空色なキモチ

□ 掌の鼓動 □

掌の鼓動 43

第四十三話

現在 34




 有紗と子の未来を思って潔く身を引き、仕事に打ち込んでいた郁弥に圭理から連絡が来たのはその決意から一週間ほど過ぎた頃だった。
 無事に出産を終え、母子ともに元気であること、そして頼みがあると。
 圭理から、もちろん有紗からも連絡が来ることはないと思っていたのに、まさかの相手に電話を切った後しばらく茫然としてしまっていた。

 持ってくるように頼まれたのは郁弥が産まれた頃の写真。
 郁弥が若槻家に持って行った幼い頃のアルバムは火事ですべて燃えてしまっていたが、郁人が大事に持っていたものが何枚もあったためそこから一枚借りることができた。
 ちゃんと返せよとニヤッと笑って念を押され、出産直後に撮ったという一番写りのいい葉子と郁弥の写真を渡された。

 圭理に呼び出されたのは病院。
 複雑な思いで到着した郁弥は病院前で待っていた圭理に黙ってついてくるように言われ、あの日のように有紗の病室の前で待機させられた。
 少しだけ開いている扉から有紗と圭理の話し声が聞こえてくる。
 正直今の郁弥には酷なものだった。諦めると決意して間もないのになぜ再びこのシチュエーションにされるのか訳がわからなかった。
 最初は有紗とうまくいっているところをアピールしたいのかと思った。
 だけどすぐに部屋に呼ばれ、どうしたらいいかわからないまま一歩踏み出していた。

 出産を終えたばかりの有紗は、ショッピングモールで会った時と変わりなかった。
 まだ学生時代のあどけなさを残しながらも母親の顔になりつつある。ふっくらとした頬は朱に染まり、今にも泣き出しそうに見開かれた瞳に郁弥を映し出していた。

 そんな顔をされてしまったら、郁弥だって冷静でいられなかった。
 ずっと探して求め続けた相手が目の前にいる。駆け寄って抱きしめたくなるのを抑えるのに必死だった。

 だけど、有紗はすでに他人のもの。

 そう堪えて、なんとかその場に立ち止まっていたのに。
 圭理はずっと郁弥が疑いながらも思い詰めていたことを二人の前で告げた。

 ――彼が本当の父親だ 

 やっぱりそうだった、という思いしかなかった。
 同時に溢れ出すような様々な感情が郁弥を襲う。
 二度と同じ過ちを犯したくないと思っていた記憶が同時に甦って来た。
 
 莉彩を失い、有紗を失った。
 莉彩の時は、有紗がいてくれたから立ち直ることができた。だけど有紗を失ったらもう立ち直ることなどできそうになかった。まだ諦める覚悟を決めて数日しか経っていないのに、もう人を好きになることはないだろうと思っていた。

 だけど、もう一度有紗に恋をすることは許されるのだろうか。


**


 有紗が落ち着くまで少し時間がかかった。

 有紗の頭の中は真っ白で何も考えられなかった。
 郁弥が侑生の父親のはずがない。ありえない。
 侑生を妊娠したのはクリスマスの日の行為だと圭理から聞いている。出産時期からしても間違いはないはずだ。

 ぐるぐるとめまぐるしく当時の記憶が有紗の頭を駆けめぐる。
 視界の端で郁弥が深く頭を下げたのが見えた。

「ごめん、有紗」

 謝罪の後、郁弥が神妙な面持ちでクリスマスイブにあったことを話してくれた。
 隠していたわけじゃない。有紗が妊娠しない身体だと思い込んでいたから言うまでもないと思っていた。それが間違いだったと。
 過去の身勝手な振る舞いも心から反省している。過去のことに関して許してもらえるとは思っていない。それでも――
 深呼吸を繰り返した郁弥の目が潤んでいることに気づいた。

「産んでくれてありがとう」
「郁くん……」
「この子の父親になりたい」

 郁弥の目から涙が流れ落ちた。
 つられるように有紗も泣き出してしまう。
 
 侑生が郁弥の子。
 信じられない気持ちだったけど、扉近くに立っている圭理の硬い表情が真実だと物語っているように見えた。一瞬視線が絡み、圭理がそっと目を伏せる。
 その時、胸に刺さったとげが疼くような痛みを感じた。
 今まで有紗を支えてきてくれたのは紛れもなく圭理だった。
 小さい頃から守ってくれた。大切な人であり、今では自分の夫。
 ぐっと唾を飲み込み、郁弥を見据えた有紗はゆっくりと首を振った。

