2月13日 バレンタイン前日I'm jealous《幼馴染・中学生》
チョコを湯煎してからだいぶ時間が経つのにキッチンの中にチョコレートの匂いが充満している。
泥団子をこねるように手の中で転がしながらわたしは別のことを考えていた。
数日前の放課後にあったこと。
委員会が終わり、鞄を教室に取りに行って帰ろうとしていた時、中から数人の話し声が聞こえてきた。
その中でも高くてよく通る美百合ちゃんの笑い声がわたしの耳に飛び込んでくる。
「直樹くん、バレンタイン楽しみにしててね」
美百合ちゃんとしてはひそひそ声で言ったんだろうけど、扉付近で話しているのかよく聞こえてしまった。
「え、あ……」
戸惑うような直樹の反応に美百合ちゃんが楽しそうに笑う。
このタイミングで教室に入るわけにいかないし、聞いてるこっちはなんだかムカムカしてきたんですけど。
「チョコ食べられるよね?」
「ああ、まあ……くれるって言うならもらってやってもいいけど」
なにその答え、ツンデレか!
どんな顔で直樹がそう言ったのかわからないけれど、さらにムカムカしてきた。
きっと鼻の下をのばしてデレデレした締まりのない顔をしているに決まっている。しかもいかにも平然を装った言い方だったけど、絶対喜びをひた隠しにしているに違いない。
「よかった。頑張って作るね。じゃあ」
話を切り上げた美百合ちゃんがこっちに来てしまう予感がした。
慌てて扉から離れて階段の踊り場まで走って逃げる。
立ち聞きしていたことがばれたら気まずいもの。今は顔だって合わせづらい。
美百合ちゃん手作りするつもりなんだ。しかも直樹限定かもしれない。
まだバレンタインまで一週間以上あるのにすでにあげる宣言をしてしまっているのも美百合ちゃんらしい気がした。
本命だったらなおのこと当日サプライズで渡して驚かせそうなものなのに……渡すって本人にでも知られていたら恥ずかしいから。美百合ちゃんは美人だから絶対にもらってもらえる自信があるんだろうな。
とぼとぼと教室の方に戻ると、男子達の盛り上がった声が聞こえてきた。
「直樹いいなー岡田からチョコもらえるんだ」
「岡田美百合からならおれもほしいな。すげーうらやましい」
「べっ、別にくれるって言うからもらうだけで」
「え、直樹と岡田ってつき合ってるんじゃないの?」
誰が言ったかわからないけど、最後の言葉で教室中が一気にシーンと静まりかえった。
「つき合ってない」
「マジかよ?」
「うっそ、もったいない。絶対向こう直樹のこと好きじゃん」
再び盛り上がる男子の声に余計に教室に入りづらくなってしまった。
直樹が否定するのを聞く寸前まで胸のドキドキが収まらなかった。だけど聞いてすごくほっとしたのは事実で。
去年のキスの日から直樹をずっと意識している自分に気づいていた。
はっきりと意識し始めたのは球技大会のあの日だけれど、急にわたしの中で占める直樹の割合が増えてきたことに動揺せずにはいられなかった。
ずっとお隣さんで仲のいい幼馴染だと思っていたのに。
直樹が別の性であることを改めて気づかされたような感じがして、寂しいような気恥ずかしいような気持ちが心の中を占めていた。
***
ピンポーンと家のインターフォンが鳴り、一緒にチョコを作っていたお母さんがテレビドアホンに向かう。
今ここにお客さんが来たらこのチョコの匂いで気分が悪くなったりするかもしれない。わたしもお母さんもチョコ好きだから大丈夫だけど湯煎している時なんてもっとすごかった。
「あら、直くん。今開けるわね」
お母さんの弾んだ声に耳を疑う。
なんで直樹がうちに来るの? 中学に上がってからそんなことあんまりなかったのに。よりにもよってなんでこんな日に。
なんとなく緊張した面持ちの直樹がひょこっとリビングに顔を出す。その手には教科書とノートらしきものが見えた。
「うわ、すごいチョコの匂い」
「そうなの。今バレンタインのチョコ作ってるの。瑠璃がいっぱい作るって言うから」
「お母さん、余計なこと言わないで!」
「はいはい、ごめんなさい」
てへっと舌を出して直樹にベランダ側のソファへ座るように促すお母さん。
なんでよりにもよって直樹にそんなこと言うかなあ。
「直くん、今お茶淹れるわね。瑠璃もちょっと休憩にしてお茶にしたら」
