第十六話過去 2【郁弥と拓弥】
郁弥と拓弥は別の小学校へ通い始めた。
拓弥は幼稚舎から大学までエスカレーター式の学校、秀英初等部に通っていた。
何事もなければもちろん試験はあるものの、そのまま秀英大学まで進むことが可能である。
そこにいきなり双子の弟が現れて拓弥の友達やその親に不審がられるのは不本意なため、郁弥は家のそばの公立の小学校へ転校することになった。
郁弥は両親を求めて夜泣きをすることが多く、そういう時すぐに拓弥が駆け寄って一緒に寝ることが多かった。ただし郁弥が本宅にいられるのは鞠子が不在の時のみ。鞠子が退院してきたらそうはいかない。
郁弥のいる別宅へ行きたがる拓弥と行かせたくない鞠子。
鞠子が帰ってくれば郁弥はひとり大きなベッドで涙を流して眠る日々が続く。
拓弥が一緒にいてくれると不思議とよく眠れた。妹の音葉に会いたい気持ちもあったけど、新弥と美智がなるべく拓弥と分け隔てなく育てるよう心がけてくれたのもあり、本宅で生活している間は自然に若槻家の家族に馴染んでいた。
しかし二人が小学二年生になる頃、拓弥と同じくらい郁弥をかわいがっていた美智の足腰が少しずつ弱りはじめ、別宅の清掃や洗濯は本宅で雇っている家政婦が行うようになった。
心の拠り所の祖母ともあまり接することができなくなり、郁弥はますます沈んでいく。
いい子にしていれば本当の父が迎えに気てくれるかもしれない。
そんな気持ちで必死にいい子でいようと努力し続け、鞠子不在の若槻家では叱られることは一度もなかった。
唯一鞠子の存在だけが怖かった。
挨拶をしても口も利いてもらえない。恨むような目で見下され、急に大声を上げて暴れ出す。胸に氷の刃を突きつけられたような恐怖感に襲われるのだった。
郁弥は克弥にも心を開くことはなかった。
克弥が葉子の前に現れてすぐに亡くなったことで母の死はこの男のせいだと思いこんでいた。
別宅でひとり過ごす郁弥を訪れ、一緒に食事をしたり風呂に入ったり添い寝しても郁弥は自ら口を開くことはなかった。むしろ拒絶の意を示しているようにしか見えなかった。
書斎にいると言いつつもふと本宅を出ていく克弥を知り、鞠子は最初浮気を疑った。
しかしその後を付けてみれば別宅へと入っていく。浮気よりもたちが悪い。よりにもよって憎い妹の子。しかも愛する夫との――
中途半端に鞠子自身とも血が繋がっていることがおぞましくさえ思えた。
鞠子の怒りは頂点に達する。
郁弥さえいなければ、克弥の愛を取り戻せるに違いない。
歪んだ愛は間違った方向へ進み続ける。
新しい小学校で親しい友達がたくさんでき、少しずつ元の明るい性格を取り戻しつつあった郁弥。
二年生になり更に新しい友達も増えて学校生活が楽しくなった頃、郁弥の住む別宅で火災が起きた。
幸い郁弥は近所の友達の家に遊びに行っていて無事だったものの、血相を変えた克弥は仕事を放り出して家に戻った。
家に帰宅していた郁弥は本宅の縁側で美智に抱きつき、震えながら泣いていた。
郁弥の無事を自身の目で確認した克弥は安堵のあまりその場に崩れ落ちるようにして地面に膝をついた。
すでに鎮火した別宅はほぼ全焼だったが、本宅に火の手が移ることはなく消し止められていた。
あの別宅の中には園田家から持ってきた郁弥の私服やアルバムや思い出の品がたくさんあったはず。痛ましくて抱きしめてやろうと手を伸ばすと、客間の扉の陰で憎悪の視線を向けた鞠子が見つめているのに気づいてしまった。そしてその口元はうすらと笑みを浮かべて。
――まさか、鞠子が。
その思いを払拭することはできなかった。
それからすぐに鞠子は再入院することになり、郁弥は本宅で生活することになった。
しかしまた退院してくれば郁弥を本宅に住まわせることは不可能なので、すぐに新しい別宅が建てられることになった。
**
火事が起きてからしばらくの間、郁弥は不安定になった。
寝ている間に何度も失禁するようになり、いたたまれず自ら進んで別宅で生活するようになっていた。
食事と風呂をすませるとすぐに別宅に籠もってしまう。克弥が訪れても背中を向けて布団にくるまり寝たふりをするようになった。
だけど拓弥が来ると違う反応を見せた。一緒に布団に入り、好きな漫画や戦闘ヒーローの話を眠くなるまでずっと語り合う。本宅で郁弥が生活するのではなく、別宅に拓弥が足繁く通う形に変わった。
