空色なキモチ

□ 見えない未来 □

見えない未来


 最初は行きつけのバーで見かける程度の人だった。

 お互いカウンターの端同士が定位置で、私が入り口側で彼が最奥の席。時折視線が合い、その時は軽く会釈をしたりしていた。
 いつ頃だろう。その回数が増えたのは。
 まるでタイミングを合わせたかのように絡む視線。それで会話をしているかのようだった。
 彼が目を細めれば私も細める。私が口元に笑みを浮かべれば彼もそうする。それがおかしくてつい笑ってしまった時に初めて会話をした。

 それから何度もそのバーで会うようになり、自然に私の定位置は彼の隣になった。待ち合わせをしているわけでもないのにその回数は増えていた。
 お互い名前も年も知らない。職場も住まいも、もちろん電話番号を交換しているわけでもない。
 だけどなぜか飲みたい気分の時にバーに行くと彼は高確率でそこにいた。
 私が入店した時にいなくても後から彼が来ることが多くなった。

 もしかして毎日来ているのでは。
 私に会うために、という淡い期待を抱かなかったと言ったら嘘になる。それに毎日来ていても構わないことだ。
 意を決してこっそりマスターに聞いてみたが意外にも答えは否だった。

 不思議な偶然なのかもしれない。
 波長が合うとでも言うのだろうか。
 
 このバーには元彼とよく来ていた。
 お互いの職場のほぼ中間地点のこの店でよく待ち合わせをした。
 結婚の二文字が出た頃、ここで式場のパンフレットを見たりもしていた。

 そんな元彼と急に迎えた破局。
 披露宴の席のことについてというくだらない喧嘩が引き金だった。
 今となってはそんなことでと思うけど、あの時はどちらも折れることができなかった。お互いマリッジブルーだったのかもしれない。
 その後のことは説明するまでもない。元彼が別の女性と一夜を共にした結果、相手が妊娠してそちらを選んだよくあるパターン。
 決めていた式場のキャンセルは元彼に任せた。もしかしたらその相手と式を挙げたのかもしれない。

 本来なら元彼の思い出が詰まったこの場所に足を向けるべきではないのかもしれないけれど、私はここが好きだった。
 マスターは馴染み深いし、ここのカクテルはどれも美味しい。
 ひとりでいたくない時、急にもの悲しさがこみ上げてくる時は決まってここに来た。
 だけどここで涙を見せることはなかった。泣くのは自分の家、しかも入浴中だけ。そう決めていた。

 そんな時に出会ったのが彼。
 聞きたいことは山ほどあったけど、聞かないのが暗黙のルール。

 彼は私を『君』と呼び、私は彼を『あなた』と呼ぶ。
 それだけで十分会話は成立した。
 わずかに酔いが回った頃に聞く彼の声は重低音のように胸にずしりと響いて残るのが好きだった。
 元々細い瞼が笑った時にさらに細くなって下がる眦がかわいいと思うこともあったし、真面目な表情の時に薄い唇がきゅっと引き締まるのを見て妙に色気を感じることもあった。
 お勧めの本や映画を熱く語り合ったりするのがとても楽しくて会話も弾んだ。
 こんなに素敵な人がひとりの訳がない。そう思いながらも左手の薬指を飾るものがないことに安堵する自分が浅ましい。
 結婚していても指輪をしない人だっているだろうし、恋人がいるかもしれない。だけどこうして何度も一緒になって会話すれば少なからず期待をしてしまうのも無理はない。
 少しずつ彼に惹かれていく自分の気持ちに必死に理由づけをしてしまうのは決まって彼と別れて帰宅する時だった。

 いつから私はこんなにも欲張りになったのだろう。
 もっと彼のことを知りたい。そう願うようになった。
 何も聞かない私だからこそ後腐れなく同席してくれているのかもだし、今後も聞かないのが無難だ。だけどいつか酷く酔ってしまった時に聞き出してしまうのではないかという思いが私を臆病にさせた。

 もう会わない方がいいのかもしれない。
 こんな不安を抱えるくらいなら早く手放した方がいい。

 しばらくバーに行かずに出した結論。
 彼はその間も来ていたかもしれない。私がいないことをどう思っただろうか。少しは寂しいと感じてくれていただろうか。
 
 今日で最後、そう決めたバーに彼の姿はなかった。
 少し待てば来るだろうと思ったけど、その日彼が姿を見せることはなかった。

 最後にもう一度だけ話をしたくて三日間バーに通い詰めたけど、彼はいない。
 離れた方がいいと自ら遠のいたのに、その身勝手さに呆れながらひとり寂しく飲んで帰宅する。
 もしかしたら彼ももう会わない方がいいと思ったのかもしれない。
 きっと私の思いとは別なものだろうけどそんなタイミングまで合ってしまったことに自嘲するしかない。
 
