わたしと翔吾さんの内緒のおつき合いがふたたびはじまった。
内緒なのはわたしがお願いしたから。
翔吾さんは納得いかないようでぶーぶー文句を言っていたけど、社内の人にはまだ知られたくない。
だから、何もかも今まで通り。
ただ、気持ちだけは通じ合っている。
わたしが熱を出して、翔吾さんが看病をしてくれたあの時。
様々な誤解がとけて、再度愛を確認しあった。
その次の日の土曜、うちを出ていた翔吾さんに何があったのかはわからない。
『今日少し出てもいいかな? 家から服持ってきたりしたいし、あと寄るところも……』
そう言い残して出て行った後、大荷物を持って硬い表情の翔吾さんが帰って来たのは十四時を過ぎていた。
朝早く……と、言っても十時頃家を出た翔吾さん。
翔吾さんの家から
家までなら電車で一時間内だと思う。それなのにそれだけの時間がかかっていた。
寄るところ……。
海原さんと話をした?
怖くて訊けなかった。
訊いてはいけないような気がしていた。
だいぶ具合のよくなっていたわたしは玄関で翔吾さんを出迎えた。
翔吾さんは持っていた荷物を玄関の横に投げ捨て、勢いよく上がりこんで来ると同時にわたしをかき抱いた。
それはすごく強い力で、苦しいくらいでビックリしたけど……しばらくそのままにしておいたんだ。
ドキドキして火照っているであろうわたしの頬をひんやりしたコートが冷やしてくれた。
わたしは過去に翔吾さんと海原さんがどういう関係だったかは知らない。
でも少なくとも今は……わたしを好きでいてくれてる。
その気持ちだけを信じたいって思った。そしてこれからも信じていきたい。
**
誰にも言わないつもりだったけど、さすがに同期の咲子にだけはバレた。
翔吾さんが嘘をついて電話番号を聞き出したり、わたしの家まで一緒についてきたりしたから。
すごく驚いていて信じてなさそうだった……けど。
「先輩達には内緒にしておくから、頑張って」
その表情は少し寂しげだった気がする。
もしかして、咲子は翔吾さんのこと本気だったのかもしれない。
そう考えたら少しだけ胸が痛んだ。
**
それから一ヶ月が過ぎた。
会社では相変わらず翔吾さんはわたしに仕事を頼む。容赦なく、いくらでも頼む。
おかげで残業になる日も数日あった……けど、一緒に帰れるからいいだろ? と丸め込まれた。
いいだろ? ってよくない! 就業時間内に終わらせるのが目標なのに。
そして今日も残業。PC室で入力をしている……時刻は十八時十分前。
できれば十八時までには終わらせたい。
逸る気持ちを押さえてテンキーを打ち続けている、と。
「雪乃、ただいま」
PC室の扉を開けるなり外回りから帰って来たばかりの翔吾さんがわたしを呼んだ。
「あっ! 雨宮さん……下の名前」
「あ、そうか。ごめんごめん。悪いけどお茶三つ淹れてくれないかな? 第一会議室でちょっと話し合いがあってさ」
……十八時越え、決定。
「んもう、社員同士の話し合いなら自販で済ませてほしいです」
給湯室でお茶を淹れていると、翔吾さんが運ぶとわざわざ来てくれたので少し文句を言ってやった。
すると笑ってごまかしながら、わたしがお茶を注ぐのを覗き見に近づいてくる。
「ごめん。雪乃のお茶飲みたいって三浦さんも斉木さんも言ってたからつい……」
「名前!」
「あー……つい。もうさ、くせになってるんだよね。今さら風間さんとか呼びにくいって言うか……」
「呼んでください」
キッと睨みつけて訴えると、デレデレした表情を見せた。
あーあ……まさかこの人のそんなデレ顔をこんな間近で見る日が来るなんて思いもしなかった。
「話し合いすぐ終わると思うんだよね、だから待ってて。今日は家に来ない?」
「……はい、でも社内じゃ」
「んじゃ駅前のシズールでいいよね。終わったら電話するから電源絶対落とさないで」
「ぷっ、はい」
つい笑ってしまうと、あからさまに翔吾さんがむっとした表情を見せた。
あ、いけないと思った時にはすでに遅く――
「――んっ!」
小さいシンクに腰を押し付けられて覆い被さるように翔吾さんが唇を重ねてきた。
シンクの縁を手で押さえてわたしの身体を挟み込んでるものだから動けないし逃げようがないっ。
こんなところ見られたらっ……扉のない給湯室でこんな!
