第十五話過去 1【郁弥と拓弥の母】女性特有の疾患名が出てきます。苦手なかたは回避してください。
若槻郁弥と拓弥はただの異母兄弟という間柄ではない。
郁弥の母、
葉子と拓弥の母、鞠子はれっきとした姉妹だった。鞠子が姉、葉子が妹である。
若槻家は弁護士一家でその歴史も長い。
輝かしい名声と有り余る財産は子孫に受け継がれる。その子孫が途絶えないよう、必ず由緒正しき家柄の娘と見合い結婚をさせられる運命になっていた。
男子が生めない妻は離縁させられる。たとえそれがいいところのお嬢様だったとしてもだ。
そしてその子どもは必ず弁護士にならなければならない。生まれた時からの決定事項であり、宿命ともいえる。
二人の父、
若槻克弥は二十六歳の時に縁談の話を受けた。
すでに弁護士にはなっていてあとは結婚をと急かせた克弥の父、
新弥が持ってきた縁談の相手は参議院議員
立花良蔵の長女、鞠子だった。
当時、鞠子は大学四年生。最初は乗り気ではなかった縁談だったものの、やや日本人離れした彫刻のような見た目の美しい克弥に一瞬にして心を奪われ、婚姻の受諾まではさほど時間を要しなかった。
だが、その時すでに克弥と葉子は秘めた恋愛関係になっていた。
鞠子との見合いという名の家族同士の顔合わせの席で、克弥は当時高校三年生の妹の葉子に一目惚れをした。それは葉子も同じ気持ちだった。
二人はすぐに心を通わせ、鞠子や家族にばれないようこっそりと逢引きを繰り返していた。
その思いは強く、克弥は葉子と結婚したいと新弥に直訴する。
しかし葉子はまだ高校生で克弥には相応しくないと取り付く島もない。
父に逆らえない克弥は鞠子との縁談が進んでいくのを歯痒い気持ちで耐えるしかなかった。
一方、葉子は克弥との結婚を望んではいなかった。姉、鞠子を欺いて逢引きを続けてしまう自分に罪悪感を抱きながらもどうしても克弥のことを諦めることができずにいた。
どんどん進む縁談。すでに結納の日取りも決まり、克弥は葉子と逃げる決意する。
何を失っても葉子だけは失いたくない。そんな気持ちが克弥を駆り立てた。だけど葉子はそれには応じなかった。姉を裏切るような真似はできない。すでに裏切っているも同然だけど、それだけはできないと克弥を拒んだ。
一度だけ――
葉子は克弥の胸に抱かれた。
それで忘れるから、あなたも私を忘れてください。
切り裂かれるような思いを胸に、葉子は初めてを克弥に捧げた。
高校卒業を控えた葉子の切なる想いだった。
**
その一ヶ月後、克弥と鞠子は結婚した。
鞠子はすぐに妊娠し、両家の親ともども喜びを分かち合っている陰でひとり悩む葉子の姿があった。
一ヶ月早く、葉子のおなかには生命が宿っていた。
間違いなく克弥の子。気づいた時にはすでに妊娠五ヶ月になっていた。
生理が止まっていたことには気づいてはいたものの、慣れない大学生活のストレスだとばかり思っていた。そう思いこもうとしていたのかもしれない。
元々痩せ型だった葉子の妊娠は一見気付かれないものだったが、五ヶ月を過ぎるとどんどん膨らみ続け、このまま隠し通せるものではなかった。
それにいち早く気付いたのが同じ高校を卒業した元クラスメイトの
園田郁人だった。
郁人と葉子は元々は幼なじみの間柄だった。しかし本人達も親同士も親しくはなく、ただのクラスメイト程度のつきあいで、高校に入学してから急速に仲良くなった。
同じ中学から葉子達の高校へ進学する生徒が少なく自宅からやや遠方にあったため、励まし合うようにして通学していたのが二人の距離を縮めるきっかけだった。
園田家は代々伝わる庭師一家である。
郁人の父、
雅人も有名な庭師で、剪定を依頼してもなかなか受けてもらえないくらい予約が殺到していた。
郁人も高校を卒業と共に父に弟子入りし、庭師見習いとして働いていた。葉子とはわずかな休みの日に時折会って学生時代を懐かしみ、話に花を咲かせたりしていた。
