第三十一話現在 22
正月を迎え、有紗は天道家の実家で三が日を過ごすことになった。
圭理と理平は休みなく交代で病院に向かい、診察と急な分娩に対応する。
有紗は仕事の予定ではなかったけど、人手があって困ることはないと思い、病院へ向かった。
「有紗ちゃんが手伝ってくれて助かった。ありがとうね」
「いえ、大したことはできませんが」
「そんなことないわよー。急な分娩が入って滅菌物も減ってきてたしそっちに手が回せるから大助かり。これ、うちで作ったお節なんだけど遠慮せずに食べてね」
ナースステーションの隣の休憩所で常勤の看護助手が次々に持ち寄った重箱を開けて有紗に食べるよう進めてくれる。
どのお節も色とりどりで朋美の作ったものに負けないくらいおいしい。お節ばかりじゃ主食がないと朋美がお手製のちらし寿司を差し入れしてくれて一時パーティーのような感覚でにぎわっていた。
働いていた方がよかった。
朋美もちょこちょこ病院へ顔を出すことになっていたし、ひとりで天道家に居るのも気が引けた。だったらこうして手伝うことができて満足だった。
正月はずっと園田家で過ごしている郁弥にメールをすると、画像つきの返信が来た。
そこには郁弥とともに目がくりっとしたショートカットのかわいらしい女の子が写っている。
十二月の初め、他校の女子生徒に腕を引かれて消えて行った郁弥のことを思い出す。その女子生徒はまぎれもなくこの子だった。
その画像の下に『妹の音葉』と書かれていてほっと安堵のため息を吐き、どっと力が抜けた。
信じていないわけじゃない。でもこんなにかわいい女の子と一緒に仲良さそうに写っている画像は妬かずにはいられない。そのくらい自分が郁弥に惹かれていることを自覚してまた恥ずかしくなる。
いつか音葉ちゃんに会わせてね、とメッセージすると『もちろん』と返事が来た。それがまたうれしくて笑みを浮かべていると、看護師に「彼氏?」と興味津々顔で聞かれ、深く詮索されないよう違うと一応誤魔化しておく。
新学期は自由登校になる。
大学を一般受験する生徒はひとりで黙々と勉強したいタイプと大勢でというタイプに分かれるだろう。
有紗のように就職組は登校してもすることはないので自宅待機になる。そもそも就職する生徒はほぼいない。
四月まで書店と天道産婦人科の掛け持ちでバイトをしようと思っていた。かぶらないようにシフトを組んでもらえれば毎日でもいい。
高校を卒業したら郁弥は園田造園に住み込みで働くことになっていた。
年が明ける前に、郁弥と園田郁人が一緒に育ての親、若槻克弥に頭を下げたという。漸く許しをもらえたとうれしそうに話していた。
園田造園は有紗が住んでいるアパートから電車で一時間近くかかる距離にある。きっと仕事で忙しい郁弥は会いに来れる時間も少ないだろう。有紗がちょくちょく会いに行けばいいことだけどできればずっとそばにいたい。園田造園の近くにアパートを借り直すことも視野に入れていた。美春はどうせもうここには戻ってこないはず。それなら自分の好きな場所で好きなように生きていこうと決意をしていた。
バイトを終え、アイスが食べたいと言い出した圭理とともにコンビニへ寄った。
圭理がアイスを選んでいる間、有紗は雑誌コーナーで住宅情報誌を手にした。軽い気持ちでぱらぱらと中身を見ていると、横に立ちはだかる陰に気づいて顔を上げた。怖い顔をした圭理が有紗を見下ろしている。
「圭くん、アイス決まったの?」
「なんだ、それ」
圭理の鋭い視線が持っていた雑誌に向けられる。
なんでこんなに怖い顔をしているのかわからず、雑誌を閉じて元にあった場所に戻した。
「ごめん、ただの立ち読み」
「立ち読みって、引っ越すつもりなのか?」
「え、うん……ちょっと考えてて」
