空色なキモチ

□ 掌の鼓動 □

掌の鼓動 32

第三十二話

現在 23




 自由登校になり、バイトだけの生活になった有紗が体調の変化に気づいたのは二月に入ったばかりの頃だった。
 なんとなく気怠くて身体が熱っぽいと感じた朝、自宅のトイレで何気なく視線を落としたサニタリーボックス。

 ――そういえば、今年に入ってから来てない、かも

 収納してある生理用品が全く減っていないことに気づいた。
 今までだったら月の中旬辺りに来ていたはず。それに気づかなかったのは仕事に夢中になっていたからだろう。
 産婦人科も書店のバイトも楽しかった。必要とされていることがうれしかった有紗はできることを夢中になって精一杯こなしていた。
 
 今まで学校とバイトの往復生活だった。
 その学校がなくなり、朝から晩までバイトをするようになった環境の変化かもしれない。そう軽く流していた。 
 卒業して就職してしまえば落ち着くだろう。
 そうすればこの生活が普通になるのだから自ずと戻るはず。そんなふうに考えていた。


 その数日後、有紗は産婦人科のバイト中にめまいで倒れた。
 幸いそばにいた圭理が間一髪で抱き留め、意識を取り戻した時には個室のベッドの上だった。
 足が大枕で挙上され、不安げな表情の圭理がベッドサイドに座っていた。ほっとした様子で前髪をかきあげ、頭を撫でられる。その暖かさとわずかに思い当たる節に有紗は瞼を伏せた。

「最近体調の変化はなかったか?」

 びくっと全身で反応を示してしまったことに気づいていた。
 それを圭理が見逃さないはずがなかった。

「圭くん……」
「言ってみろ」

 言うべきなのか。
 圭理に余計に心配かけるだけだ。でも隠しきるのは難しい。
 宥めるように頭を撫でられ、優しい顔で「大丈夫だ」と繰り返される。
 数日前に気づいたばかりの体調の変化を細かく伝えると、圭理の眉根にくっきりと皺が寄るのがわかった。最終月経を聞かれ、曖昧ながらも十二月十日辺りだと答えた。

「有紗、嫌かもしれないけど――」

 内診と尿・血液検査を勧められ、外来終了後に施行されることになった。
 尿と血液検査はともかく、内診は恥ずかしい。だけど今はそうも言ってられず有紗は素直に応じた。
 圭理は兄みたいなもの、それに医師だ。意識しなければいいだけ。
 最初に血液を採り、尿検査を受ける。なぜ血液検査なのか尋ねると貧血があるかもしれないから見るためと言われた。血液データは外部発注だからすぐに結果が出ないことはわかっている。

 検査室から出てきた圭理はすぐに内診の準備を始め、有紗を診察室に入れて内診台に乗るように告げた。
 カーテンで仕切られた向こうに圭理がいて、今まさに郁弥以外の男性誰にも見せたことがないデリケートな部分をさらそうとしている。羞恥で頭がおかしくなりそうだったけど腹をくくるしかない。

「力抜いて、器具を入れるからちょっと気持ち悪いぞ」
「……うん」
「ゆーっくり呼吸してて。大丈夫だから」
「ん……っあっ!」

 堅い無機質な器具が自分の膣に入り込むのを感じ、小さく声をあげてしまっていた。それがわずかに広がるような感覚がして再び喉元で呻いてしまう。

「ん……ぅ」
「大丈夫だから、有紗。右にあるモニター見れるか?」

 圭理の問いかけ通り、右に置いてある四角いモニターの方に顔を向けた。恐る恐る目を開けて見るけど、なにがなんだかよくわからない。つつっと白い線が出現し、大きさを測っているように見えた。

「ここ、見えるか?」
「うん……」
「これが胎嚢」
「たい、のう?」
「妊娠してる」
「――えっ?」

 聞き間違いかと思った有紗の声は一瞬だけ遅れたように響く。
 
 まさか、と思っていた。
 あれから郁弥はずっと避妊をしてくれていた。だから圭理に検査を勧められてもそれだけは無いはずと頭の中で否定し続けていた。

 ――それなのに

 内診台がゆっくりと降り、カーテンの向こうの圭理が器具を片づけようとしている音がする。
 かちゃかちゃと妙に無機質で冷やかなものに聞こえた。普段なら全く気にならないだろうけど、神経が高ぶっているのかやたら耳に障る。有紗の手は震えていて、スムーズに下着を着用することができなかった。
 支度をして診察室に、と圭理の小さな声。そこから心情は窺い知ることはできない。
 どくん、どくん、どくんと鼓動が高まり、少しでも動揺を抑えたくて看護助手用の青い白衣のお腹の辺りを手で覆ってぎゅっと握りしめる。自身の荒い呼吸の音が煩く感じた。