「この子は圭くんの子です」

 郁弥の顔が絶望の色に変化する。
 こんなにも悲しそうな表情を初めて見たかもしれない。
 お願いだからそんな顔をしないでほしい。気持ちが揺らいでしまうから。
 そう心の中で願っても郁弥に伝わることはなかった。
 これ以上の望みはないと言わんばかりに郁弥の目は有紗を捉えて離さない。
 張り裂けんばかりの胸の痛みを堪え、有紗は歯を食いしばって訣別の意を表した。
 
「たとえ血縁上はあなたの子であったとしても、この子は――」
「有紗、もういいんだ」

 有紗の決意を断ち切るように圭理がその言葉を遮る。
 足音を立てないようにして近づいてくる圭理が白衣のポケットから白い封筒を出して有紗へ向けた。

「なに、これ」

 圭理が視線で開けるように促すのがわかった。
 何が出てくるのか、怖い。
 震える手でその封筒を開けて中身を取り出すと、婚姻届だった。
 しかもすでに提出したはずの圭理と有紗の名前が刻まれたもの。自分で書いたものだからすぐにわかる。
 
「どうして!」

 声を荒らげる有紗に圭理は穏やかな笑みを浮かべた。
 こんなふうに大きな声をあげたことがなかった有紗を思い、そうさせているのが自分だと悟った圭理はなぜか少し誇らしい気持ちになっていた。
 いつも感情を抑え込んでしまう有紗がようやく自身の本当の気持ちをぶつけてくれたようでうれしかったのかもしれない。
 
「出してなかったんだ」
「だからどうして」
「父親が自分でないことがわかっていたから」

 産まれる前からずっとね、と。
 圭理は答え合わせをするようにすべてを教えてくれた。

「あの日、有紗に酒を飲ませて酔わせた。その時点で間違ってるよな」

 自嘲の声がやや小さく聞こえ、見るとその表情は悔しそうに歪められている。そこからは後悔の二文字しか読み取ることができなかった。
 それに侑生が起きないように気遣ってくれているはず。そんな優しささえ今の有紗には酷なものだった。

「だけど意識の遠のいた有紗が、ずっと繰り返すんだ」
「……」
「郁くんって、愛おしそうに。縋るような声にそれ以上できなかった。だけど酷いことをしたと思っている。すまなかった」
 
 深々と頭を下げる圭理を見て、胸が握りつぶされそうなくらい苦しくなる。
 はらはらと涙が布団に落ち、雨粒のように濡らしていることに有紗は気づいていなかった。ぐっと握りしめた手が白く変色してゆく。
 圭理を責めることなんてできない。
 最後まで有紗を思ってのことだだったと手に取るようにわかるから何も言うことができなかった。
 一緒に暮らし始めて同じベッドに寝ても圭理は有紗に触れなかった。
 妊娠中だから気を遣ってくれているのだとばかり思い込んでいた。だけどそうではなかった。
 もしかしたら最初からこうなることがわかっていたから、ずっと今まで通りの関係を保ち続けていてくれたのかもしれない。

「あとは頼む」
「圭くん!」

 悲しそうな笑みを湛えて病室を出ていこうとする圭理を呼び止める。
 だけどわずかに振り返った圭理が小さく首を横に振って拒絶の意志を見せた。それ以上声をかけることができずにいる有紗を横目に圭理は静かに病室を後にした。


**


 気まずい空気が病室内に流れる。
 ひさしぶりに郁弥と二人きりにされ、話すことも見つからずただ黙って俯く有紗を救ったのは侑生の泣き声だった。
 おなかが空いた、もしくはおむつが濡れたかもしれない。精一杯主張する侑生に駆け寄ると、同様に郁弥も近づいた。わずかな距離に一瞬視線が絡み合う。
 