「なんでだよ。うちの病院に就職するのに引っ越したら遠くなるじゃないか」
取って食われそうな勢いの圭理に思わずたじろいてしまった。
そんなに反対されると思ってなかったからどうしていいかわからず、ただただ圭理を見上げてなんて言ったらいいか言葉を探してしまう。
通り過ぎようとしたカップルが怪訝な目で二人を見ているのに気づき、圭理がばつの悪そうな顔を見せた。
「行くぞ」
やや乱暴に右腕を掴まれ強く引かれる。
圭理の反対側の手にはすでに購入済みのアイスがぶら下がっているのにその時気づいた。そのまませかされるようにコンビニを後にし、腕を引かれたまま連れてこられたのは圭理のマンションだった。
「え、今日は実家で……」
「ちゃんと理由を聞きたい」
アイスを買ったら圭理の実家に戻ることになっていた。
三が日くらい実家にいなさいと朋美に諭されたから。圭理がいれば有紗も泊まりやすいだろうという朋美の配慮だった。コンビニの袋には朋美に頼まれたアイスも入っているはず。
「理由なんてない。ただなんとなく見てただけなの! ごめんなさい、圭くん」
エレベーターに乗せられそうになり、慌てて嘘をついてしまった。
いくら寒い冬だとはいえ、いつまでもアイスを常温で持っていたら溶けてしまう。それに先に帰った朋美も理平も心配するはずだ。
「そうなのか?」
圭理が目を眇め、振り返る。
信じていない様子が表情から見てとれる。思いきり強くうなずいて肯定した。
「今のアパートは古いし、それに待ってても帰ってくる人なんかいないから……」
「有紗……」
「ごめんなさい。心配かけて」
ぽん、と頭の上に大きな掌が乗せられる。
わしゃわしゃと髪をかき乱すように撫でられくすぐったくて目を閉じると、圭理が「そっか」と小さく漏らした後。
「天道、有紗になればいい」
くぐもった声が耳に飛び込み、有紗は目を見開いた。
聞き間違いかと思った。動きが堅くならないようなるべく自然に圭理を見上げると大きな目が細められ、暖かい笑みを向けられていた。
「そうすれば、有紗を待っている人がいる」
「圭くん……」
こんなにも圭理に心配かけている自覚がなかった。
天道家の養女になれば父も母も兄もできるということ、つまり自分に家族を与えようとしてくれているのだと有紗は思っていた。
そんな圭理の優しさに涙が出そうなくらいうれしくて胸が熱くなるけど、同時に申し訳なさも感じていた。
これ以上心配をかけてはいけない。
「圭くん、ありがとう」
ごめんなさいの代わりにそう告げると、圭理は再びにっこりと微笑んだ。
**
拓弥からのメールが来たのは三が日を終えた翌日だった。
その日有紗は書店のバイトについていた。休憩時間に携帯を見ると拓弥の名前がディスプレイに表示されていて胸の奥の方がぎしりと軋み、一瞬呼吸をするのを忘れてしまっていた。
躊躇いながらそのメールを表示すると、簡単な新年の挨拶と今日の都合を聞く内容だった。
『もし都合がつくなら少しでいいから時間がほしい』
その文章を読み、どうしても話がしたいという拓弥の気持ちが伝わってきて断れなかった。バイト終了後ならと返信すると、すぐに『ありがとう。待っている』とだけ返事が来た。
「お疲れさま」
向かいのファストフードで待っていてくれたほうが気が楽なのに、拓弥はいつもそうしてはくれない。
ガードレールに腰を預け、軽く手を挙げる拓弥に申し訳ない気持ちしかなかった。
「これ、暖まるよ」
ファーのついた紺色の暖かそうなダウンジャケットのポケットからミルクティの小さめなペットボトルを取り出して渡された。
つい手を出してしまってから後悔したけど今更返す方が失礼だと思って「ありがとう」と素直に受け取っておいた。
なんで拓弥はこんなにも優しいのだろうか。