 諦めてバーを出ようとした時、息を切らした彼が硬い表情で入ってきた。
 私を見た途端くしゃりと表情を崩し、笑みを浮かべて近寄ってくる。
 持っていた紙袋が差し出されて思わず受け取ると、中には箱菓子が入っていた。
 出張、もしくは彼女と旅行だったのかもしれないけど、行き先で私のことを思い出して土産を買ってきてくれた。
 礼を言うと、彼はうっすら額に浮かぶ汗を丁寧にハンカチで拭いながら照れくさそうに微笑んだ。よほどど急いで来たのだろう。いつものスマートさが微塵も感じられない。それはそれでうれしかった。少なくとも私に土産を渡そうと来てくれたことに変わりないのだから。
 
 土産を大事に持ち、バーを出る。
 互いの駅の方向が真逆なので、いつものように店の前で頭を下げて背を向けるとふいに右肩を掴まれた。
 振り返ると真剣な顔の彼の目には熱が籠っているように見え、何を訴えているのかなんとなくわかってしまった。

 だから何も告げず私の腕を引く彼の背中を見ながらその後をついて行ってしまっていたんだ。

 
**


 連れてこられたのはバーからわずかに駅寄りの細道を入ったホテル。
 所謂ラブホテルではなく旅行客が宿泊するようなところで、フロントに近づいていく彼に手を離される。
 身体は解放されているのだから彼が背を向けている間に帰ることだって可能なのに、私の足は一ミリも動くことなく鍵を手にした彼がわずかに目を細めてこちらに近づいてくるのをただ待っていた。
 
 そっと手を取られ、エレベーターホールに促される。
 目の前で開く扉の向こうに入ってしまえばもう逃げることなどできない。彼が私の手を離して先にその中へ入っていく。
 ゆっくりとこちらを向き、操作盤の前に立つ彼は私を見て再び目を細めた。
 彼は私に逃げ道をくれた。だけど逆に考えれば自分の意志でこの先に進もうとしているのだと仕向けられているのかもしれない。現にホテルまでは半ば強引に連れてこられたけど、着いてからはいつでも逃げられるような体で接してくる。

 ずるい、そう思ったけど口にはできなかった。
 だって彼はずっと包み込むような暖かい眼差しを私に向けているから。

 彼の横を通り過ぎ、籠の奥まで入るとすぐに扉は閉められた。急速にあがってゆく籠の中で私達は口を利くこともなく、視線を合わすこともなかった。

 部屋の前にたどり着くと彼が扉を開けて私を中に誘導した。
 窓際に小さな丸テーブルとひとり掛けのソファが二脚置かれているのが見え、おしゃれなランプの光が部屋の中を灰暗く照らしている。
 扉が背後で閉まり、廊下の光がシャットアウトされたと同時に鍵のかかる音が聞こえた。
 急に不安になり、彼の方を振り返ると先ほどよりも欲を孕んだ瞳で見下ろされ、力強く抱き寄せられた。彼のスーツの胸からわずかに柑橘系の爽やかな香りが漂う。

 彼は私の下ろした髪を耳にかけるようにして避け、首筋から耳の後ろにそっと唇を這わせた。唇が触れるたびに背筋を駆け抜けるような淡い痺れが私の身体を震わせる。 
 耳朶を甘噛みされ、彼の舌が中を嬲るとどうしようもないくらい甘い声を上げてしまう。まるで自分のものとは思えない甘い嬌声に耳を塞ぎたくなる。
 耳の縁にキスを繰り返し、私の背中を抱きしめた手をすうっと下に滑らせて腰の辺りで彷徨わされると膝が折れそうになる。
 腰と項をしっかりホールドされ、まともに立てない状態の私を彼がじっと見据えた。
 長いこと繰り返された耳への愛撫はすでにやんでいたのに、私はずっと浅く荒い呼吸を繰り返しながら責めるように彼を見つめていた。
 眉間に薄く皺を寄せた彼の顔が近づいてきて鼻頭同士を何度か擦り合わされた後、ようやく彼が私の唇を塞ぐ。その時を待っていた私の心は歓喜に打ち震え、必死に彼の背中に腕を回してしがみついた。

