空色なキモチ

□ 掌の鼓動 □

掌の鼓動 41

第四十一話

現在 32




 母乳を飲ませ、肩に凭れかけさせてその背中をとんとんと叩く。
 ふにゃふにゃしたその身体を抱きかかえるのもまだ怖い。すぐに壊れてしまいそうでドキドキする。
 耳元でかなり大きいげっぷを聞き、頭と首を守るように支えながら体勢を戻してやると腕の中に暖かみが伝わってきた。

「いっぱい飲んだかな。おなかいっぱい?」

 思わず声をかけ、真っ赤なぷくぷくの頬を指でつついてしまう。
 それでも眠りについてしまうわが子を見て、愛しい気持ちがじんわりとわき起こってきた。
 ぎゅっと握りしめられた手。何もかもが小さい。それでもちゃんと爪がついているし、立派なひとりの人間なんだと実感してうれしくなる。

「どう? 有紗」

 いつの間にか扉口に圭理が立って、有紗の様子を静かに窺っていた。

「圭くん」
「初めてなのに上手だな」
「何度も練習したもの」

 産まれてくる前は可愛がれるのか、愛しいと思えるのか心配だったのが不思議なくらい掌に感じる命は尊いものだった。
 無事に産まれてきてくれてよかったと思うことができて有紗は心底安堵していた。
 案ずるより産むが易しと何度も圭理と理平に励まされ、覚悟を決めて出産に挑んだけれど産まれてくるその瞬間まで母と自身の関係が頭から離れず、いつ何時も不安に押しつぶされそうになっていた。
 だけど、その第一声を聞くと同時に母性本能と呼ばれるものが溢れんばかりに湧き上がり、長い苦しみを忘れて自然に喜びの涙を流していたのだった。

 
 入院中は授乳を終えると新生児室に預けることができるようになっている。
 有紗の子は状態もよく、母子同室でもいいと言われていたけど圭理が話があると言うため預けることにした。授乳の時間の都度褥婦が新生児室に出向くことになっているが有紗の入院している特別室はフロアが違うため、連れてきてもらうか自分で向かうかを選ぶことができた。

「退院はいつ頃にする?」
「うん、なるべく早く」
「わかった」

 ふと、圭理が疲れたような表情で笑みを浮かべる。

「圭くん、疲れてる?」
「ああ、まあね」
「無理してここに来なくても……」
「無理なんかしてない。大丈夫だ」

 それにしても顔色が悪い。
 心配になり、その顔を覗き込むようにすると圭理が視線を背けた。
 なんだかいつもの圭理らしくない、そう思ったけど口にすることはできなかった。ここ数日圭理はずっとこんな思いつめたような顔をしているから。

「名前、どうするんだ。もう決めたのか」
「んーなかなか。一生のことだから」

 名前は有紗が決めていいと言われていた。
 普通なら夫婦で決めるものだと思っていた有紗は不思議だった。自分の名前は誰が決めたのだろうか。父親はいなかったから美春とその両親で決めてくれたのかもしれない。
 
「圭くんは希望ないの?」
「そうだなあ……難しいよな」

 苦笑いで有紗を見つめるその表情はひどく寂しげだった。
 子どもが産まれたばかりの父親の顔には見えなくて不安になる。
 もしかして圭理は子どもが産まれたことを喜んでいないのかも……そんな不安ばかりが募ってゆく。
 有紗は生まれた時から父親がいなかった。
 美春が有紗を妊娠した時に逃げたと前に聞かされていた。小学校の時だったか中学生になってからだったかの記憶は定かではない。
 圭理が逃げたりしないことはわかっている。有紗の妊娠をとても喜んでくれていた。そして母のように子どもを愛せないかもしれないという有紗の不安も暖かく包み込んでくれた。だからそれはあり得ないとわかっているのに。

