空色なキモチ

□ 掌の鼓動 □

掌の鼓動 37

第三十七話

現在 28




 握りしめたメモ用紙を落とさないようカーディガンのポケットにねじ込んだ。
 圭理に知られてはいけない。有紗はまるでそれを守るかのようにポケットの上から手を当ててそっと押さえていた。
 
 振り向けば郁弥がいる。
 だけどもう振り返ってはいけない。
 これ以上振り返ったら涙が零れ落ちてしまうから。

 ただまっすぐに圭理へ向かって歩き続けた。

 ――まってて

 確実に郁弥はそう言ってくれた。
 これで終わりなんて嫌だ、そう言われて有紗も同じ気持ちだった。
 戻れるとは思っていない、だけど話をしたかった。
 こういう結果になってしまったことは自分の責任だからちゃんと謝罪したかった。
 自分の思いだけを押しつけ、ひとりにしないと約束してくれた郁弥を裏切った。
 だけど郁弥はすでに結婚している有紗を迎えに来ると言う。
 好きだと思いを伝えあったのに、急に姿を消して別の男の子どもを生もうとしている有紗を。軽蔑されてもおかしくないのになぜ。

 ぽこん、とおなかの中から赤ちゃんが蹴る感覚がした。
 よく動いてくれることがうれしくて、そのたびに腹部を撫でて声をかけるのが日課になっている。

 さっき、そばに郁弥がいると気づく前に同じような感覚がした。
 今までよりも強く蹴ったような気がして、おなかを撫でようとした時に郁弥の存在に気づいた。
 まるでこの子が郁弥が近くにいることを教えてくれたかのようで。
 そう考えたらうれしいような複雑な気持ちになったけど、圭理に軽く肩を叩かれて現実に引き戻された。それにこの子は圭理の子なのだからそんなはずはないのだけれど。

「どこかでご飯食べるか」
「うん……そうだね」
「大丈夫か? 疲れたんじゃないのか」

 優しく肩を抱き寄せられ、その胸に凭れるような体勢になる。
 大好きなお兄ちゃんだった。だけど今は違う。お兄ちゃんじゃない。自分の夫。
 今でも有紗の中で圭理は大好きなお兄ちゃんのままだ。これからもずっとそのままでいたかった。

 だけどもう、戻れない。なにもかも自分のせい。
 有紗はずっとその思いに囚われている。

 圭理がなぜ意識のない有紗と行為に及んだのかは未だに理解できずにいる。
 ただ、圭理にその行動を起こさせたのは紛れもなく自分の責任だと思っていた。
 圭理に心配をかけすぎた自分を責め、そうさせてしまったことが許せなくて涙で枕を濡らす日々が延々と続いていた。

 妊娠に気づき、有無を言わさず圭理の家に連れてこられた。
 卒業し、すぐに入籍。天道産婦人科の就職の話も一度白紙に戻った。出産し、子どもが育つまでは専業主婦でいるように圭理から言われている。

 四月から有紗はほとんど圭理のマンションから出ていない。
 たまには日差しを浴びるように言われ、マンションの敷地内の公園を歩いたりするくらいだった。買い物もすべて生協で済ませている。
 日々大きくなってゆくおなかを見て、どうしていいかわからなくなることも多い。でももうどうにもならない。中絶する気もない、できない。最初からその選択肢は与えられていなかった。
 
 自分に子どもを愛することができるのだろうか。
 自分がされたようにしてしまうのではないか。
 そんな不安がなかったわけじゃない。その気持ちを圭理にもちゃんと伝えている。だけど圭理は笑顔で有紗を抱きしめて「大丈夫だ」と言った。

