第四十五話エピローグ 2【有紗と郁弥】
郁弥の家につくと、にぎやかな音葉と穏やかそうな祖母に迎え入れられた。
つくなり侑生を奪い合うようにして抱き上げ、泣き出しても全く慌てることなくあやし続ける。
「有紗ちゃんって呼んでいい? お義姉さんとかかたっ苦しいよね」
「は、はい」
「やだ、硬いよー。音葉でいいからね。よろしく!」
「そんなこと言われたって緊張しちゃうわよお。これからここが我が家になるんだから徐々に慣れていってねえ。まさかこんなに早くひ孫が抱けるなんてねえ」
祖母にありがとうと優しく背中を撫でられ、その手の暖かさに涙が出そうになってしまう。
お茶の準備しておくからと笑顔の音葉にうなずいた郁弥が有紗を部屋の外に連れ出し、和室の仏壇の前に促した。そこには郁弥によく似た若い女性の遺影と郁人似の祖父の遺影が並べて置かれている。この女性は産まれたばかりの郁弥を抱いていたその人だとすぐにわかった。
俺の母親と照れくさそうに郁弥が笑い、蝋燭に灯をともすと線香を立てて鈴を鳴らす。涼しげなその音が和室に染み渡るように響く。隣に座った郁弥が手を合わせ、それに倣って有紗も手を合わせた。
その後、階段を上がって郁弥の部屋に連れて行かれた。
十畳ほどの和室の窓際にパソコンの置かれた机があり、壁際に本棚とすでにベビーベッドが用意されている。
「ここが俺達の部屋」
「俺、達?」
「同じ部屋じゃいや?」
不安そうに聞かれ、有紗は慌てて首を大きく横に振る。
いやなわけがない。これからはずっと郁弥と一緒にいられると思ったらあまりにもうれしくて何も考えられなくなっていた。
「いつか俺達だけの家を建てるつもりだから。時間はかかるけど、頑張るからずっと見守っていて」
郁弥にぎゅっと抱きしめられてその胸に頬をすり寄せると懐かしい香りに目頭が熱くなる。
幸せなのに泣きそうになるなんて不思議だけど、涙を止める必要がないから心が軽い。
「有紗、愛してる」
さらにきつく抱きしめられ、耳元でそう囁かれるだけで暖かな思いが全身を駆け巡る。
ずっとほしかったその言葉が今当たり前のように自分だけに向けられていることが信じられなくて、必死にしがみついてしまう。
「郁くん、郁くん」
「有紗」
「大好き。もう、離さないで」
「うん、もう絶対に離さない。有紗に逢えてよかった」
自然に見つめ合い、引き寄せられるようにゆっくりと唇が重ねられる。
優しいそのキスからは以前までの郁弥が想像できないくらいの穏やかさが伝わってきた。
そっと離れていく唇が名残惜しく感じる。視線の先の郁弥は苦笑いをしながらもう一度軽く唇を触れさせた。
「そんな顔しないでくれる?」
「そん、な?」
「なんて言うの……全力で煽られてるような」
「ちっ、違っ」
そういうつもりじゃないと離れようとする有紗を逃がさないと言わんばかりに郁弥が素早い動きで抱き寄せる。腕の中に閉じ込めた有紗はすぐに抵抗をやめ、郁弥の胸に凭れかかってふふっと小さく笑った。
「そうだ。侑生の写真撮って拓弥に送ってやらなきゃ。あいつに心配かけたしすごく協力してくれたんだ。有紗からもお礼言って。俺が言うより喜ぶから」
何気なく言う郁弥とは真逆に見上げた有紗の顔は不自然なくらい強張ってゆく。
「どうした?」
「わたし、拓弥さんに何も話してない……」
妊娠したこと、出産したこと。そして今こうして郁弥の隣にいること。
何も言わずに姿を消したのは郁弥の前からだけでなく、拓弥からもだった。そのことを気にはしていたけど、妊娠中ずっと精神的に不安定だった有紗はすっかり拓弥のことが抜け落ちていたことに申し訳なさを感じていた。
「大丈夫、あいつはなにもかも知ってる」
順序立てて郁弥は今まで拓弥としてきたことを簡単に説明した。
有紗の不安を取り除くためにすべてを伝えたつもりだったけどそれは逆効果だったようで、二人の時間を自分探しのために使わせてしまったことにいたたまれずに有紗はがっくりと項垂れてしまっていた。
「いいんだ。その時間があったからこそ今があるんだから。きっと拓弥だって同じ気持ちでいてくれているはずだ。あいつはそういう男だよ」
「……そう、だね」
「侑生連れて今度会いに行こう」
いまだ困惑顔なものの、躊躇いがちにうんとうなずく有紗を見て郁弥は安堵する。
そしてずっと疑問に思っていたことを口にした。
「どうして拓弥じゃなく、俺だったの?」
――莉彩のように
その思いはずっとはがれそうではがれない瘡蓋のように郁弥の心の中に残っていたものだった。
不安げな郁弥の表情を見て、有紗は軽く眉間にしわを寄せる。
最初から郁弥しか考えられなかった。
この手を離したくなくてずっと必死だった。だけどその手はなかなか自分だけのものにならなくて、ただ闇雲に追いかけていた。
確かに拓弥は優しい。その手を取ったなら有紗のことを大事にしてくれたと思う。