それは愚問だろう。信じられないけど拓弥は有紗を好きだと言っている。なにも返せないのに、拓弥はたくさんの優しさや暖かさをくれる。
どうして有紗なのだろうか。何度もそう考えたけど答えなど見つかりはしない。
有紗が郁弥じゃないとだめなように、拓弥もきっとそうなのだろう。その気持ちは理屈ではない。それは有紗が一番わかっていた。だからこそ深く考えなければならなかった。
自分なんかよりずっといい人が拓弥にはいるはず、そう思っても言えない。そんな簡単な言葉で済ませてはいけない気がする。そんな言葉をほしがっているはずもなく、気休めにすらもならないとわかっていた。思う相手が違うだけで有紗も同じ気持ちなのだから。
「正月なにしてた?」
歩きながらコーヒーを口にして拓弥が尋ねてきた。
えっ、と顔を見上げると前を向いたままの拓弥が話し始める。
「僕はね、寝正月だったよ。大晦日の夜、友達と近所の神社に行ったくらいかな。その日はオールナイトでカラオケしてた」
「そう、なんだ」
「男ばっかり七人も集まってさ、むさ苦しいったらこの上ないよ」
「でも、楽しそう」
「そう? だーれも彼女いないの。寂しい野郎の集まり……」
そこまで言い掛けて拓弥が口をつぐんだ。
ふと拓弥を見ると、切なげに眉を寄せて有紗を見ている。
「有紗ちゃんはなにしてた? やっぱり寝正月?」
そこで再び拓弥の言葉が止まった。
「拓弥さん?」
「ごめん、今日は有紗ちゃんの話が聞きたくてここに来たのに自分ばかり話してる」
なんとなく悔しそうに後頭部の辺りをかき乱し、拓弥が深く頭を下げる。
「有紗ちゃんといるとつい話したくなるんだ。なんでかな」
「……そうなんですか?」
「うん、安心するのかもしれない。きっと君は僕を否定したりしないって思いがどこかにあるのかも」
――否定
その言葉の意味を考え、さあっと血の気が引く思いがした。
違う、そうじゃない。有紗はこれから拓弥の思いを否定しようとしている。その意がなくても結果的にはそうなるはず。
「ごめ、なさい……」
零れ落ちるように有紗の口をついて出た謝罪の言葉。
それに拓弥が目を見開き、大きく首を横に振る。
ぐいっと手を引かれ、ビルとビルの間の細道に押し込められた。どん詰まりになったそこは道行く人の視線を避けるための拓弥の苦肉の策だとわかり、さらに強く胸が押しつぶされそうになる。
「謝らないで。ごめん」
「違う、ごめんなさい……わたし」
「お願いだ、謝らないで」
拓弥の顔が苦しげに歪むのを見て、有紗も必死に首を横に振っていた。
「拓弥さん、わたし……」
「有紗ちゃん! 君は悪くない。お願いだからもう謝らないで」
「でも――」
目の前に紺色のダウンジャケットが飛び込んでくる。
同時に足下で音が鳴り響く。持っていたペットボトルが地面に落ちた音。
気づいた時には苦しいくらいの強さで拓弥に抱きしめられていた。
「た、く」
「ごめん。君の気持ちはわかってるから……もう何も言わないで」
小さな震えが伝わってくる。
それが自分のものなのか拓弥のものなのかわからなくなっていた。
視界が歪み、拓弥の紺色のダウンの色がにじんで見えるようだった。涙の膜が雫となって頬を伝う。
抱きしめられている拓弥の腕に手を回し、二度うなずく。
泣いてはいけないと思うのに、さらにこみ上げてくる涙を抑えるすべを知らなかった。
こんなにも温かく包んでくれる人を傷つけている。自分がそうしているということが許せなくて苦しくて、ただただ無念だった。
ふと、圭理の口癖が頭に浮かぶ。
――ごめんじゃなくてありがとうが聞きたい
その圭理の気持ちが痛いほどわかって、有紗は「ありがとう」と、うわ言のように何度もつぶやいていた。
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