 彼の舌が私の唇を舐め、それに呼応するように開く。
 すぐに差し込まれた舌が私のそれを絡め取りながら上顎を丹念に舐めあげてゆく。息もつけない口づけに頭の中がぼうっとして何も考えられない。
 彼のスーツの背をぎゅっと握りしめていたその手はいつの間にか離れていて、軽々と横抱きにされた私はそのままゆっくりとベッドへ下ろされた。
 彼が私の様子を窺いながら無言でコートのベルトを外し、もどかしいくらい時間をかけて上半身をキャミソールとブラだけの姿にされた。
 欲に濡れた目が確かめるように私の身体を見つめていたのは脱がされながらわかっていたのに今更恥ずかしさがこみ上げてくる。
 自分のスーツのジャケットは乱暴に脱ぎ捨て、高そうなネクタイも結び目に強引に指を通して引き抜く。それらを床に投げ捨てるとワイシャツ姿のまま私をベッドに押し倒した。スプリングがぎしりと軋み、柔らかなシーツに私の裸体が転がると彼が一瞬泣き出しそうな表情を浮かべた。
 なぜそんなに悲しそうなのかわからなくて首を傾げると、彼の指先が私の目尻にそっと触れて横にスライドする。まるで涙を拭うようなその仕草に初めて自分が泣いていることに気づいた。

 ひさしぶりに男性を受け入れる私の身体は初めてかのように最初は痛みを感じた。
 それに気づいたのか彼はゆっくり進めてゆく。そんな痛みもすぐになくなり、甘い痺れが下腹から全身に伝わっていった。
 微かな吐息すらあげるのが恥ずかしくて手背で口を塞ぐと、その手をシーツに縫いつけられて深く奥を穿たれる。今までの穏やかさが嘘のように彼は激しく熱を送ってきた。
 強く揺さぶられしがみついた彼の身体は堅い筋肉に覆われ酷く熱い。それがまた私を昂らせ、彼が動くたびに擦れる胸の先端が痛いくらい快感を主張する。
 一気に高みに持ち上げてゆく私の耳元で彼の荒い呼吸が大きく吐き出された。

 こんな時も一緒だなんて。
 

**


 それから彼と何度もこのホテルで情事を重ねた。
 翌日仕事の時は早めに帰宅し、金曜の夜なら明け方まで求め合った。
 朝一緒に出るのが恥ずかしくて彼が寝ている間に出ることが多かったけどそれに関して何の咎めもなかった。ホテル代は一切払わせてもらえず、置いていっても次に会った時必ず返された。
 
 身体の関係に進展しても私達は何も変わらなかった。
 それでもとても幸せな時間だった。
 元彼と別れてから不眠がちだったのも治ってしまうくらい心身共に満たされていた。

 だけどそんな時間は長くは続かなかった。

 その日は課で主催の花見だった。
 社のそばにある大きな公園で、朝から陣取った場所に所狭しと社員が座り大賑わいだった。すっかり春の陽気で、桜の花びらが雪のように舞っていたのをよく覚えている。

 そこで私は目にしてしまった。

 彼が若く美しい女性と仲睦まじそうに腕を組んで歩いている姿を。
 大きな噴水は夜でもライトアップされ、彼の顔がよく見えたから間違いはない。女性の方も本当に楽しそうな笑顔を彼に向けていた。そして彼も。

 何かがすとんとはまったようだった。
 名前も知り合えない私達に未来はないと突きつけられたようで。

 その数日後、彼に会った。
 同じようにバーで酒を飲み、一時間ほどで店を出る。
 いつものように手を引き、ホテルの方向へ歩みを進める彼を止めた。
 彼はすぐに引き下がり、初めて駅まで送ってくれた。
 その道程でも桜の花びらが舞っていて、彼が数日前に花見をしたことを話し始める。
 夜桜の美しさを切々と語り、私はそれを終始無言で聞いていた。

 改札を一緒に通ろうとする彼を止め、ホームまでの見送りを固辞した。
 彼はやはりすぐに引き下がり、改札を挟んで向かい合う。
  
 彼が若干寂しそうに微笑み、その唇が弧を描く。
 こっちに軽く手を挙げる彼を名残惜しい気持ちで見つめながら私も同じようにした。
 そしてわずかに唇を動かし、別れの言葉を告げた。

 彼は一瞬首を傾げたものの、すぐに理解したのか笑顔でうなずく。
 
 彼に背中を向けて歩き出した途端、私の頬に熱い涙が零れ落ちた。
 もう、振り返らない。

 
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Date:2015/03/04
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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