郁弥と拓弥の好みは非常に似ており、拓弥がほしがるものは郁弥もほしがった。だけどそんな気持ちをなかなか克弥に見せようとはしなかった。
拓弥に買い与えたものと同じものを郁弥にも買い与えた。だけど受け取ろうとはせず、拓弥が自分のおもちゃを別宅へ持って行って一緒に遊ぶのが本当に楽しそうに見えた。
物で釣るわけではない。ただ、拓弥や両親に見せる笑顔を自分にも向けてほしい。
克弥の切なる願いはいつまでも郁弥に届くことはなかった。
郁弥は葉子によく似ていた。今は亡き葉子の忘れ形見の郁弥に嫌われているのは悲しかった。
葉子が亡くなったのは事故だった。だけど自分が追いつめたせいで命を落としたのかもしれない。そうであってほしくないという思いがよりいっそう郁弥にそして葉子に許しを請うような強い愛情にかわっていく。
鞠子はずっと入退院を繰り返していた。
症状はだいぶ落ち着き、帰って来て郁弥を見てもヒステリックに叫ぶこともなくなっていたが、冷ややかな目線は変わらなかった。だけど自ら郁弥に声をかけるようにもなっていた。
「これから私のことをお母様と呼びなさい」
退院した鞠子が初めて郁弥にかけた言葉だった。
目を丸くした郁弥はうん、と一度だけうなずいた。
若槻家に来て唯一怖い存在だった拓弥の母。視線が合えばまるで汚らわしいものを見るような目を向けられていた。園田家にはそんなふうに郁弥を見る人はいなかった。
若槻家に来てすでに三年になろうとしていた。
初めてそう言われて信じられない気持ちでいっぱいだった。
もしかしてようやく自分という存在を認めてもらえたのかもしれない。それがうれしくて『お母様』とすぐに呼んだ。
だけど鞠子はふっと冷たい笑みを浮かべ、拓弥の方に向き直る。
「拓ちゃん、今日はママと一緒に寝ましょう」
「やだよ。今日も郁弥とゲームをしながら寝るんだ。郁弥すごく強いんだ! クラスの誰よりも――」
「ママの言うことが聞けないの?」
わなわなと震え出す鞠子を見て、拓弥も郁弥も凍りついた。
「ねえ、拓ちゃん。そんな子よりママの方が大事でしょ?」
――そんな子。
それが自分のことだとすぐにわかった郁弥は悲しくて唇を噛みしめ俯いてしまう。
そんなわすかの仕草が生前の葉子に瓜二つで鞠子は目を剥いた。
次女で両親からはなんの期待もプレッシャーもかけられず、愛嬌があり好き勝手にのびのびと育てられ、素直で従順な性格。誰にでも優しくて愛される葉子。
それとは真逆な鞠子。小さい頃から厳しく育てられ、型にはまった人生のレールの上を一ミリたりともずれることなく走り続けてきた自身の人生が空しく、なんだったんだろうかという虚脱感さえ生まれた。
それと同時にこみ上げる行き場のない怒り、苦しみ、悲しみ、数多の感情が鞠子を支配し、まるで葉子の生き写しな郁弥が鞠子には憎くて堪らなかった。
「あんたは早くあっちに行きなさい!」
ヒステリックな声を上げ、鞠子が縁側の向こうの別宅を指さした。
その声に驚いた郁弥は弾かれるように縁側から裸足で飛び出して別宅へ逃げ込んでゆく。
「郁弥!」
拓弥が追おうとするも鞠子に背後から強く抱きしめられて動きを制限されてしまう。
自分の名前を呼び続ける拓弥の声がどんどん遠ざかる。部屋の扉を閉めたら全く聞こえなくなっていた。
扉に寄りかかり、郁弥は泣いた。
自分の母は葉子だけなのに、鞠子の権力に屈したような気がして『お母様』と呼んだことをひどく後悔していた。
母が恋しくて恋しくて苦しかった。
父も妹ももう顔も声も思い出せない。その存在しか記憶にない。
本当の父、郁人に捨てられ、ここに来ることになった。
手放さないでくれればこんな目にあったりしなかったのに。
いつしかそんな思いが郁弥の中に芽生え、郁人のことも恨むようになっていった。
***
やがて二人は中学生になり、鞠子の目の届かないところで拓弥とは仲良くしていた。
拓弥の学校は自宅から遠く、若槻法律事務所の専属運転手が毎日車で送迎をしている。帰ってくるのはいつも郁弥より遅い。
自宅のそばまで車で送ってもらい、そこから静かに徒歩で帰って来てこっそりと門を潜り、本宅には入らずに郁弥の部屋へ向かうのが拓弥の日課になっていた。