 ここに赤ちゃんがいる。
 郁弥の子を宿した。でも、どうすればいいのかわからない。
 不安だけが波のように押し寄せてくる。郁弥に伝えたらどんな顔をされるだろうか。もしかしたら喜んでくれるかも、そんな思いが浮かばなかったわけではない。もしそうならばともに喜び安心することができる。それよりも迷惑だと言われるほうを想像したら震えがきた。その可能性がないわけではなく、むしろ就職が決まったばかりの郁弥には負担が大きいはずだ。

「有紗」

 その場で佇んだままじっと動けずにいると、診察室の方から声をかけられ、有紗はようやく我に返ることができた。
 圭理は怒っているはず。
 あれだけ妊娠について口酸っぱく言われていたのに、こんなことになってしまった。
 コンドームを使用していても避妊率はは百パーセントではないことは知っていた。だけどまさかそのわずかな確率に当たってしまうなんて誰が想像できただろうか。
 重い足取りで診察室に戻ると扉口に圭理が立っている。俯いた有紗の視界には圭理の着崩した白衣と緩められた濃紺のネクタイしか見えない。振り仰ぐように圭理を見上げると、なぜかはにかんだような笑みを向けられていた。

「け、くん……わたし……」
「うん」
「ごめんなさっ……」

 最後まで言う前に、その胸に抱き寄せられていた。
 ぎゅうっと音が鳴るんじゃないくらいに強く抱きしめられる。
 なぜ、という思いが有紗を襲う。軽蔑され、突き放されても見放されてもおかしくないのに、なんで。
 頭の天辺の辺りにふわっと柔らかいものが触れ、その後すぐに宥めるように何度も頭を撫でられた。

「ありがとう……ありがとう、有紗」

 圭理が何度もそう繰り返す。
 言いようもない押し寄せる不安から逃れたくて、圭理の背中に縋るように手を回そうとしていた有紗の手が止まった。

「オレの子だ」
「……え?」
「結婚しよう。有紗」

 頭の中が真っ白だった。
 厳密に言えば真っ白ではない。考えがまとまらず、ぐるぐると渦を巻いているような感覚。たとえるなら真っ黒いコーヒーをティースプーンで混ぜた後ミルクを一筋垂らして円を描くような。
 一瞬強く拍動した心臓が痛いくらい胸を締めつけ、有紗の思考力を奪っていく。だけど圭理の心臓の音は妙にはっきりと有紗に伝わっていた。

「男の子かな、女の子かな。楽しみだな」
「圭く……ど、して」

 足下ががくがくしておぼつかない。
 そんな有紗を圭理が掬うように抱きしめ直した。

「クリスマスの時……そっか、有紗は酔ってたしな」
「っ?!」
「圭くんって、何度もオレの名前呼んでくれてたけど……やっぱり記憶無かったか」
「う、そ……っ」

 夢だと思っていた。
 やけにリアルな夢だとは思っていたけど、あの時自分の身に起こっていたことを想像したら震えが止まらなくなる。

「セフレのことなんか、すぐに忘れるはずだ。子どもができたんだから」
「あ……あ……」
「大丈夫だ。ずっとそばにいるから。幸せになろうな」

 苦しげに喘ぐような呼吸しかできない有紗の背中を何度も圭理が優しくさすり続けていた。


**


 翌日。
 仕事を終えた圭理はとある場所に向かっていた。
 
 昨日から有紗は圭理のマンションで寝起きをともにしている。
 体調が優れなさそうなので今日は仕事を休ませた。明日は書店のバイトと言っていたけど無理そうなら休むと連絡を入れてやるつもりだ。
 
 寝室の隣の部屋がひとつ空いている。現在は物置になっているけどそこを有紗の部屋にしてもいい。将来的には子ども部屋にしてもいい。大きくなったら家を建てるのもありだろう。

 妊娠を知り、一夜明けた後の有紗は比較的落ち着いているように見えた。
 一方、先の人生設計を想像して圭理は幸せを噛みしめていた。
 凍てつくような冷たい風を頬に感じ、黒のマフラーを耳元まで巻き直す。

