空色なキモチ

□ 掌の鼓動 □

掌の鼓動 39

第三十九話

現在 30




 入院数日前のこと――

 わずかに感じる腹部の張りは気になっていたものの、おなかの中の子は元気に動いていたから大丈夫だと思っていた。
 診察もちゃんと受けているし、圭理もそばにいてくれる。病院に泊まり込みの日もあったけど、休み時間には連絡をしてくれていた。

 ひとりでも安心しきっていた。
 あのことがあるまでは。

 急遽泊まりになった圭理が一度家に戻ってきた。
 重要な書類を忘れていったから取りに来たけどすぐに病院へ戻ると言いながらもシャワーを浴びている。
 
「風呂わかしたから有紗も入れば?」

 ポロシャツとカーゴパンツ姿の圭理が浴室から出てきた。
 泊まり込みの時は結構ラフな格好で出て行くのでそのまま行くのだろうと思っていた。
 促されるまま浴室に向かい、扉を閉めた時。

「鍵締めて出ちゃうから、早めに寝ろよ」

 圭理の声が聞こえて、返事だけしておいた。
 そのまますぐに出て行ったのだと思っていた。だけどそうではなかった。
 
 貧血気味の有紗は長湯を禁止されていた。
 温めの湯に数分浸かったらあがるように指示されていたためそれを忠実に守っている。浴室にこもりがちな熱気は換気扇を回し、浴室から出たら扉を開けて空気を入れ替えるようにとも言われている。
 浴室の扉を開けた時に玄関から音が聞こえた。圭理が出て行ったのだろうと思いながらドライヤーで髪を乾かす。
 空白の時間は約十五分ほど。すぐに出て行くと言っていたはずなのに、なにかしていたのだろうか。そのことに気づいたのは、有紗が浴室を出てしばらく経った後のことだった。

 早く寝るように言われていたことを思い出し、浴室から出てそのまま寝室へ向かった。
 時間はまだ二十一時前だったけどすることもないからベッドへ横になっていようと思った。寝室の電気も消し、ヘッドライトだけつける。ヘッドボードに携帯を置きっぱなしにしていることを思い出した。

 郁弥に聞いた番号。
 一度は有紗の携帯から消去させたものだった。
 今はあの時とは違う携帯。だけど再び有紗の携帯に郁弥の連絡先が戻ってきたことに淡い思いを抱かずにはいられなかった。それは灯火ほどのわずかな光と言えるけど、期待とは違う。ただ繋がっている喜びのようなもの。

 何度もかけようと思った。
 何度も画面に表示させ、通話を押せばすぐに郁弥へ着信音を伝えることになるのにそのワンプッシュができずにいた。
 いつも表示させ、躊躇いながらかけずにいる。なにがしたいのかさっぱりわからない。
 そして今日も表示させ、その番号を見るだけで終わるんだ。
 自嘲しながら番号を表示させようとして、電話帳を開く。

「――え」

 その名前も番号も消えていた。
 ベッドから起きあがってLINEも確認してみるも、友だちの欄には圭理の名前しか残されていなかった。電話帳も圭理と理平、そして朋美の名前しかない。

「どうして」

 今日の昼間まではあった。間違いない。確認したのだから。
 あの時もらった郁弥の連絡先のメモは登録した後すぐに捨ててしまっていた。圭理に見つかるのは申し訳なかった。受け取ったことすら裏切りだと心苦しく思っていたから。
 
「もしかして――」

 ひとりごちた有紗は小さく身体を震わせた。
 もしかして圭理が。もしかしなくてもそうとしか思えなかった。
 有紗が入浴している短い時間に削除して出て行った。でもなぜ?
 圭理が郁弥の番号を知っているわけがない。それに名前は郁弥に言われたとおり音葉で登録していた。もちろんLINEも。それなのに。

 茫然としていた有紗の携帯が急に鳴り出した。
 着信音でわかる。圭理からだった。

『すぐに出るということはもう寝室なんだね』

 携帯の向こうから物音は聞こえない。
 きっともう病院内にいるのだろうと思いながら、うんとだけ返事をした。

『ごめんね、さっき携帯の中身見せてもらったよ。もう気づいていると思うけど、知らない番号が入っていたから削除した。問題ないよね』

 さらりと水が流れるかのような自然な感じの圭理の口調に生唾がごくりと音を立てて喉に流れ落ちてゆく。胸から胃の辺りにぼんやりとした重みを感じた。

『有紗』
「……」
『どうしたの、有紗』

 優しいトーンで尋ねてくる圭理に言葉を発することができなかった。

『オレがいればいいよな。ずっと守るから』
「ぁ……」

 掠れた声が喉元でくぐもる。
 なんて言ったらいいのかわからない。
 ごめんなさい、と謝るべきなのか、それとも――

 その時、腹部がぎゅっと締めつけられるような痛みを感じた。

「あぅっ」
『有紗? どうしたんだ』
「お、なか……がっ」

 今までに感じたことのない波打つような痛みで、それよりも恐怖で思うように声が出ない。
 持っていた携帯が音を立てて布団の上に落ちる。
 ベッドの上で腹部を抱え、うずくまりながら何度も浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

『有紗! おい!』
「圭く、助け……て! 赤ちゃ……っ」

 全身から吹き出す汗をどうにもできず、力を振り絞り、声を荒らげて圭理にそう訴えかけた。


**


 そして今。

 入院してすでに三週間近く経っているはず。
 日にちの感覚がない。もちろん曜日の感覚すらも。
 少しずつ状況は落ち着き、胎児も順調に育っていると聞かされた。だけどひとりで家にいるよりは入院していたほうが圭理も理平も朋美も安心だからとそのままいさせてもらっている。

 圭理の口から携帯に入っていた番号のことは聞かれていない。
 怖くて有紗から聞くこともできなかった。
 圭理はあの番号が郁弥のものだと気づいていて、そう確信があったからこそ消したとしか思えなかったから。
 自分の妻が別の男の携帯番号を登録していることに腹を立てているのかもしれない。そして郁弥が有紗と過去に関係があったことも知っている。

 申し訳なさといたたまれなさに苛まれた。
 これ以上郁弥との繋がりを持とうとしたりしてはいけない。

 そう考えた有紗は、携帯電話を解約する決意を固めた。
 しばらく悩んだ上の決断だった。もちろん圭理が有紗との連絡用に持っていてほしいと言うだろうということもわかっていた。
 だけどこれ以上有紗が携帯を所持していることで圭理にいやな思いをさせるのは避けたかった。
 圭理が郁弥のアドレスを消す時の気持ちを考えたらきっと辛い選択だっただろうと思うから。二度と圭理にそんなことをさせたくない。

 郁弥とは終わったこと。
 どうしてこうなったか、そんな説明を今更してもそれは自己満足にすぎないはず。
 だったらこのまま、きれいな……ううん、きれいなんかじゃない。
 ひとつの思い出として、胸の中にしまっておくのがお互いにとって一番いい選択なはず。

「わたしは、ママになるんだから」

 痛みも苦しみも感じないその腹部をそっと撫で、ゆっくりと目を閉じた。


→ NEXT
→ BACK
    web拍手 by FC2
*    *    *

Information

Date:2014/11/15
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

Comment

コメントの投稿








 ブログ管理者以外には秘密にする

Trackback

TrackbackUrl:http://ageha572.blog.fc2.com/tb.php/415-4e99558e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)