「ただいま、郁弥」
「おかえり。バレなかったか?」
「ぬかりないよ。でも今日は宿題が多くってあんまり遊べそうにないんだ」
すでに私服に着替えていた郁弥がしょんぼりと肩を落とす。
拓弥の学校は進学校でレベルも高い。もちろんエスカレーター式に秀英高校へ進学する生徒が多いが、他校へ進む生徒も毎年何人かはいた。中学一年から受験対策を考慮されたカリキュラムになっている。
「うへえ、拓弥の学校こんな難しいのやってるんだ」
「うん、難しいよね。これから勉強が遅れないよう家庭教師が来ることになったんだ」
「それじゃこうして遊ぶ時間も減っちゃうんだな」
うん、と残念そうにうなだれる拓弥を見て郁弥がその肩を叩いた。
「元気出せよ、拓弥。またいつでもここに来ればいいさ」
「そうだよな。僕と郁弥は兄弟だもん。ずっと一緒だもんな」
満足そうに笑顔を向ける拓弥に郁弥はうなずけずにいた。
本当に兄弟なのだろうか。若槻克弥は本当の自分の父親ではない。母だって否定していた幼いあの日のことを思い出す。
だけど本当の父だと信じていたあの男は自分を克弥に引き渡した。
真実はどこにあるのか、今の郁弥には探ることもできなかった。克弥に尋ねるのも不本意だった。
中学に進学した辺りから克弥が別宅に姿を現す回数が激減していた。
どうでもいい、来なくてせいせいすると思う反面、やはり自分はここにいてはいけない人間でいつか追い出されるのかもしれないという不安もあった。
なんで自分は生まれてきたのだろうか、いらないのなら生まなければよかったのに。
そう思うことも何度もあった。だけどその思いを秘め、なるべく深く考えないようほかのことに意識を向けるよう努力していた。深く掘り下げることでどんどん自分が嫌いになり、死にたくなる。
その思いにたどり着いた時、自分がどうなってしまうのかを想像するのが怖かったから。
拓弥が来られないのなら早く家に帰っても仕方ないので郁弥はバスケットボール部に入部した。
他の新入生に比べて一ヶ月遅れの入部だったものの、元々運動神経のいい郁弥はすぐにみんなに追いついた。
最初はボール拾いやランニング、基礎体力作りが主だったが、夏になる頃にはミニ試合に出してもらえるようになっていた。
その頃、拓弥の視力が低下し眼鏡を作成することになった。
眼科で処方箋を作ってもらい、眼鏡屋に行こうとする制服姿の拓弥と着物の鞠子を縁側で見かけた郁弥は「行ってらっしゃい」と二人に頭を下げた。するとつかつかと歩み寄ってきた鞠子はいきなり郁弥の頬を叩いた。
「あんたのせいで拓ちゃんの視力が下がったのよ。謝りなさい」
すでに鞠子の身長をとうに抜いた郁弥は唖然として叩かれた方向から顔を動かせずにいた。
「母さん! 郁弥は関係ないよ!」
「拓ちゃんは優しいからあんたにゲームを勧められて断れなかったのよ! 早く謝りなさい!」
「違う! 僕が郁弥を誘ったんだ! 郁弥に謝ってよ!」
目の前で押し問答する鞠子と拓弥が滑稽に見えた。
確かに郁弥は拓弥と長いことゲームをやっていた。そしてそれを勧めてくれたのは拓弥だった。人気の高価なゲームで郁弥は持っていなかったし、絶対に勧められるはずもなかった。自分は若槻家の居候、いや、ただのお荷物なのだから。
だけどここで違うと言い張ってもこの人は納得しない。
自分を悪者に仕立て、服従すれば納得する。長年鞠子を見てそのことをわかっていた郁弥は「すみませんでした」と頭を下げた。
「行くわよ、拓ちゃん」
その謝罪に目もくれず、鞠子はさっさと門へ向かっていった。
拓弥が呆然と見守る中、郁弥は顔を上げニッと笑みを浮かべる。その左頬は真っ赤になっていた。
「早く行け。また雷落とされるぞ」
拓弥の肩をぽんと押し出す。
小さな声で「ごめん」とつぶやくような拓弥の声。
「気にすんなって」
そう言い残して別宅に向かいながら、鞠子に叩かれた頬がジンジン痛むのを指先でなぞる。
自分の居場所はここしかない。こうしていかないとここでも生きていけないんだ。
半ば諦めの気持ちで、流されながら生きていく覚悟を決めるしかなかった。
→ NEXT→ BACK
Information
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学