、美山さんの顔に引き寄せられる。
琥珀色の双眸がわたしを射抜くように見据え、その血色のいい唇から赤い舌がちろりと姿を現す。
痛いくらい心臓がどくんと拍動したのと同時にその生暖かい肉厚の舌がわたしの左頬をベロリと舐めあげた。
耳元に熱い吐息がかかり全身がびくっと跳ねる。
「僕の――」
「ぇ?」
よく聞き取れなかった。
「捕まえた」
震えながらわずかに左に顔を向けると、にいっと美山さんの口角が弧を描いた。
――食べ、られるっ。
捕食者の笑みにわたしの恐怖心がわき上がり瞬時にそう悟った。
慌てて四つん這いになって距離をとろうと逃げ出すけど、そんなのお見通しだったようで後ろからがっと羽交い締めにされてしまう。
「やっ、助けてっ!」
美山さんの胸の中でもがくけど所詮男の人の力にかなう訳なんかない。
手足をじたばたさせてもその腕の拘束は緩むどころかどんどんきつく締め上げられていってる。
「外に聞こえるから」
耳元で囁かれる声はひどく甘くて熱がこもっているように聞こえるけどそんなのに騙されてはいけない。命を奪われるかの瀬戸際でおとなしくなんてしてられない!
「お願いっ、殺さないでっ!」
「殺す?」
「食べないでぇ!」
「なにを言って? まあ、ある意味食べるけど」
「食べられ……ぅ!」
大きな手がわたしの口を塞いだ。
やっぱり食べるんだ。わたしなんか食べてもおいしくないのに。脂肪ばっかりで締まってないし絶対まずい自信あるもんっ。
「っく……うぅっん!」
右耳に生ぬるい感触がして、舐められているって気づいた時には自分でも信じられないくらい甘い声が漏れ出していた。
ピチャピチャと美山さんの舌がわたしの耳を嬲る。中に舌を埋め込まれて動かされるたびにびくびくと全身が震えてしまう。
なぜか下半身に違和感を覚え、内股をすり寄せると靴の踵がフローリングの床の上で音を立てた。
そんなことお構いなしで、美山さんは耳を舐めながらわたしの口に指を差し入れてくる。異物感に目を見開くけど耳への途切れない刺激がまともな思考を奪っていく。
「んっ、や……ふぅ」
「かわいいね、幸音。まだ食べたりしないよ。君は僕の大事な番なんだから」
「んぐ?」
つ、と言いたかったのに美山さんの指が邪魔をして言葉になってくれなかった。
今、つがいって言われた?
耳元で言われたのに聞き間違いってことはないと思うんだけど……それに『まだ』食べないっていつかは食べるってことだよね。
ぼろぼろと涙が頬を伝って流れ落ちる。
美山さんが顔をすり寄せて舐めとっていくのがいやなのか恥ずかしいのか気持ちいいのかわからなくなっていた。
「大丈夫、怖いことなんてなにもないよ。僕が君を一生守るから」
すり、と頬を寄せられて大きな手がわたしの顔を美山さんのほうへ向けた。
一生守るって、どういうこと?
だって食べるのに守るって、守れないじゃない。
歯の根が合わず、がちがちと音を立てる音が脳天にまで響くようだ。
「……」
美山さんの視線が絡みつくようにわたしを見つめている。
その視線を逸らすことができずにわたしは吸い寄せられ、美山さんに近づいていく。
ううん、違う。美山さんが近づいて――
「っ!」
美山さんの唇がわたしの言葉を飲み込んだ。
ちゅっと音を立てながら何度も唇を重ねられて、これってキスだよ、ね。ええええ?
なんで美山さんみたいな美しい人がっ、いや人じゃないけど(それはおいといて)わたしなんかにこんなに優しいキスをするの?
「大切にするから」
「んひゃあ!」
唇すれすれの位置で囁かれた後、ベロリと舐めあげられて素っ頓狂な声を上げてしまった。
ニマッと満足げに微笑む美山さんのその姿が月明かりに照らされて背筋がゾクリとする。
どうやらわたしは美しきやっかいな狼人間に捕獲されてしまったようです。
【おわり】
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