「んーでも」
「どうせチョコ足りないんだし、焦ってもしょうがないわよ」
ほらほらと促され、渋々直樹が座るソファの向かいに腰掛けるとお母さんがすぐに暖かい紅茶を淹れてくれた。昨日直樹の家からもらったフィナンシェが添えられてる。
「じゃあ、お母さん足りない分のチョコ買ってくるから。直くんゆっくりしていってね」
「えっ、今行くの?」
「うん、早い方がいいでしょ。このフィナンシェ美味しいのよ。直くんママは美味しいお菓子たくさん知ってるわよね」
直くんママとか言うのもう……。
幼稚園生の親じゃないんだからもういい加減自子どもの名前に『ママ』つけて呼ぶのはやめてほしいなあ、聞いてるこっちがこっぱずかしい。
直樹は全く気にしてないのか軽くうなずきながら紅茶を飲み始めてるし、そんなことを気にする自分がおかしいのかわからなくなってきた。
エプロンを外していそいそとリビングを出ていくお母さんはなんだか楽しそうに見える。なんで直樹とふたりきりにするんだろう。わたし達だって年頃の男女なのに。心配することなんてなにもないってわかってるからこそだろうな。
無言でお茶を飲みながら直樹がフィナンシェに手を伸ばして食べ始めた。お母さんがいなくなった途端足を組んで妙にリラックスした体勢に変化する。外面いいよなあ。直樹。
わたしも紅茶を飲んでフィナンシェを食べようと手を伸ばしながら聞いてみた。
「何か用?」
いつも以上に素っ気なくなってしまうのは、直樹と美百合ちゃんのことが気になるわけだからじゃなくて……って自分に言い訳するのも変な話なんだけど。
もそもそと食べながら直樹が上目遣いでわたしを見て教科書を差し出してきた。
「数学、教えてほしい」
「は? なんで急にまた」
いつもなら苦手な数学ができなくてもテストの点が悪くても気にしない直樹がよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべている。
「来週の数学のテスト、九十点以上とったら兄貴達が俺がほしがってるシューズを買ってくれるって言うんだ!」
「へぇ」
「だから頑張りたくて教えてって言ったら瑠璃に聞けって言われてさ……」
しょぼんと肩を落とした直樹にムカっときた。
まるでわたしじゃ不服みたいな言い方。しかもハルくんとヒロくんがわたしにって言わなかったったら来ませんでしたよみたいな態度も。
「なー、頼むよ、瑠璃ちゃん。このとおり!」
顔の前で掌をあわせた直樹がわたしに頭を下げる。
こんな時だけ『ちゃん』づけとか、全く調子がいいにもほどがある。だけどこんなに必死で頼むくらい直樹にとってはすごくほしいシューズなんだろうな。
「わかったよ。チョコ作りながらでいいなら」
「いいよ! もちろん!」
「でもなんで急にシューズ買ってくれるって話になったの?」
「明後日バレンタインじゃん。兄貴達からのプレゼントらしい。だったら条件付けずにくれって話だよな」
「バレンタインって、ふたりとも男じゃない」
「今は逆チョコってのが流行ってるらしい。まあ、男子から女子に渡すって意味らしいけど、くれるって言うからさ」
満足げな笑みを称えて直樹がわずかに身を乗り出す。
興奮しちゃって、よっぽどうれしいんだろう。
だけどわたしは別のことを思い出していた。
――くれるって言うならもらってやってもいいよ
そう言った直樹は今みたいにいい笑顔を美百合ちゃんに見せたんだろうか。
もやもやする気持ちがケーキみたいにどんどん膨れ上がっている。
こんな気持ち、いやだなって思っても全然消えてくれなくて。ケーキだったらすぐに食べて終わっちゃうのに……ってどうにもならないことを考えながら持っていたフィナンシェを口にする。
さっき食べたときよりもなんだか甘みを感じなくて口の中でぼそっとそれが崩れたように思えた。
**
「瑠璃、この問二なんだけど」
キッチンでチョコをこねているわたしの近くに直樹が教科書を持って質問に来た。
すぐに教えられるようキッチンテーブルで直樹が勉強を初めてわたしはそれを視界に入れながらチョコを作っているんだけど、わざわざこっちに出向いてくれるからチョコまみれの手のまま教科書をのぞき込んだ。
「あ、それはこっちの公式」