顔や四肢はさほど変わらないのにふっくらしてゆく葉子の体幹を見て違和感を覚えずにいられなかった郁人は躊躇いながらも問い質した。
まさかと思いながらも否定しない葉子にショックを受けた。
郁人は葉子に淡い恋心を抱いていたから。それはいつのことからかは覚えていないくらい自然に葉子に惹かれていた。
どうしたらいいかわからない、と泣き出す葉子を郁人は見捨てることなどできなかった。
父親である相手のこともすべて聞いた。その上で郁人は覚悟を決めた。
自分の子ということにしよう、と迷わずに郁人が言うも葉子は受け入れなかった。
それでは郁人に迷惑がかかると。
だけど揺るぎない郁人の思いに葉子が折れたのはそれからすぐのことだった。
郁人は葉子の父に殴られた。
さんざん罵倒され、責められても本当のことは言わなかった。
ただ「すみません」と謝り、ひれ伏す。そして葉子をくださいとひたすら希った。
そばにいた葉子が父を止めようとして駆け寄るとひと睨みで制し、口出しさせなかった。
郁人は何度追い払われてもめげずに立花家を訪問して頭を下げ続けた。その結果、葉子は立花家から勘当され、大学を辞めて園田家に嫁ぐことになった。
園田家は葉子を暖かく迎え入れた。
自分の息子の失態だと郁人を責めたこともあったけど初孫の誕生を心から待ちわび、最終的には一緒に立花家に謝罪に出向いて責任をもって葉子と子どもを守り、支えていくと約束してくれた。
鞠子は切迫早産を起こし、入院。三十三週で帝王切開にて出産。
一方葉子はなかなか陣痛が訪れず、妊娠四十一週で自然分娩に至った。
結果的には一ヶ月早く妊娠した葉子よりも鞠子の方が先に出産していた。
生まれた子の名前は郁弥。
わずかに心の奥に残る男、克弥と自分を暖かい愛で包んでくれる男、郁人の名前を一文字ずつ取った。命名したのは葉子で、郁人はその名の由来にも納得していた。
葉子は郁人と共に郁弥を愛おしんで育てた。
翌々年には女児を出産。郁人が
音葉と名づけた。
郁人は血の繋がらない兄妹を分け隔てなく育てた。
葉子の子だからかわいがれた。葉子の子は自分の子である。ずっと自分が葉子と二人の子を守っていくと思っていた。
その幸せな時間が失われるのはそれからしばらく経った時のことだった。
郁弥が小学生、娘の音葉が幼稚園の年中になった年の秋口の頃、郁弥を連れて買い物をする葉子をかつての恋人、克弥に見つけられてしまう。
葉子が手を引いている子はどう見ても克弥と鞠子の子、拓弥と同い年くらいの大きさだった。
克弥は葉子に話がしたいと引き留め、断ると近くにあった喫茶店に半ば強引に連れ込み自分の子なのではないのか問いつめた。だけど唇を噛みしめて俯いた葉子は口を開こうとはしない。
痺れを切らした克弥は優しい笑みを浮かべて子に名前を問いかけた。
その子は「園田郁弥」と元気に答え、年を尋ねれば「六歳!」とハキハキした声で教えてくれる。自分の息子と同い年なことを知った。
名前から自分の子だと確信を得る克弥と違うと言い張る葉子。それでも葉子を離そうとしない克弥。
挙句の果てに郁弥を認知すると言い出す克弥に葉子の身体が震えだした。
そんなことをされれば疎遠にはなっているものの実姉に克弥との過去の関係が露呈されてしまう。
それだけではなく現在の克弥はテレビにもよく出演しているほどの有名弁護士で、レギュラーでニュースのコメンテーターにもなっているほどだった。
そのことを知っていた葉子は克弥が隠し子騒動でスキャンダルに巻き込まれてしまうことを恐れた。
そしてなによりも愛する夫、郁人とかけがえのない子ども二人を引き離されてしまうのではないかと危惧した。
「夫も娘もいるんです。この幸せを奪わないで」
涙ながらに訴える葉子を克弥は苦しそうな目で見つめていた。
自分の子だけでなく、別の男の子を授かっていた葉子が恨めしかった。葉子と別れ、鞠子を選ぶ形にはなったことを悔やんでも悔やみきれずにいた。