彼の胸の辺りを二回タップして慌ててギブアップを訴えると、残念そうな表情で開放された。
「んもう! いい加減に……」
「あんまり大声出すと外に聞こえちゃうよ? 意地悪なこのお口が悪いんだからね。俺のせいじゃないよ」
すうっと翔吾さんの人差し指がわたしの下唇をなぞった。
それだけでぶるりと身体が震えてしまう。
悪戯を思いついた子供のようにニカッと微笑んで翔吾さんがお盆に乗せたお茶を持って給湯室を出ていく。
……あの人には、かなわないなあ。
とりあえず入力を早く終わらせて、十八時半に上がり、更衣室で着替えを済ませる。
携帯を見るけどまだ翔吾さんからの連絡はない。
この時間の残業終了者はいないみたいで更衣室は静かだった。
更衣室には小さな畳の部屋があってそこにはテーブルとお茶セットが置いてある。
いつでも誰でもそこで休めるようになっている。男子更衣室にもあるのかな?
外は寒いだろうし、ここで待ってようかな……IDは退出処理してきたから大丈夫だし。
誰もいない休憩スペースで足を伸ばしてお茶をすする。
ネット小説でも読んでよう。最近翔吾さんといる時間が長いからあまり読む暇がなくて更新作品増えているだろうな。
ずっと気になってたのが先生と女子高生の恋のお話。ハッピーエンドで安心したんだけど近々小話が投稿されるって楽しみにしてたんだ。
そう思って携帯電話のネット小説を開いた時、休憩所の扉が開いた。
立っていたのは無表情でわたしを見下ろす海原真奈美さん――
一瞬空気が張り詰めたような感覚を味わう。たぶんわたしだけだと思うけど……。
「あら、奇遇。今終わったの? お疲れ様」
ニッコリと微笑んでピンヒールの音をコツコツ鳴らしながら休憩所に入ってきた。
しなやかにヒールを脱いで少し高くなった畳の床に上がりこんでくる。
この寒いのにミニのタイトスカート……どんな時でもきれいに着飾っているこの人はすごいと思うし真似できない。
一方わたしはやっぱりいつものようにラフなグレーのボトムス。
海原さんはテーブルを挟んでわたしの目の前に座り、湯飲みを出してお茶を淹れ始めた。
「おかわりどう?」
「あ、結構です」
「あら、そうなの? 私が淹れるお茶、常務に評判いいのよ」
お茶を淹れる海原さんの手がすごくきれいだった。
爪にはマニキュアは施されておらず、トップコートのみなのかピカピカ光っている。
自分の手を見て愕然とした。あかぎれにかさつきが酷い。
鞄の中からハンドクリームを出して塗ると、それを見ていた海原さんがくすっと笑った。
「このハンドクリームよく効くの。使ってみて」
すっとテーブルの上に出されたチューブ式のハンドクリームはブランド物で有名人がよく使うってテレビでよく見るものだった。
モデルやら女優も好んで使うものをこの人も使っている。
そのハンドクリームを見つめて俯いていると、海原さんがそれを手に取った。
わたしのかさついた手をとって甲にクリームをつけられる。
「よくのばして」
余裕のある笑みを見せて、海原さんが手の甲をさするようなジェスチャーをしてみせた。
わたしの左手の甲につけられたクリームを、そっと撫でるようにのばしてみるとサラサラしていてとっても触感がよかった。匂いもきつくなくて優しくて少し甘い。
「ありがとうございます」
「いいのよ。よく効くのを使ったほうがいいわ。これ、使いかけだけどあげるから使ってみて」
目の前にハンドクリームが置かれた。
なんでわたしに? 安っぽいハンドクリーム使ってるから同情したの?
それにわたしのほうが一期先輩なのに、なんでこんなふうに下に見られないといけないんだろう。年が下だから? それとも……人間として下ってことなのだろうか。
こんな気持ちになるのいやなのに……どうしても卑屈になってしまう。
少しだけ顔をあげて海原さんを見ると少し首を傾げ、ニッと口元だけで微笑まれる。
でも、瞳の奥は笑っていない。
「あ、もしかして気分を害したかしら? ごめんなさいね」
「いえ……」
「あ、そうだ。あなたにも教えておこうかしら? 今後の参考に?」
「……え?」
改めてそんなことを言われるなんて嫌な予感しかしなかった。
翔吾さんのことだってのは間違いないだろうけど……喉に生唾がゴクリと通る。
「まだ彼には言ってないんだけど……」
湯飲みをテーブルに置く音が静かな休憩室に響く。
穏やかな雰囲気のまま海原さんはまた口元だけで笑顔を作って見せた。
引き締まった唇は艶があってすごく色っぽい。
彼って……翔吾さんのこと……だよね。
「今、妊娠三ヶ月なの」
「――――!!」
わたしは呼吸をするのを自然にやめていた。
吸気したままで、苦しいと思うまで気づかなかった。
妊娠三ヶ月。
頭の中でそのフレーズがぐるぐるまわり続けた。
目の前の海原さんが愛おしそうな表情で自分の腹部を擦っている。
湯飲みを包んでいたわたしの手が震えてカタカタ音を奏でた。
妊娠三ヶ月、その単語はわたしの過去を思い出させた。
手だけじゃなくて身体全体が震え上がる。
忌まわしいあの過去。
「母子手帳、もらいに行ったら彼にも報告しようと思ってるのよ」
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