チョコまみれの手で指をさすと、直樹が首を傾げて大きなため息をついた。
「なんでそんなにわかるわけ? このときはこっちの公式とかさーXとかYとか正直どうでもいいっての」
直樹は本当に数学が苦手でどの問題を見てもどの公式を当てはめたらいいのかさっぱりらしい。数学脳じゃないんだろうな。かといって文系脳でもないし、体育会系脳なんだろう。
球技大会の日から直樹はバレー部の主将に必死に勧誘されて入部した。だけど元々興味があったわけじゃなく、なんとなく入ったからか基礎練習の多さにぶちぶち文句を言いながらも休まずに部活はでている。金曜日はバレー部がお休み日だから今日は珍しく早く家に帰って来ていたんだろう。
直樹が体力づくりで毎朝ランニングを始めたことも知っている。たまたま早く起きて窓の外を見たら直樹が家の前で屈伸運動をしているのを見てしまったから。
そのせいなのか直樹はまた身長が伸びた。
こうしてとなりに立たれると、視線が合わなくなってきている。
Xという単語に異様に反応し、口にしない女子やニマニマしながら『エックスぅ』と過剰反応する男子とは違って直樹は至って普通にその単語を口にする。きっと直樹の中ではエッチな言葉と似ているとか結びつかないんだと思う。
もしかしたら直樹はエッチとか興味ないのかもしれないけど、わたしにキスはしてきたし全く知らないってわけでもないと思う。巨乳アイドルの雑誌を見ていたことだってあるし。
わたしだって詳しくはわからないけど、保健体育の授業で習った知識と友達の家でお姉さんが持ってた漫画を見せてもらったから直樹より少しはわかっていると思う。
「瑠璃?」
「え、あ。ごめん」
変なこと考えてたら顔が熱くなって直樹をまともに見れなくなってしまっていた。
俯いてバットの中にある丸とは言い難いいびつな形のチョコレートに視線と落とす。形はともかくなかなかの出来映えだと思う。
友チョコで配る分がたくさんあるからすごくたくさん作ったけどそれでも足りない。
仲良しの鈴花にはたくさん詰め合わせで渡したい。あとはお母さんと一緒にお父さんの分を作っておとなりのハルくんヒロくんとおじさんと……。
鈴花には直樹にあげるんでしょと聞かれ、毎年あげてるからねってさらっと答えたけど、意味深な笑みを向けられて「そっかそっか」と背中を叩かれた。
なんだか妙に気恥ずかしくて弁解の言葉を羅列してしまっていた。別に深い意味なんかないんだからとか、作るついでだしとか。鈴花は「ふーん」って感じで聞き流してたみたいだけど。
ぼーっとその時のことを思い浮かべていたら、目の前にすっと直樹の手が伸びてきた。
それに驚いて身体を引こうとした時、その手がわたしの左頬をそっと拭った。
なに、って思ったけど言葉は出なくて。
その親指を直樹がぺろっと舐めたのを見て、妙に大人っぽい表情とその赤い舌に今までなかった感情を抱いてしまっていた。
直樹って、こんなにかっこよかったっけ……って。
「チョコついてる、ん、これあんまり甘くねーな」
「チョ、チョコパウダーかも」
どぎまぎしてしてしまっているのを直樹に悟られないよう必死で深呼吸するけど全然だめでどもりとして出てしまう。
「一個もーらい!」
「あっ!」
前より少し節ばった直樹の指がすっとバットの中のチョコを摘んで口の中にほおり込む。
むぐむぐと味わうように動く直樹の口の中でチョコがあっという間に消えていった。
「ん、うまい」
「なんで勝手に食べるのよーっ」
「いいじゃん。こんなにあるんだし一個くらい」
まだ完璧な出来あがりじゃない。
そんな中途半端な状態のものを食べられてしまったのも納得いかなかった。もっとちゃんとしたのを食べてもらってわたしのチョコが一番だって思ってほしかったのに。
「ひどいよ、直樹」
急に堪えていたものがプチンと音を立てて切れたかのように悲しさがこみ上げてくる。
それと同時に自然に涙が浮かび上がり、直樹がぎょっとして息を呑んだのがわかった。
「なっ、泣くなよ。ごめんって。俺の分からひとつ減らしてくれていいから」
「直樹にあげるなんて言ってない!」
思わず言ってしまった言葉。
直樹の表情が一瞬驚きのものになり、すぐに傷ついたように歪んでいった。
なんで直樹がそんなに悲しそうな顔をするの?