心のどこかで葉子の幸せを祈っていたのも事実である。
もちろんちゃんと鞠子と息子の拓弥を愛していこう、そうしなければならないという気持ちもあった。
だけど自分の心のどこかには必ず葉子の姿があった。別れてから約七年、その美しさを失わず、あの頃よりも大人びた葉子を見てその気持ちが揺れるのに気づいてしまった。
自分以外の男に身を委ね、幸せに暮らしている葉子を許容できない気持ちが姿を現しだした。
「ママを泣かすな!」
それまで郁弥はおとなしくも心配そうに葉子を見ていたものの、泣き出したことに怒りを爆発させた。
飲んでいたクリームソーダのグラスが傾き、わずかな残りがテーブルに零れだす。
克弥の奢りだからと勧められたそれは初めて口にしたもので甘くてシュワシュワしていてとてもおいしかった。いいおじさんだと思っていた。
だけど母親を泣かされた時点で郁弥の中で克弥は敵に変化していた。
「パパに言いつけてやる! パパはおっかないんだぞ!」
「大丈夫だから、郁くん。ママは大丈夫だから」
父親の郁人は常に優しかった。だけどいたずらをした時は怒られた。
特に下手をしたら大事故に繋がるようなことをした場合は泣くまで叱られた。いかに危険なことであるかを知らしめ、二度と同じことをしないと思わせるように謝るまで本気で郁弥を叱り続けた。だけど手を上げることは一度もなかった。
克弥に怒りの感情をむき出しにする郁弥を抱きしめ、葉子はなんとか宥めようとする。
そんな郁弥と葉子を揺さぶりをかけるように、克弥はあくまで冷静に心無い言葉を浴びせかけた。
「君のパパは私だよ」
「やめて!」
「郁弥、君は私の子だ。見てごらん。爪の形も耳たぶも私にそっくりだ」
葉子が止めるのも聞かず、テーブルの上に置かれた郁弥の小さな手に克弥が自分の手を寄せた。
確かにその平べったくて横広がりの爪の形は恐ろしいほどよく似ていた。大きくない耳たぶは少し曲がっている。郁弥は驚愕し、葉子は言葉を失った。
「うそだ!」
「嘘じゃない。納得できないのなら目に見える証拠を出そう。郁弥、少しだけ時間をくれないか?」
三揃えのスーツのジャケットの内ポケットから皮の手帳を出し、そこに何かを書き始めた克弥を葉子と郁弥は息を詰めて静かに見つめていた。
ビッと音を立てて破かれたメモを葉子に向けた。そこには走り書きされた住所と電話番号、そして今から一週間後の日付と時間が記されている。おずおずと克弥を見ると深く大きくうなずいてみせた。
「DNA鑑定をするから郁弥とそこに来てほしい」
「お断りします」
「拒否をするということは肯定と受け取るまでだ」
声を潜めて冷ややかな口調で告げる克弥に葉子は唇を噛みしめた。
小さく首を横に振りながら「やめてください」とつぶやくような小さな声で繰り返す。
「この子はあの人の子です。間違いありません……だからそっとしておいて。お願いします」
克弥がつけた煙草の煙がくゆり、上に向かって伸びてゆく。
それを郁弥がじっと見つめていた。郁人も祖父も煙草を吸わない。園田家では煙草は厳禁だった。郁人の父が長年にわたる気管支喘息で悩まされているためだ。
それに気づいた克弥は煙を輪の形に吐き出し、郁弥が驚いて目を丸くするのを見て笑った。
「葉子、君を苦しめたいわけじゃない。ただ私はこの子を自分の子として受け入れたいだけだ」
それが自分のできる罪滅ぼしと言わんばかりに葉子を鋭い目で見つめた。
本心は違う、ただ葉子をもう一度自分に縛りつけたいだけなのかもしれない。
本当に今の夫を愛しているのか。そう聞きたい気持ちを抑え込み、腕時計をちらりと見て立ち上がった克弥はテーブルの上に置かれた伝票を手にした。
「必ず連絡がほしい。待っている」
そう言い残して去って行った。
その背中を見送る葉子に郁弥はずっと同じことを聞き続けた。
――僕はあのおじさんの子どもなの?
――パパの子どもじゃないの?
――ねえ、ママ? 聞いてるの?