「有紗はひとりじゃない。オレがちゃんと有紗と子どもを見ている。そんなことには絶対ならないから安心しろ」

 不安に押しつぶされそうになりながら圭理に縋った。
 有紗と同じくらいの時、母も自分を身ごもった。だけど縋れるのは両親だけ、夫はいなかった。どんなに不安だったか計り知れない。
 でも有紗には縋る両親はいない。その代わり圭理がいる。しかも産婦人科医だ。無事に生ませてくれるだろう。それに圭理の両親もいる。
 母親より恵まれた環境に身をおいて何を不安がることがあるのか、必死で自分を奮い立てた。
 
 美春のように「生まなきゃよかった」とだけは思いたくない。
 
 圭理の家に引っ越して、美春との繋がりが切れた。
 アパートの解約等はすべて圭理が済ませ、引っ越しもあっという間に終わった。引っ越しすることを美春の勤め先のスナックに報告に行こうとしたら圭理に止められた。もう会うな、そう言われた。
 不思議と悲しいとか嫌だとかいう気持ちにはならなかった。今の有紗には圭理の言葉が絶対だった。
 一生会えないかもしれない。だけどそれでもよかった。
 もしかしたら家がなくなっていることに気づいて連絡してくれるかもしれない。そんな思いがあったのかもしれない。
 だけどその手段を有紗が絶ってしまった。
 

 卒業式の日、郁弥と二人で撮ってもらった画像。
 それはすぐに郁弥から有紗の携帯に送信され、手元に残った。
 郁弥とは二度と会えない。だけどこの画像を思い出に残しておこうと心に決めていた。

 キッチンで何気なくその画像を見ていると、急に圭理が後ろに立って携帯の画面を覗き込んだ。

「何見てるの?」

 それに驚いた有紗は必死に隠そうとして手を滑らせ、シンクにおいてあった水をいっぱい張った洗面器に携帯を落としてしまった。
 圭理はすぐに謝ってくれた。だけど隠れてそんなことをしていた有紗が悪かったのだ。
 
 これは郁弥を忘れろ、という神様のお告げなんだ。
 未練がましく持ってようと思ったのが間違い。むしろ持っていることがいけないこと。圭理に対する裏切りになるのに、なぜそうしようとしていたのだろうか。

 そう思い、郁弥に関する全てを断ち切る覚悟を決めたのだった。


**


 だけど今日、郁弥に会って固めた決意が揺らいでいく。
 自分の中で必死に着けたはずの折り合いだったのに、こうも簡単に崩れるとは思わず、有紗の心はひどく揺れていた。

 ショッピングモールから帰ってきて、疲れただろうと有紗をねぎらい寝室で休むよう言ってくれた圭理を思うと申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。
 ベッドで横になり、腹部を撫でるとぽこんと蹴られる感覚がした。こんな時でも元気で母体の心理を理解してくれているように思えて目頭が熱くなる。

「ごめんなさい……圭くん」

 震える瞼を軽く閉じ、涙が流れ落ちるのを堪えようとしたけど溢れ出していつものように枕をと濡らしてしまう。今日は会えた分だけ苦しくて、嗚咽まで漏らしてしまっていた。

 ――郁弥に会いたい

 その思いを抑えることができなかった。
 郁弥との思い出がわき上がるように有紗の記憶を蘇らせる。
 なぜか郁弥と一緒にいて楽しかったこと、うれしかったことばかりが浮かび上がり、辛かったことは有紗の中から消去されたように思い出すことができなかった。 

 去年のクリスマスイブのこと。両思いになったあの日。
 こんなに幸せなことはない。そう思いながら溺れるように郁弥に抱かれた。
 初めてのキスはケーキの味だった。
 甘くてとろけそうで、柔らかくて気持ちよかった。
 