「一生懸命泣いてるな」

 侑生の握りしめられた手に郁弥が指を伸ばそうとして躊躇うような仕草を見せた。
 
「廊下に置かれてる消毒液を塗り込んだけど……俺の手、汚いから触れられたくないよな」

 郁弥の手を見ると学生時代の細くてきれいな指ではなかった。
 ごつごつとした関節はところどころ赤く切れて痛々しい。ふと見えた掌はマメがいっぱいできていて職人の手にしか見えなかった。

「触って……いいよ」

 震える声でそう告げる有紗を郁弥は驚いた顔で見つめた。
 その顔が一瞬にしてうれしそうに綻ぶ。
 パジャマの前をくつろがせ、泣き叫ぶ侑生を胸元に寄せると勢いよく吸いついた。こくんこくんと飲み続ける侑生の頬が真っ赤になっている。その様を郁弥は目を輝かせ興味津々な表情で覗き込むようにして観察していた。

「すげえ飲んでる」
「うん」

 握りしめられている侑生の手に郁弥の指が恐る恐る伸びてくる。
 その指がちょんと侑生の手に触れた瞬間、ぎゅっと握りしめられて郁弥は小さな声をあげた。それは声になりきらない音のようなもので。

「あった……かい」

 その声はかすかに震えていた。
 見上げると目の前に腰を屈めている大きな郁弥が涙を流しながら鼻をすすり上げている。
 その姿を見て胸がじいんと暖かくなっていく。
 このまま見ていたら自分も泣けてしまいそうで視線を侑生に戻すと優しく頭を撫でられた。

「さっきも言ったけど、産んでくれて、ありがとうな」
「……」
「俺、バカだから有紗にいつも甘えてばかりで……こんな大事なことまでひとりで決めさせて……だけど俺、変わりたいんだ。有紗とこの子を全力で守りたい」

 生唾が痛いくらいの違和感を残し、ぎゅっと締め付けられそうな喉元を通過してゆく。
 目を閉じれば郁弥との優しい思い出ばかりが甦る。
 辛かったことも悲しかったこともいっぱいあったはずなのに。
 腕の中の温みとその記憶がとても尊くかけがえのないものに思えた。

「高邑有紗さん……愛しています。俺と、結婚してください」

 侑生に指を握られたままの郁弥は、これでもかというくらい腰を曲げて頭を深々と下げた。
 有紗の視界に移るのは郁弥の渦を巻いた旋毛。
 その身体は小さく震えている。

 名前すらまともに呼んでもらえなかった。
 好きだった相手と自分を重ねられていた時期もあった。

 だけど今は、ちゃんと有紗の名前を呼び、真摯に向き合ってくれている。
 こんな日が来るなんて思わなかった。
 だけど夢に見ていたのも事実で、信じられない気持ちが押し寄せてくる。
 
「わたしで、いいの?」
「当たり前だ」
「だって……わたし、自分だけを見てほしいって言っておいて、あなたの元から……」
「何もかも俺のせいだ。有紗は何も悪くない。だから少しでも有紗の中で俺を思う気持ちが残っているのなら、もう一度だけ、俺にチャンスを……ください」

 両手が塞がっていて涙を拭くことができない。
 幸せすぎて涙を止めることもできない。
 それに気づいた郁弥が侑生に握られていない左手でそっとその涙を拭ってくれた。

 少しでも、なわけがない。
 有紗の心の中には常に郁弥しかいなかった。それはずっと揺らぐことはない。

「郁く……郁弥」

 郁弥の苦笑いが返ってくる。
 暖かな気持ちを胸に秘め、有紗は一度だけ深くうなずいた。
 

**


 病室を出て壁に寄り掛かり、目を閉じた圭理の脳裏に浮かんだのは幼い頃の有紗の姿だった。

 壁にひびが入った古いアパートの外階段の一番下に座って一生懸命菓子パンに噛りついていた。
 その顔は酷く汚れ、頬はこけていた。手足なんか簡単に折れてしまうんじゃないかと思うくらい細い。その様をじっと見つめているとそれに気づいた有紗が上目遣いで圭理を見ていた。
 すでに秋も深まっている時期なのに半袖に短いスカート。靴下も履いてなくて寒そうなのに有紗の目には光が宿っているかのようにキラキラと輝いて見えた。今にも泣きそうなのに、その目にだけは未知なる力が籠っているように見えたのだ。

