「待たせちゃって悪かったね。でも若いお嬢さんをひとりでこんな夜遅く帰したら危険でしょ」
お店のシャッターを閉める美山さんになんと答えていいのかわからず無言で立ち尽くしていた。
わたしの家はここから徒歩十分だし、その道のりはそんなに暗くもない。人通りは少ないけれど見栄えもよくないわたしに危険が生じる訳なんかないのに。
つい悲観的になってしまう気持ちに身体が反応して俯いてしまう。
美山さんの私服は意外にラフなもので黒のパーカーに少し色の褪せたデニム。赤いスニーカーが差し色になっていてそれだけでオシャレな感じがしてしまう。造りがいい人は得だよね。
隣を並んで歩くなんて大それたことできなくて半歩後ろを歩く。
美山さんの背中は広くてきっと脱いでもすごいんだろう。きっと逆三角形の……ってわたしなに考えてるんだろう。ちょっと顔見知りなだけの男の人の裸を想像するなんて。
それになんでこんなに優しくしてくれるんだろう。あのカフェで振られたから? そんな人他にもいそうだけど。
「じゃあここで」
「えっ?」
どきどきしながらもついてきた先にわたしのアパートがあった。
え、もうついちゃった。いつもよりずっと早い。
「これ作ったばかりだから、少しでもいいから食べなね」
手渡された紙袋からは暖かくて焼いたパンの匂いがした。
しかもわたしがよく頼む卵とハムのホットサンドのもの。
「あっ、お金」
「いいから」
「でも」
「おやすみなさい」
あ、また。
頭をぽんぽんと撫でられ、ニコッと優しい笑みを向けられる。
どくんと跳ねた鼓動が美山さんに伝わっていたらどうしようなんて思ったけど全然大丈夫だったみたい。すぐに背を向けて元来た道を戻って行ってしまった。
あれ、なんでわたしの家を知っているの?
美山さんの背中を見送りながら突如わいた疑問。
だって知ってる訳ないのに。それにわたしはずっと美山さんの半歩後ろを歩いて帰って来ていた。
「まっ――」
気づけばすでに曲がり角の向こうに消えている美山さんの後ろ姿を追っていた。
足の長さが全然違うし、帰り道はわたしに合わせて歩いてくれただろうけど本当はもっと速い速度で歩くはず。
次お店に行った時に聞けばいいのかもしれないけど、どうしても今知りたかった。
さっきまで俯いてあるいていたから気づかなかったけど、月の光が道を照らしていていつもより明るく感じる。そうか、今日は満月なんだ。
こんなにきれいな月を見ないで下ばかり向いていたことを後悔していた。もっと美山さんと話しながら帰ってくればこんなふうに追わなくてもよかったのかもしれないのに。
曲がり角を曲がると少しなだらかな坂になった道が開ける。
そこはまっすぐな道でしばらく曲がり角はない、それなのにその先には美山さんの姿は見あたらなかった。
目の前に広がるのはすでに寝静まっているであろう電気のついていない均一に並んだ一軒家と暗闇だけ。
「な、んで?」
走ったとしても次の曲がり角までは結構な距離がある。
小さくでも後ろ姿は見えると思っていたのに見えないなんてあり得ない。車でない限り無理だ。
信じられない気持ちでカフェの方向に向かって歩き出す。
なんだか足が震えている。ううん、足だけじゃなく身体も。
この並びの一軒家のどれかが美山さんの家なのかもしれない。それなら消えてしまったのも納得できる。
「――ゥゥ」
通り過ぎた家と家の隙間から唸るような声が聞こえた。
ここはこの辺の住まいの家のゴミ置き場になっていて、どん詰まりなはず。もしかして犬でもいるのかもしれない。
暗がりに目を向けてみるけどなにも見えない。
どこかの犬が迷い込んでしまって恐怖に怯えているのなら助けてあげたい。一日くらいならうちのアパートで面倒見ても大丈夫かな。
美山さんからもらったパンの入った紙袋ががさっと音を立てる。どきどきしてきつく握りしめすぎたかも。
「おいで」
ささやき声で暗闇に声をかけた時、二つの瞳がきらりと光った。
「大丈夫だよ、こっちにおいで」
手を差し出すと、砂を踏むような音。
――なぜ もどってきた
「え?」
きーんという小さな金切り音と共にまるで頭の中に直接語りかけられたようなそれは間違いなく人の言葉。
「な、に?」
思わず後ずさるわたしの足音が妙に大きく聞こえた。
――だいじょうぶ
「え、え?」
持っていた紙袋が地面に落ちる。
それを拾う余裕なんかわたしにはなかった。
目の前にいたのは白くてふさふさの大きな犬――ううん、あれは狼。
山育ちのわたしは何度か狼に遭遇したことがあるから見間違えるわけがない。もちろん離れた場所で遠目に見ただけだけど、犬とは違うその獰猛さが狼には備わっているのを知っていた。
琥珀色の目がわたしを捉えている。
あまりにも美しいその姿から恐怖よりも興味が勝って目を逸らすことができなかった。
――ゆきね ぼくだよ たいよう
わたしの名前が語りかけられたことに驚いて息を呑む。
じゃり、と砂を踏むような足音が少しずつ近づいてくるのがわかった。
この狼は人の言葉を理解し、わたしの脳に直接話しかけている。そしてわたしの名前を知っていて、たいようと――
「太陽?」
その名前に覚えがあった。
そして、その全身を覆う美しい白い毛並みも瞳も。
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