 指先で唇に触れてみるけど、郁弥の唇とは違う。
 それが寂しくて、その感覚を蘇らせようとするけど不可能だった。
 その時、再び腹部に訪れる感覚。

「ごめんね、ママしっかりしないとだね。もう大丈夫だから」

 ゆっくりと宥めるように腹部を撫でると、じんわりと暖かい気持ちになる。
 強くならないといけない。そう思いながら眠りの波に身を任せ、そのままさらわれていった。


***


 自宅に戻った郁弥は自室のベッドに横になり、着信のない携帯を見続けていた。
 
 しばらくは有紗の出方を見るつもりだった。
 連絡をくれればすぐにでも迎えに行くつもりでいる。だけど来ない場合は郁弥を必要としていないと思わざるを得ない。

 有紗の子どもはもうすぐ八ヶ月だと言っていた。
 ネットで調べてみたところ、有紗の妊娠時期は去年の十二月辺りになるはずだった。

 クリスマスイブのあの日のことを思い出していた。
 有紗が意識を手離したあとに気づいた避妊具の破損。そこから漏れ出す白濁色の液体。
 有紗は子どもができない身体だと思いこんでそのことは伝えずにいた。だけど今日の有紗を見たら一目瞭然だった。
 おなかの子どもの父親は郁弥の可能性もある。むしろその可能性が高いと郁弥は思っていた。
 有紗はあのクリスマスイブの行為で郁弥が避妊に失敗したことを知らずにいる。だからあの時「その子は」と尋ねたら悲しそうに顔を歪めたのだろう。

 あの日、思いを誓い合った。
 有紗は郁弥を好きだと言った。それなのに他の男に抱かれるなんてあり得るだろうか。いや、あり得ない。そう考えたら有紗が圭理に無理矢理身体を暴かれたとしか思えなかった。
 有紗が腹の子を郁弥の子どもだとわかっているのなら、圭理と結婚なんかするはずがない。

 直接、天道圭理に話をつけにいくべきかもしれない。

 そう思い立った郁弥は電話番号案内をコールしていた。

 
 翌日の昼休み。
 少し早めに食事を切り上げた郁弥は郁人や従業員の輪から離れ、電話をかけていた。
 相手先も昼休み中なのか、コールを続けても通話にならず諦めかけた時、プツッと音が聞こえた。

『はい、天道産婦人科病院です』

 男の声だった。
 受付の人なら女性だろうという思いこみでかけていたので、少しだけ戸惑ってしまう。

『――もしもし?』

 相手の怪訝な声の反応に我に返って一度だけ大きく深呼吸をした。

「すみません、園田と申しますが天道先生とお話がしたいのですが」
『……診察の予約ですか?』
「いえ、違います」
『どういったご用件でしょう』
「あの、詳しくはご本人と話がしたいので、かわってはいただけないでしょうか」
『天道は二人おりますが』

 ややとげのある言い方や口調なのは仕方がないと思う。
 こちらの名前は伝えたものの身分を明かしてはいないのだから。

「天道、圭理先生です」
『それなら私ですが、なにか?』

 ――まさかの本人?

 ぐっと息を呑んだ瞬間喉元からこみ上げるような変な音が出てしまったのに気づかれていないといいけど。
 そう思いながら落ち着くために、もう一度大きく深呼吸をした。

「昨日、お会いしました、園田郁弥と申します」
『……あぁ、妻の同級生の。私になにか?』
「少しだけお時間をいただけないでしょうか? 話があるんです」
『妻にでなく私に?』

 少し間があった後。

『少し立て込んでいましてね、仕事柄時間のお約束ができないんです』
「ほっ、ほんの少しでいいんです!」
『今から少し所用で出るものでしてね、本当に時間が……それにお約束しても急な分娩が入ることもありますし、よろしかったらそちらの番号を教えていただければ都合のつく時こちらからかけ直しますが』

 かけ直してくれる可能性はあるのだろうか。
 そう思いながらも、一縷の望みをかけ、自身の番号を教えるしかなかった。


→ NEXT
→ BACK
    web拍手 by FC2
*    *    *

Information

Date:2014/11/13
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

Comment

コメントの投稿








 ブログ管理者以外には秘密にする

Trackback

TrackbackUrl:http://ageha572.blog.fc2.com/tb.php/413-f4333ca0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)