だけど有紗が求めていたのは拓弥の穏やかな優しさではなく、郁弥の広義的なパッションだった。
郁弥からストレートにぶつけられる情熱も欲情も苦悩も激情すらも愛しくて、郁弥にならいくら傷つけられても構わなかった。
あえて表現するのであれば魂の共鳴。
風にさらわれるように気持ちを持っていかれた有紗にとって、なぜ郁弥だったのかという疑問符は最初から存在しなかった。
うまくこの思いを伝えられる自信がない。
黙りこくってしまった有紗を申し訳なそうな顔で郁弥が見つめていることに気づいていなかった。
理由がつけられない思いがあったっていいじゃないか。
困惑顔の有紗を見て、郁弥はそう思っていた。
実際郁弥自身もそうだった。なぜ有紗じゃなきゃいけなかったのか。それを聞かれたら今すぐに言葉にすることなんてできない。自分ができないものを人に求めるより、互いの気持ちが繋がったことの喜びを分かち合う方がよっぽど有意義だと思った。
言葉じゃなくても伝わる思いがあることを郁弥はこの時知った。
「まだベビーベッドしかないけどこれから侑生のおもちゃも増えるから、となりの和室も使っていいって言われているんだ。だけどしばらくはここだけでいいよね」
急に話を変えた郁弥に唖然としながらも有紗がぎこちなくうなずく。
「できるだけくっついていたいから、さ。狭いくらいがちょうどいいかも」
うん、と今度は大きくうなずかれた。
同じ気持ちでいてくれていることがうれしくて、つい抱きしめる手に力を込めてしまう。
「このパソコンも本棚も有紗の好きに使っていいから」
指さしたデスクトップのパソコンの横に小さな箱が置いてあるのに気がついた。
その中にはプレゼントの下に引かれている紙パッキンに包まれた使いかけの消しゴムが入っている。
「なに、これ?」
「ああ、それは俺の大事なお守りみたいなもの」
「お守り? これが?」
「そう、俺が辛かった時に……ってか、同じ高校に入ってなかったら俺達逢えてなかったんだよな! そう思ったらこの消しゴムやっぱりラッキーアイテムだったのか」
「どういうこと?」
懐かしそうに、そして嬉しそうに語られる郁弥の過去。
第一希望の高校に落ちたことや二次募集での受験のこと。
その受験会場でひとりの女子生徒に優しくしてもらったこと。その子から借りた消しゴムであること。しかもお弁当までもらってしまったこと。
その時の記憶が有紗の中にも甦る。
顔色の悪い男子生徒が消しゴムを持ってなくて困っていたこと。
お弁当すら持ってきてなくておなかの虫が切なげに泣くのを見てられなかったこと。
朝早く朋美が持ってきてくれたお弁当をその男子生徒に譲ったこと。そのお礼にお茶をごちそうになってうれしかったこと。
二人の記憶が時を超えて一致した。
「マジであの時の子って……」
「郁くんだったんだ」
吸い寄せられるように抱きしめあい、その温もりに胸を打ち焦がすようだった。
「知り合う前から知り合いだったんだな、俺達」
郁弥のその言葉に笑いよりも涙が浮かんで流れ落ちる。
今まで苦しめてばかりでごめん、そう繰り返す郁弥にただただ無言でうなずき続けた。
言葉は交わさないけれど、二人は圭理のことを考えていた。
圭理が最後の一線を越えないでいてくれたことはもちろん、有紗の妊娠期間をずっと見守り続けてくれたことに感謝と尊敬以外なかった。
圭理がいなかったら有紗は無事に出産できなかったかもしれない。そう思ったら背筋が凍るような思いがした。
「郁、くん?」
「あ、痛かったか。ごめんな」
「ううん、痛くない」
きょとんとして郁弥を見上げる有紗が再びその胸に顔をうずめる。
その頭を撫でながら郁弥はうんと大きくうなずいた。
「侑生が大きくなったら伝えてもいいよな。おまえにはもうひとり父親がいるって」
「え?」
「名前をつけてもらったこととか、その人のおかげで無事に産まれてきたこととか。さすがにすべてを伝えたりはしないけど、二人の父親に愛されて育ったってこと、ちゃんと俺の口から説明したい」
じわっと暖かいものが胸に広がってゆく。
郁弥の圭理に対する気持ちがうれしかった。侑生に二人の父親がいることがうらやましく、そしてありがたい気持ちでいっぱいだった。
郁弥もそう思えることが幸せだと思った。
自分と同じ間違いをしてほしくない。産まれた時から愛されていることをちゃんと身をもって伝えたい。
そしてきっと侑生も自分の子どもにそう伝えて行くだろう。そこから正の連鎖が始まっていくはず。先の未来に思いを馳せ、再び幸せを実感する。
ポンポンと有紗の背中を軽く叩いて、向かい合う郁弥の表情はとても清々しいものだった。
→ NEXT→ BACK
Information
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学