真っ白になった頭の片隅で響く郁弥の声をどこか遠くで聞いているような気持ちになっていた。
葉子は悩んだ。
このことを郁人に告げるべきか否か。
悩み続け、とうとう約束の一週間になろうとしていたその前日。
買い物の帰り、考え事をしながらふらふらとした足取りで歩道を歩いていた葉子はふざけながら下校する小学生の団体に後ろから激突され、車道に押し出された。
そこに通りがかった車に撥ねられ、あっけなく命を落としたのだった。
園田家全員が奈落の底に突き落とされた。
いつも明るく家事をこなし、家族全員のオアシスだった葉子が一瞬でこの世を去ってしまったことに郁人もその両親も、もちろん二人の子も号泣し、悲しみに打ちひしがれた。
どうして葉子がこんな目に。
郁人は亡骸を抱きしめながらぽっかりと空いた喪失感と切り裂かれるような胸の痛みに我を忘れて慟哭した。
**
その数日後、克弥が園田家を訪れた。
家に通された克弥は郁人とその両親に真実を伝え、郁弥を引き取ると告げた。
もちろん園田家全員で断った。
だけど克弥は弁護士で、政界にもつてがあるほどの有名人である。
DNA鑑定をすることを提示し、それで自分の子だと認められれば親権は自身に移され、それでも拒絶するようなら法廷で争うと言われ引き下がるしかなかった。
その手のプロと争うような真似はできないと両親が引き、ひとり拒絶し続ける郁人。
しかし両親に「音葉がいるだろう」と諭され、あっけなく郁弥を克弥に引き渡すことが決まってしまった。
大泣きする郁弥を抱え、克弥は園田家を後にした。
若槻家に連れてこられた郁弥は両親には受け入れてもらえたものの、鞠子には嫌悪された。
鞠子は一度目の帝王切開後、子宮内膜症に悩まされて数年前に摘出手術を受けており、二度と子が授からない身体になっていた。
もうひとり孫がほしいと願っていた克弥の両親には顔向けができず、密かに悩み苦しんでいた。挙句の果て、手術後に克弥の両親が話していたことを鞠子はこっそりと聞いてしまっていた。
「やっぱり克弥の願い通り、葉子さんと結婚させるべきだったのかもしれないな」
ショックだった。
克弥は自分ではなく、妹との結婚を望んでいたなんて全く知らなかったから。
幼い頃から鞠子は葉子と自身を比較しては辛くなるコンプレックスの塊だった。
同じ切れ長の瞼も葉子はきりっとした美しさが滲み出ているのに、毬子はわずかに腫れぼったさが目立ち、化粧で目立たなくすることに余念がなかった。
克弥と結婚できたことで葉子に勝ったような気がしていたのに、最初から勝負になっていなかったことに深い衝撃を受けた。
それから鞠子はしばらく精神的に病み、子育てもまともにせずふさぎ込んで部屋から一歩も出ようとはしなかった。息子の拓弥は克弥の母、
美智が育てたと言っても過言ではない。
なぜそうなったのかわからず、どうすることもできなかった。
医師からは子宮を摘出したことによるホルモンバランスの異常と更年期障害の症状がかなり早く出現した可能性があるとだけ告げられた。
元々子育てが得意な美智は拓弥をかわいがり、母親代わりを完璧にこなした。
――妹が恨めしい、克弥の妻は私なのに。
そんな思いがずっと鞠子を苦しめ、立花家を勘当された葉子を恨むようになっていた。
そして少しずつ鞠子の状況がよくなりつつあった時に、妹が急逝。いきなり郁弥が目の前に現れた。
それだけでなく、妹と夫の子だと告げられたショックで鞠子は半狂乱になり、一時期精神科病棟へ入退院を繰り返すことになった。
鞠子が入院中は拓弥と郁弥は仲良く育てられた。
拓弥に弟だと説明するとすんなりと受け入れ、すぐに仲良くなった。そんな二人を新たな孫を望んだ美智は暖かい目で見つめていた。
一方克弥の父、新弥は最初は複雑な心境であった。
妻以外の女を妊娠させ、しかも認知したとなっては心穏やかではない上にマスコミにとって恰好のスキャンダルネタにされかねない。
しかし職業柄恨みを買われることも多く、誘拐や事件の火種になりやすい子の存在はメディアにも公開していない。もし世に知らされた場合は最初から双子であったと説明すればいいと意外と安易な考えを持っていた。
誰でも自分の子がかわいい。そのかわいい一人息子である克弥が本気で惚れた女、葉子との結婚を認めずにその姉との縁談を強引に進めてしまった罪悪感もあったため、きつく反対することもできなかった。
しかし鞠子が一時退院をしてきた時、郁弥がいるとすぐにパニックを起こしてしまう。
そうなると手がつけられなくなるため、本宅の庭に別宅を建てた。
鞠子が退院している間だけ郁弥はそこで生活をすることを余儀なくされたのだった。
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