その顔を見たわたしは驚きのあまり涙が引っ込んでしまっていた。
「そう、なんだ……」
ちぇっと小さく舌打ちをした直樹が気まずそうに頭をかいて離れていくと、テーブルの上にあったノートを素早く閉じて片づけ始めた。
「悪かったよ、ごめんな」
「え」
「俺、すげーショックだわ」
直樹の肩が小さく震えているように見えた。
リビングを出て行く直樹の背中が見えなくなって足音も遠ざかっていく。
それがすごく悲しくて、行かないでほしかった。
「待ってよ! 直樹!」
チョコまみれの手のまま追いかけると玄関で靴を履こうとしていた直樹の動きが止まった。
「なんでショックなの? 美百合ちゃんからもらえるんだからいいじゃない!」
「な、んでそれ知って……」
「聞いたもん! くれるならもらってやってもいいって直樹うれしそうに言ってた!」
涙でグシャグシャになった顔を隠すことも拭くこともできない手をぎゅっと握りしめてわたしは必死に大声をあげていた。
「わたしのなんて……なくたって……いいくせにぃ」
泣きしゃっくりをあげながらも必死に鼻水が流れないように鼻をすすると喉のあたりがしょっぱい感じがした。
涙がぽとぽとと流れ落ちて廊下を濡らしていく。それを見ながらわたしなにやってるんだろうって急に恥ずかしくなった。
勝手に美百合ちゃんに嫉妬してる。
美百合ちゃんが素直に直樹にあげるって言ってるのが気に入らないんだ。
しかも直樹が悪いんじゃないのに完全な八つ当たり。
わたしだって直樹にあげたい。
毎年あげてるとか作るついでとかいう理由はただの建前だってわかってるのに認めたくなかった。
「泣くなよ……」
直樹の声のトーンが本当に困ったというものに聞こえて胸が苦しくなる。
わたしのわがままで直樹を困らせているんだと思ったら余計に涙が止まらなくなった。
「ったく……」
少しめんどくさそうな舌打ちが聞こえた。
あきれられたのかもしれない。カットソーの袖でぐしぐしと涙を拭うと目の周りがこすれて少し熱いような痛いような感覚がした。
「あ、岡田。直樹だけど」
急に直樹の口から美百合ちゃんの名字が聞こえて顔を上げるとこっちを見ながら電話をかけていた。
直樹は睨むようにわたしを見据え、怒っているようにしか見えない。
だけどなんで急に美百合ちゃんに電話をかけたりするんだろう。今はわたしと話しているのに、もう話したくもないってことなの?
「俺のチョコ、もう作っちゃったかと思って……そっか、よかった。悪いけどやっぱり受け取れない」
「えっ?」
思わず驚きの声をあげてしまったわたしをとがめるように直樹は自分の口元に人差し指を当て、唇の動きで「しっ」と訴えた。
「うん、ごめんな。理由は会って話す。電話で済ませるようなことじゃないから。今から行っていい……うん」
ちらっと直樹の視線が向けられてごくっと唾を飲み干す。
その目がすごく真剣で、かつなんだかとても思い詰めているように見えたから。
直樹がなにを思って一度受け取ると言った美百合ちゃんのチョコを断っているのか考えただけで心臓がどくどくと跳ねるように強く脈打ちだす。
わたしがわがままを言ったからもらう気をなくしたのかもしれない。
通話が終わったのか直樹が着ている紺色のパーカーのポケットに携帯をしまって再びわたしを睨むように見た。
その頃にはすっかりわたしの涙は止まっていた。
「ヒロ兄やハル兄にはチョコやるんだろ?」
「え、うん……おじさんにも」
「んだよ、親父に負けるのか」
なんだか悔しそうにちっと舌を鳴らす音が玄関に響く。
その後すぐにはあっと大きなため息を漏らして唇をへの時に曲げた直樹がわたしのほうに手を差し出した。
「俺にもくれよ」
「え?」
「……が……なら、……の女から……ない」
「え? なに?」
よく聞き取れなくて少しだけ近づいて聞き直す。
するとあからさまにむっとした顔でわたしを見た直樹が大声を張りあげた。
「おまえがいやならほかの女からはもらわないって言ったんだ! 何度も言わせるな!」
「――!」
耳まで真っ赤にした直樹が玄関を開けて飛び出して行く。
取り残されたわたしはしばらくその場から動けずに呆然として立ち尽くしてしまっていた。
【おわり】(バレンタイン当日編に続く)
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