第四十話現在 31
さらに数週間後。
何度病院へ電話をかけてもマンション前で張っていても捕まらない圭理にしびれを切らした郁弥は直接病院へ出向くことにした。
その日は特別に平日の金曜日に休みをもらっていた。本当だったら新人の希望通りになんかさせないという郁人が苦笑いを見せ、許可してくれたのだった。従業員は郁弥の状況を知らないけど親方が許可したのならと渋々了承してくれた。
申し訳ないけど、休みを渋ってくれるのは少なからず必要とされていると感じることができて不謹慎だと思いながらも郁弥は心の奥底で喜んでいた。
**
受付時間は八時半からのようで、郁弥が病院に着いたのは八時少し前だった。
まだ病院の門は開いていない。壁沿いに立ち、敷地内から出ている木の陰を日差し除けに利用して立つ郁弥を怪訝な眼差しで見ている女性に気づいて声をかけた。その女性は天道産婦人科病院の受付の人で、今から開けるのでもう少し待っていてほしいとだけ告げ、中へ消えていった。
待合室に若い男がひとり。
とても居心地が悪かった。拓弥がついていこうかと申し出てくれたがやんわり断った。これは郁弥の問題だから自分ひとりで解決しないといけないと思った。
診察室のほうから無表情の圭理が出てきたのに気づき、立ち上がって頭を下げると「こちらに」と促された。表情が堅く、顔色が悪いように見える。もしかしたら夜勤明けなのかもしれない。
無言のまま待合室の左斜め前にある診察室を通り過ぎ、その奥にある検査室の向かいのエレベーターに乗せられ、二階へ上がる。降りてすぐ左手にあるカンファレンスルームと書かれた部屋に連れてこられた。その中は会議室のようで、白の長いテーブルが二つ並べられている。
「電話をいただいていたのは知っていました。なかなか連絡できずにいてすみません」
座るよう促され、圭理の向かい合わせになった。
圭理の神妙な顔つきはずっと維持されている。話に来たのにまるで指導室に呼ばれた生徒のような心境になり、郁弥は居心地が悪くて無意識に姿勢を正していた。
「妻が入院しているものですから、時間がとれずにいてね」
「有紗が!?」
テーブルに手を突いて立ち上がった音が響き、圭理が冷たい視線を郁弥へ向けた。
それは音のせいではなく、有紗を呼び捨てにしたからだということに郁弥はすぐに気づいた。自分の妻をほかの男が呼び捨てにしたら気分が悪いだろう。急に胸の辺りが冷ややかになる。
「すみません。彼女、有紗さんは大丈夫なんでしょうか」
「今は落ち着いています。だけど心配だからまだ入院させているんですよ。もうすぐ出産なのでね」
言葉にはしないが「だから君に構っている暇はない」と言われたような気がした。
この病院内に有紗がいると思ったら会いたい気持ちがわき起こる。
どうしても一目会って話がしたかった。だけどその前に、圭理に話をする必要がある。
小さくため息をついた圭理がワックスで後ろに流しただけの髪をかき上げるのを見て、指輪をはめていないことに気づいた。
「指輪……」
「ああ、仕事の時ははずしているんですよ。それがなにか?」
「――お願いがあります」
覚悟を決めて対峙しようとする郁弥を見て、圭理は眉根にしわを寄せた。
「なんでしょうか?」
「有紗さんの子の、DNA鑑定をしてください」
一瞬圭理が目を眇めたのがわかった。
わずかな沈黙の後、再び圭理のため息が室内に響く。
「お断りします」
「どうして!?」
「その必要がないからです。なぜ無関係のあなたがそのようなことを頼まれるのでしょうか?」
あくまでも冷静沈着な態度でわずかに首を傾げる圭理は余裕たっぷりで、動揺を隠しきれない郁弥が圧倒的に不利な状況だった。
だけどここで折れるわけにはいかない。必死に食らいつく覚悟で来た。
きっとまともに対峙してもうまく言いくるめられかねない。相手は医者だ。そんなに口達者じゃないと自負している郁弥は必死に頭をフル回転させていた。こめかみに嫌な汗が伝う。
「やましいことがないのならできるでしょう」
「やましいこと?」
「俺の、子の可能性がある」
ははっと高い声を上げて圭理が笑い出した。
「なにを言ってるんだか」