「いらっしゃい――」

 趣味の悪い店の扉を開くと、やや酒焼けしたような女の声が聞こえた。
 茶色に染めた髪が肩の辺りで緩いウエーブを描き、その顔は厚ぼったく化粧が施されている。ふっくらとした唇は真っ赤な口紅で彩られ、睫毛はバサバサと音を立てるくらい。真っ黒なアイライン、上眼瞼はピンクのアイシャドウで塗りたくられている。チークは影を作ろうとしているのか不自然にこけて見えた。
 本来の顔が全く分からないようなその女はカウンターの中から圭理を見て、「あんたか」と忌々しそうにつぶやいた。
 週明けだからなのか客はひとりもいない。一番奥のカウンター席に座った圭理はなんでもいいから水割りをと注文した。

 場末のスナックという言葉がぴったりな店。
 内装も漂う空気さえも『昔はよかった』という雰囲気を醸し出している。古くさいソファは叩けば埃がたちこめそうだ。そしてあちこち傷のついたテーブルがお似合いの小さな店。貼られたビールのポスターも茶ばんでいる。

「何か用? なんでここを知ってるのよ」

 有紗の母、美春は数年前からこの店の雇われオーナーをしていた。
 有紗はこのことを知らない。前までの店で働いていると思っているはずだった。実際美春がこの店に移ったのを知っているのは圭理しかいない。そして美春が客の家に転がり込んでいることを知っているのも圭理しかいなかった。

「あんたの居所を調べるなんてたやすいことだ」
「金持ちの坊ちゃんがすることなんて興味ないけどさ」
 
 白い無地のコースターにやや大振りのグラスが置かれる。
 並々と注がれた水割りを口にすると、酒の味はほとんどしなかった。これじゃ客足が遠のくのも無理はない。
 美春は派手な赤いブラウスの胸元からライターを取り出して、銜えた煙草に火をつけた。

「で、何なの?」
「有紗と結婚する」
「はぁっ?」
「子どもができた」
「何言って……あの子はまだ高校生……ってか、あんた最初からそのつもりだったんだぁ。ハハッ! 笑えるわねっ」

 心底楽しそうな美春が煙草の先を圭理に向けて腹を抱えて笑い続けた。
 その美春を圭理は無表情に見つめ、一口酒を口にする。
 カウンターに肘をついて身を乗り出した美春が圭理にぐっと顔を近づける。酒とたばこの入り混じったなんとも言えない匂いに圭理がわずかに顔を歪めた。

「偽善者ぶって、結局はあの子の身体が目的だったってわけだ。逆紫の上計画ってやつ?」
「そんなんじゃない」
「まあ、あの子は私に似て見てくれはいいからね」
「一緒にしないでほしい。あんたみたいな女から有紗が生まれたなんて思いたくもない」
「あら、随分ね。有紗なんかで満足できるの? あんただってなかなか見てくれいいしモテるんじゃない?」

 ふふっと真っ赤な唇をつり上げて笑うその目元はわずかに有紗に似ているようにも見えるが、認めるのもしゃくだった圭理は気づかない振りをした。

「今まで浮いた話はなかったの?」
「有紗をもらうから、その報告に来ただけだ」
「ふん、つまんない男」
「有紗に二度と近づくな。それだけだ」

 ジャケットの胸ポケットから黒の長財布を取り出し、一万円札をカウンターに置く。それに美春の視線が落とされた。

「私はあの子の母親だよ。そんな指図を受ける言われはないね」
「今までほったらかしてそんなこと言える立場でもないだろう」
「親権は私のもんだからね」

 声をあげて笑う美春。
 その前に一枚の写真を滑らせるように差し出すと、それを見た美春の表情が一瞬で変わった。

「この男、あんたの今のパトロンだろう」
「……だったら何?」
「この男の素性を知っている。うちの伯父は警視総監なんだけど、あんた知ってたっけ?」

 横目で美春を見やると青ざめた表情で圭理を見ていた。
 唇はわなわなと震えている。

「叩けば埃のようにボロが出てくるだろう……その時はどうなるか、わからないわけじゃないよな?」
「あんた……」
「有紗に投資する金はあってもあんたに施す金は一銭もない。二度と有紗に近づくな」
「……」
「わかったな」

 ぐっと息をつめた美春が力なくうなずくのを確認して席を立つ。
 我が子なのに愛してやることができなかった娘を一瞬だけ思い浮かべる。後悔に似た思いが美春の胸の中を渦巻いたが、それは木枯らしのようにさっと消失したのだった。


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Date:2014/11/06
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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