 お願い、そんな顔しないで。

 喉元まで出掛かって、必死にその思いを飲み下す。

「ゆうき、なんてどうかな」
「え?」

 圭理が白衣の胸ポケットから小さな手帳を取り出して、ペンを走らせる。そこには『侑生』と記されていた。

「この『侑』の字には『人を助ける』という意味がある。そういう生き方をしてほしいという思いを込めて」
「……」
「どうだろうか?」
「うん。いい名前」

 不安そうに有紗を見つめている圭理に笑みを向けた。
 やっぱり圭理はちゃんと考えてくれていた。それだけでうれしくて涙が出そうだった。

「天道侑生……いいね」
「……そうだな」

 布団の上に置かれていた有紗の左手を圭理が握りしめる。
 結婚指輪は妊娠が進むにつれ、むくんではずせなくなることを想定して八ヶ月に入った頃にはずしていた。今はネックレスに通して有紗の首にかけられている。圭理の首にも同様にしてかけられたネックレス。それが一瞬光ったように見えた。
  
「有紗」
「うん?」
「幸せ?」

 不意に問われ、有紗はすぐにうなずく。
 圭理が侑生のベッドを覗き込んでいる時、有紗は別のところを見ていた。
 窓際に置かれた茶色の皮製のソファとその前に置かれた木製の小ぶりのローテーブル。その上に置いてある一輪挿しに活けられたピンクのバラ。
 すでに花弁は何枚か散り、テーブルの上に落ちている。そろそろダメになりそうなバラも端が茶色く変色した花弁も見た目はよくないのかもしれない。部屋に訪れた助産師や看護助手が片付けると口々に言うもそのままでいいと首を振った。 
 
 出産一週間前のことだった。
 なぜこの病室の前にこのバラが置かれていたのかはわからない。それが誰によって置かれたものなのか、有紗は深く考えないようにしていた。
 いきなり泣き出した有紗を圭理は不審に思ったかもしれない。だけど何も聞かずその場で泣き崩れる有紗の肩を抱いてベッドへ誘導してくれた。
 優しく頭を撫で、そのままひとりにしてくれた。それが圭理の優しさだと気づいていながらも引き止めることも理由を説明することもなく子どものように泣きじゃくった。 
 しばらくした後に看護助手仲間が一輪挿しを持って有紗の病室に訪れた。切り花長持ち液を入れておいたから普通より長持ちするはずと微笑みながらバラを丁寧に活け、涙で頬を濡らす有紗に何を聞くこともなく去って行った。何も伝えていないのにそうしてくれたのは、きっと圭理がそう依頼したからだろう。

 泣きながら押し花にしようかと考えていた。
 押し花にすれば生花のままよりもずっと長く見ていられるかもしれない。だけどそうして残しておくことで郁弥への気持ちを同じように自分の中にいつまでも残してしまいそうで怖かった。
 あまりにもきれいに咲き誇るそのバラを少しでも長く見ていたいと思った。それはまるで有紗と郁弥の関係のように儚く散るもの。自身の想いを重ね合わせるようにそのバラの生涯を見続けることにした。

 バラを受け取った時はそう思っていた。
 だけど出産を終え、有紗の心情に変化が起きた。

 その後も何も聞かずにずっと今まで通りでいてくれる圭理には感謝してもしきれない。
 これからは前だけを向いていく。産まれて来たこの子と圭理だけを思い続けていけばいい。そうすれは間違いなく幸せになる。ううん、なれるはずだ。
 
 ――もう、十分。わがままを聞いてくれてありがとう。圭くん

 そういう思いで有紗は圭理の問いかけにうなずいたのだった。

「そろそろバラ、片付けようかな」

 侑生のベッドのほうを向いて笑顔を見せる有紗に圭理の目が見開かれる。
 あのバラは有紗が大事にしてずっと残しておきたいもののはず。そう思ったら圭理の胸は針で刺されるような痛みを伴い、無意識に歯を食いしばっていた。

 ――もう、十分

 そう思っていたのは有紗だけではなかった。
 すやすやと眠り続ける侑生が愛おしくて、涙が出そうになるのをぐっと堪えていた。


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Date:2014/11/18
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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