「ネットで調べました。有紗が妊娠したのは去年のクリスマスの時期で間違いないはずだ」
「だったら何だと言うのです?」
「あの時俺と有紗は愛し合った。お互いの気持ちを確認しあって――」
「ああ、あなたでしたか。ろくな避妊もできずに妻を好き勝手に弄んでいた男は……有紗が何度私に相談にきたかご存じな上でここにいらしたのですか?」
「――相談?」
目を見開く郁弥を強い眼差しで睨みつけた圭理がテーブルに肘をついて手背の上に顎を乗せた。
「ええ、有紗は避妊に失敗した……実際どうだか定かではありませんが、その度にアフターピル、ああ、緊急避妊薬を内服していたんですよ。ご存じじゃなかったんですか」
「え……」
郁弥の顔が一瞬で蒼白した。
確かに今、有紗は妊娠している。
妊娠しない身体だと思いこんでいた郁弥は何度避妊を怠って有紗の中で吐精したか思い出しただけで全身が凍るようだった。背筋にもつうっと汗が伝うのを感じた。
「避妊もしない男に何も言えずずっとひとりで思い悩んでいた有紗の気持ちを考えたことがあるのか」
口調が変わった圭理の顔から憤怒の感情がダイレクトに伝わってきた。
「そんな男に何を頼まれようとも応じるつもりはない」
「ま、待ってください!」
「帰ってくれ。二度とその顔を見せるな」
「お願いです! 子どもはっ……俺の……っ」
「帰れと言っている」
「お願いします! 有紗を愛しているんです!」
立ち上がって部屋を出ていこうとする圭理に縋り、叫び声を上げた郁弥は振り払われ、床に叩きつけられた。
乱れた白衣を静かに直し、圭理は郁弥を見下ろす。
「今更何を」
「頼みます……俺、ようやくわかったんです。有紗と一緒に生きていきたい」
その場に座り込んだ郁弥が額を床にすり付けるようにして土下座した。
郁弥の頭を冷やかに見下ろし、見開いていた目を細めて圭理がため息をひとつ零す。
「有紗がどんな状況の中生きてきたのかわかっていて言ってるのか?」
「え……」
郁弥がふいに顔をあげる。
圭理の眉間にぐっと力が籠められ、強い眼差しで凝視された。それには驚きも含まれているように見えた。
「もしかして何も知らないのか?」
「え、あ……理由があってひとりで暮らしてるっていうのは、最近知りました」
「その理由については?」
「知りません。本人から聞いたわけではなくて……」
「兄貴か」
深くうなずくと、ふっと小さく笑う声がした。
拓弥から聞いたこと以外の理由を圭理は確実に知っている。
「教えてもらえませんか?」
「知る覚悟があるのか?」
「知りたい……有紗、彼女のことならなんでも……お願いします!」
もう一度床に額をつけるように深く頭を下げた。
足音が近づいてくる。もしかして蹴り飛ばされるかもしれない。その覚悟をして郁弥はぐっと唇を噛み締めて力を込めた。
「ネグレクトってわかるか?」
頭を下げたまま少しだけ首を横に振る。
「育児放棄のこと。有紗は被虐待児だ」
「――え」
弾かれたように顔をあげた郁弥に、圭理は幼い頃から今までのことをかいつまんで話をした。
そのままの体勢で聞いていた郁弥の顔がどんどん青ざめていく。
「知らなかった……そんなの言い訳にしかならないのも、十分わかってます」
「それでも有紗に会いたいと、共に生きていきたいと言うのか」
「お願いします。彼女に……俺には有紗しか……」
それ以上は言葉にならなかった。
例えようもない大きな後悔だけが郁弥を襲う。
勝手な判断で妊娠しない身体だと思いこみ、傷つけてきた郁弥の愚かさを有紗は何も言わず受け入れてくれた。すべて有紗の犠牲のもとで。
しかも郁弥よりもはるかに辛い。自分だけが辛いと思い込んできたことが恥ずかしく、情けなかった。
「会わせることはできない」
高い位置から聞こえてくる圭理の声。
当然の報いだ。肩を落とす郁弥へ圭理が意外なひと言を告げた。
「ただし、少しだけなら――」
**
十二時五十分。
圭理に言われた時間に郁弥は再び天道産婦人科病院を訪れた。
午前診察終了の看板が扉の前に掲げられており、待合室に人はいなかった。声をかけると診察室から朝よりも少し疲れた様子の圭理がのそっと出てきた。郁弥が手にしたものを圭理が怪訝な表情で見つめている。
