第四十四話エピローグ 1【有紗と圭理】
「幸せになるのよ」
病院の前で朋美と理平が有紗を交互に抱きしめ、眠っている侑生の頬を指先で撫でた。
有紗の後ろには郁弥とその後ろには郁人が立ち、深々と天道夫妻に頭を下げる。
その場所に圭理の姿はなかった。
朋美と理平は有紗と圭理が婚姻届を書いていることを知らなかった。
それ以前にそこまで話が進んでいたことすら聞かされてはいなかったのだ。
圭理は自分の両親にこう説明していた。
有紗が妊娠をしている。
その相手は自分も知っている人だけど、迎えに来るかわからない。もしかしたら来ないかもしれない。
自分はその男を認めていない。有紗を一生守っていく覚悟はできている。
それが結婚という形になるかどうかはまだ決めていない。もしかしたらそうなるかもしれない。それでいいと思っている。そのことに関しては今後有紗とよく話し合う必要があると思っている。
有紗に詳しいことを聞いたりしないでほしい。今が一番大事な時だから、そっと見守っていてほしい。
絶対に有紗をひとりにはしたくない。いろいろ迷惑をかけるかもしれないけど、協力してほしい。
そう伝えて、深々と頭を下げたのだった。
朋美と理平は圭理の言うことに最初明らかな戸惑いを見せた。
美春がどういう状況で母子家庭になって有紗を生み育てていたのか詳しい理由は知らない。
だけど若くして母になった美春と同じ道を有紗が歩むことが不安でしょうがなかった。
優しい有紗があの母親のようなことになるはずがない。
そう思いながらも、心のどこかで不安を拭い去ることはできなかった。
だけどひとりでなければ――
有紗は二人にとっても娘同然であり、突き放すことなどできやしない。絶対に見放したりしない。
二人で話し合った結果、圭理の言うとおりにすることに決め、祈るような気持ちで妊娠、出産を見守り続けた。
そして数日前。
有紗の相手が迎えに来たことを圭理から聞かされ、さらに二人は動揺した。
だけど圭理は有紗の相手を認めると言った。彼は変わったのだと。
有紗を本気で愛している。そして有紗も彼を心から求めている、と。
涙を流す朋美の肩を理平が抱き、二人は病院の中に消えてゆく。
その後姿を郁弥と郁人、そして有紗が抱いた侑生の四人が見送った。
用意した新生児用チャイルドシートに侑生を乗せると、郁弥が反対側の後部座席の扉を開けて有紗に乗るよう促す。
名残惜しそうに病院を見つめていた有紗がうなずいて車に乗ろうとした時、病院の入り口から圭理が出てくるのが見えた。
「圭くん」
硬い表情のまま圭理が早足で近づいてくる。
有紗も数歩圭理のほうへ近づいた。
「これでオレも自由の身だな」
「圭……」
「指輪、置いていけ」
今までになく圭理の冷やかな口調にぴっと背筋を伸ばした有紗が無意識に自分の首元を押さえた。
出産が終わって指のサイズが戻ったら再び自分の指におさまるものだと思っていた指輪。
圭理がプレゼントしてくれたのは高校の卒業式の後だった。それから肌身離さずそばにあった指輪がぶら下っているあたりをぎゅっと握りしめる。
「あの、圭くん……お願いが」
「だめだ」
まだ何も言ってない。そう言いたかったけど言える雰囲気ではなかった。
いつもなら、しょうがないって顔で聞いてくれる願いを真っ向から拒絶された。
しゅんと肩を落とした有紗は自分の後頚部に手を回し、胃部の辺りに渦巻くようなもやもや感をひた隠しにしながら指輪がぶら下っているネックレスを外した。
すっと差し出された圭理の大きな掌。そこにネックレスごと置くと何もかも終わりなような気がしてさらに寂しさと喪失感が増した。
まるで何もかもなくなってしまったかのような、圭理とはこれで二度と会えなくなってしまうような気がして泣きたくなった。
「圭、く……」
「せいせいするよ。じゃあな」
潤んだ瞳に映し出される圭理の白衣の背中が揺れる。
本気で言っているの?
そう口を衝いて出そうになるけど、言葉にはならなくて。
熱い感情の塊のようなものがこみ上げてきて喉元をぎゅっと締めつける。その苦しさに声をひきつらせた。
わたしがいないほうがせいせいするの?
教えてよ、圭くん。
嘘と言ってほしかった。
だけど背を向けてどんどん離れて行く圭理の背中を追いかけることもできなかった。
「車に乗ってろ」
そう言い残し、郁弥が圭理の後を追って行く。
背の高い二人が並んでいる姿はとても絵になって、悲しさをよそに見とれてしまいそうになった。
そうしているうちに郁人に促され、有紗は後ろ髪を引かれる思いで車に乗り込んだ。
ぐっすり寝てしまっている侑生の頬をそっと撫で、前を向くと優しい笑みを浮かべた郁人がその様子をじっと見つめている。
「あとで侑生くん抱かせてもらっていいかな」
「は、はい。もちろん」
初孫がこんなに早くできるなんて思わなかったからうれしくてと顔を綻ばせる郁人を見て、そう言ってもらえたことに有紗も喜びを感じていた。
**
「お世話になりました」
深々と圭理に頭を下げた郁弥の肩が小さく震えている。
その姿を見て、圭理は自然と穏やかな気持ちになっていた。
昨日までは今ならまだ引き止められるかもしれない、そうわずかに思っていた。だけどそんな思いも今、完全捨て去る覚悟ができた。
「名前、変えていいからな」
「え?」
「侑生の名前、オレがつけたんだ。だけどまだ出生届も出してないし」
「いえ、あの子は侑生です。それが有紗の希望でもあるし、俺も気に入ってますから」
へへっと笑う郁弥を見て、圭理も思わず苦笑いを返していた。
侑生の名前には意味があった。
漢字の一文字に有紗の名前、そして郁弥の『郁』に入っている『有』の字が含まれた文字をあえて使っていることが偶然とは思えなかった。
それが圭理からの最高の贈り物だということに有紗も郁弥も気づいていたからこそ絶対に名前を変えるつもりはなかった。
「二度と有紗を泣かすな。絶対にひとりにするな。それだけは守ってくれ」
「はい」
圭理は白衣の胸ポケットから小さなメモを取り出し、郁弥に手渡した。
「これは?」
「見ればわかるようになってる。もし気が向いたらでいい。有紗を連れて行ってほしい」
今は見るな、と言いたげな圭理の説明にそれを無言でポロシャツの胸ポケットに収める。
わかりましたとひと言告げ、もう一度深く頭を下げた。その肩を圭理がぽんと軽く叩く。
「もう行け。二度とその面見せんな」
そう言い残し、郁弥に背を向けて歩き出す。
「約束、絶対に守ります! ありがとうございました!」
郁弥の叫ぶような声。
その強さに郁弥の強い意志と決意を感じ取った。
振り返らず、そのまま病院に向かって歩き出した時。
「圭くん!」
有紗の声で振り返ってしまっていた。
車から降りた有紗が涙を流しながらこっちを見ている。
「圭くん! ごっ、……ありがとう! 圭くん!」
またごめんなさいと言いそうになってる。
有紗の癖はなかなか治らないかもしれない。そう思いながらつい笑みが零れてしまう。
幼い頃の有紗、どんどん成長していくその姿を思い出し、喉の奥までこみ上げてくるような感情が自然に圭理の唇を動かした。
――しあわせになれ
その言葉が有紗に届いたのかわからない。
声にはなっていないはず。だけど有紗は力いっぱい圭理へうなずき返していた。
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