 こんなことに負けない。そう強い意志の表れみたいなものを感じた。
 この子を助けてあげたい。いや、助けなければならない。そんな使命感に駆られ、圭理は有紗に手を差し伸べていた。
 
 ずっとその気持ちのままいられたらよかったのに。
 
 いつの頃からか可愛いと愛おしむ反面、有紗が憎かった。
 憎いと言うと語弊があるのかもしれない。ただ、なぜ自ら幸せになる道を選ばないのか理解できずにいた。
 まるで幸せになるのを拒んでいるのではないかと疑ってしまうくらい。それが許せなかった。
 なぜ自分をそんなふうに扱う男を思うことができる。そんな思いはただのまやかしに過ぎないのではないか。
 有紗が郁弥とつき合っているわけではなくただのセフレだと知った時、圭理はそう思った。

 だけどそれが圭理の都合のいい思い込みだということに気づいていた。
 避妊に失敗したと泣きついてきた時もセフレは自身が望んだことと言った時も有紗はすべて自分の責任のように郁弥を庇い続け、思い続けていた。その気持ちは痛いほど圭理に伝わっていた。
 だからなおさら、誰よりも幸せになってほしいと願う圭理の気持ちを有紗自身に裏切られたような気がした。

 もし、あの時有紗を抱いていたらと思うことは何度もあった。
 有紗の真っ白い首筋や艶めかしい胸元は幼い頃にあれだけひどい虐待を受けても傷ひとつ残っていない。その事実がうれしく、成長した佳麗な裸体を見て欲情したのは事実だった。最初は本気で抱くつもりでいた。でもできなかった。
 もちろん有紗が郁弥の名前を切ない声で呼び続けたのもある。だけど圭理の中で有紗は傷つけていい相手ではなかった。
 いつまでもキラキラと輝く宝石みたいに大事な有紗を圭理の私利私欲で穢してはいけないと瞬時に思いとどまっていた。

 有紗が妊娠していると知り、自分の判断に間違いはなかったと思ったのと同時にひどく動揺した。
 有紗は避妊に失敗した時、必ず圭理に知らせてくれた。そして何度も望まない妊娠を回避し続けてきた。それなのに、なぜ今回は。
 その時圭理は決意した。このまま自分の子だと偽って有紗を縛りつけてしまおう、と。
 その方が有紗が幸せになるはず。有紗を幸せにできるのは自分しかいない。なぜか絶対的な自信でそう思い込んでいた。
 そのために有紗を傷つけた。これもすべて有紗のため、そう正当化しながら蜘蛛の糸にかかった蝶のように有紗を絡めとり、逃げないようにした。
 郁弥がもし有紗を奪いにきたとしても渡さない覚悟はあった。だけど、その思いは一瞬にして揺らいでしまっていた。

 病室の前に置かれた一輪のピンクのバラ。
 郁弥が持っていたのを知っていたし、置いていったこともわかっていた。だけど有紗は郁弥が来ていることもその花を持っていたことも知らなかったはず。それなのにしっかりとピンクのバラを抱きしめて泣く有紗を見て、郁弥からの贈り物と気づいたとしか思えなかった。
 卒業式の日に渡した両手で抱えなければ持てないほどの赤いバラの花束。
 あの時有紗はぎこちなくに微笑むだけだった。しかしあのたった一輪のピンクのバラに心を震わせて慟哭する姿を見て、言われようのない敗北感を味わうしかなかった。

 有紗と郁弥に対してしてきた仕打ちを思う。
 二度と合わせないように仕向けた。有紗から郁弥を遠ざけるために。
 声を聞かせたのだって、有紗が元気に出産を迎えようとしていることを郁弥に知らしめるためだった。
 してしまった後、自分に心底嫌気がさした。どうしてこんなにも思い合う二人を引き離さなければならない。自身の決断がぐらぐらと揺れて崩れ落ちていく瞬間だった。

 叶うわけがない。自然にそう思った。
 長い間、後悔の念に押しつぶされそうになりながらもすべてを明らかにした今、風が凪いだように穏やかな心境だった。

 これでよかったんだ。
 そう思うことができて心から安堵した。

「ごめんな」

 二人を残してきた病室の扉に向かって圭理は小さな声でひとりごち、再び深々と頭を下げた。  


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Date:2014/11/20
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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