「こっちだ」
促されるままエレベーターに乗り、五階で降りた。
絨毯敷きのフロアで、壁には『特別室』と書かれている。フロア案内板を見るとこの階は三室しかないようだった。
エレベーターを降りてすぐ横に非常階段がある。突き当たった左に長い廊下があって三つの部屋の扉が見えた。ホテルのような作りでただただ驚いてしまう。
一番奥の扉の前で、圭理が「ここだ」と小さい声で言った。
扉の横に『五〇三号室 高邑有紗殿』と印字されたネームプレートが入っていた。この先に有紗がいる。
「少し扉を開けておくから」
なぜ旧姓のままなのか気にはなったけど、尋ねる間もなくそう言い残して圭理は部屋の扉をノックして中へ入っていった。
「圭くん」
有紗の声が中から聞こえてくる。
その声のトーンで元気そうな様子が伝わってきてほっとした。
「お昼は食べたか」
「うん、今日はね結構たくさん食べたの」
「そっか、えらいな」
中を覗きたい衝動に駆られるが、これ以上踏み込んで有紗にバレるわけにはいかなかった。
圭理は有紗に会わせることはできないが声を聞かせるくらいなら、と申し出てくれた。それに一も二もなく縋りついた。会いたい気持ちはもちろんある。だけどそれがかなわないのなら声だけでも。
「そろそろ産まれてもいい頃だな」
「うん」
「有紗はどっち似がいい?」
「そりゃ……圭くんに決まってるよ。頭が良くてかわいい子になりそうだもの」
笑いあう二人の声が郁弥の耳に届く。
それはとても楽しそうで、ショッピングモールで見た有紗とは別人のように思えた。
あの時はぜんぜん幸せそうに見えなかった。だけど今はとてもうれしそうな声をあげて笑っている。
それが、答え。
たとえおなかの子が郁弥の子どもであったとしても、有紗は圭理を父親だと認めている。
その現実を受け止めるのが辛かった。
自分と当てはめて考えてみたら、その答えは一目瞭然だから。
若槻克弥の息子であり、園田郁人の子でもある郁弥。
本当の父親は若槻克弥だけど、今は郁人に育てられてそしてそこへ戻ることができて本当に幸せだと思っている。だからこそ有紗の子にも幸せであってほしい。自分と同じ思いをさせたくはない。
二人の間の隔たりのような扉。
その廊下側の床に郁弥は手にしていたものをそっと置いた。
「幸せになれ」
囁くようなその声は、有紗に届くことはない。
わかっていてもつぶやかずにはいられなかった。
**
出産時期が近づくにつれ、胎児が大きくなり狭くなった子宮内で動きが鈍くなって来ていたと思っていたのにいきなりぽこんと大きな衝撃を感じた。
「あれ?」
「どうした?」
「ん、今……」
部屋の向こうからかすかな風が吹き込むのに気づいた有紗がそっちに視線を向けると、ベッドの横に置かれた椅子に座っていた圭理も振り返った。
「誰か、そこにいたみたい」
ベッドからゆっくり降りた有紗を圭理が止める。
「だめだよ、有紗」
「でも」
「誰もいないよ」
いつもなら圭理の言うことを聞く有紗だったが、感じたその気配を無視することはできなかった。
「――あ」
わずかに開いていた扉を引くと、一輪のピンク色バラの花が床に置いてあった。
赤いリボンに透明の包み紙。花屋で買ってきたに違いないそのバラを手にした有紗の視界が透明な膜に覆われ、それは涙の雫となって零れ落ちた。
あの時のクリスマスイブの日に交わした約束。
有紗の誕生日にほしいものをくれると言った郁弥。それに対して有紗は花がほしいと答えた。
――花? それでいいの?
――うん、バラの花
――よし、頑張って稼いで抱えるくらいの
――ううん、ピンクのを一輪
――え? 俺の稼ぎをバカにしてるの?
――ううん、それがいいの
それで十分なの。
手にした一輪のバラの花を有紗が抱きしめた。
流れ落ちる涙を止める術があるなら今すぐにでも教えてほしい。
そう思いながら号泣する有紗を圭理はただ見つめていることしかできなかった。
その一週間後。
有紗は自然陣痛を迎え、長い苦しみを乗り越えて翌日の正午に元気な男児を出産した。
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