第十四話現在 11
喉が渇いて目が覚めた郁弥は暗い部屋に人の気配を感じた。
ひとりで寝るには大きすぎるダブルベッド。自身の発する熱気以外の布団の温みを感じて身を捩ると、となりにいたのは小さな寝息を立てて眠る有紗だった。
ゆっくりと身を起こし、頬にかかった髪を耳にかけてやると少しだけ顔をしかめて小さな声をあげる。
有紗は郁弥の室内着を着ていた。ここに泊まる時いつも貸してやるもので有紗の身体には大きいけど肌触りがいいと気に入って着ている。
電気をつけてみると自分が着ているものもさっきと違うことに気づく。
コンビニへ行くために着替えた長いボーダーのシャツとゆったりとしたパンツはすでに脱がされていて、パジャマに着替えさせられていた。もしかしたら有紗が更衣をしてくれたのかもしれない。
ゆうべ有紗が帰った後から郁弥の体調はあまりよくなかった。
空腹を覚えたけど食べるものはなにもない。そのままなんとか寝てしまい、今朝起きてみたらゆうべより体調が優れず、制服のワイシャツを着るまではしたもののすぐに脱いでベッドへ戻った。
あまりにも空腹でどうにもならず、授業中の有紗にヘルプのメールを送る。
学校が終わったらすぐに向かうという返信だったけど、その頃になって少し遅れると連絡が来たので駅前のコンビニに買い物に出た。足元がふらついたのは空腹のせいだと思ったけど、いつもよりなんとなく身体が熱いような気もしていた。
その道すがら、拓弥とファミレスにいた有紗の姿を見かけて愕然とした。
なぜか目を逸らすことができずにその場で少し二人の様子を見つめていると、いつも郁弥には見せない笑顔を拓弥に向ける有紗に腹立たしい気持ちがこみ上げてくるのと同時に思った。
有紗の笑顔を見たことがない、と。
そして気がついた時にはその場に乗り込んでいた。
ひどく冷静ではいられなかった。郁弥はそんな自分自身に反吐が出そうな思いをしていた。
また拓弥に奪われる、そんな思いが郁弥の意識に上り頭が沸騰したかのように熱くなる。
その後の記憶がほとんどない。どうやってここまで帰ってきたのか。そしていつの間にか満たされた空腹。そういえば雑炊を食べたような気がする。ようやく少しずつ思い出してきた記憶を辿る。
それと夢にうなされたような記憶もあった。
莉彩の夢はひさしぶりだった。しかも泣きながら去って行くもの。
夢の中だけでも逢いたいと思っていた時期もあった。だけどもうその気持ちも薄らいでいたはず。
それなのに非情だと思った。しかも泣いた後のように瞼が重く、過去と現実を混同したような不明瞭な意識の中で見えたのは莉彩の笑顔、と思いきや半泣きの有紗だった。
有紗にみっともなく縋った記憶まで甦る。
恥ずかしさのあまり顔が熱くなった。だけどその時有紗が言った言葉を思い出す。
――行かないよ、郁くん。わたしはずっとそばにいるから
ほしかった言葉だった。
ずっとずっとそう言ってほしくて、求めていた。
じっと見つめていると暗闇に目が慣れてきて、まるで郁弥の視線に気づいたかのようなタイミングで小さく身じろいだ有紗がうっすらと目を開けた。
「あ、郁くん。起きた? 何か飲む?」
「ん、ああ」
「汗かいた? 着替えしようか」
寝起きなのにすぐに動き出し、ベッドから降りてクローゼットを開ける。
先に起きていたのにまだ頭がぼんやりしているのは熱のせいなのかもしれない。
「これ着替え。身体拭くからちょっと待ってて。あと飲み物持ってくるから」
あくびをしながら寝室を出ていく有紗の背中を見送って時計を見ると夜中の二時を過ぎていた。
いったいどのくらい眠っていたのだろうか。さっきより身体がすっきりしているように思えた。
「一緒に寝ちゃってごめんなさい。布団出そうと思ったんだけどうるさいと思って」
すぐに寝室に戻ってきた有紗が清涼飲料水の入ったコップを手渡す。
よほど喉が渇いていたようでそれを一気に飲み干すと、にこにこと有紗が微笑んでいた。
初めて自分に向けられた笑顔に胸が熱くなる。
なぜこの女はこんなにも優しい笑みを向けるのだろうか。
今までこんなふうに見てくれる女が他にいただろうか。媚びを売るような目で見られることは多々あっても、こんなふうに包み込むような暖かい眼差しを向けられた記憶がなかった。あるとしたら本当の母親だけ。
「身体拭くから」
あつあつの蒸しタオルが思ったよりも熱かったのか、手の上で何度も跳ねさせるそれを郁弥はじっと見つめていた。
蘇る幼い頃の記憶が郁弥の脳内を駆け巡る。
昔同じようなことがあった。本当に幼い頃のわずかな記憶。それをかき消すように頭を振り、勢いよくベッドから立ち上がるけどさっきのようにふらつくことはなかった。
「郁くん?」
「シャワー浴びてくる」
「えっ? 熱あがっちゃうよ」
「大丈夫」
それ以上有紗は何も言ってこなかった。
寝室の扉口で振り返ってみると、心配そうな目で郁弥を見つめている。
憂えた眼差しはわずかに揺れているように見え、ぞくりと背筋を何かが伝わるような感覚が襲う。
大股で近づくと有紗の目が大きく見開かれた。
何をしようとしているのか理解もできないままただ突き進んでいる自分に驚きを隠せず、郁弥の手は有紗の頬に触れそうなところまで伸びてぴたりと止まった。
「郁、くん?」
やや震えた声が耳に入ってきて我に返る。
有紗の瞳いっぱいに映る自身の姿を見て、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
伸ばした手をぐっと握りしめ、郁弥は再び背を向けて逃げるように寝室を後にした。
一瞬覚えた気持ちに動揺を隠せなかった。
なんでこんなにも心をかき乱されるのかわからなかった。
こんなふうに身体だけの関係のまま終わった女は数えきれないほどいる。それでも何の後腐れもなく次から次へといろんな女に手を出した。
それなのに、なんで目の前の女を抱きしめたいと思ってしまったのだろうか。
抱き心地、いわゆる身体の相性がいいだけと思っていた。そう思い込もうとしていたのかもしれない。
閉めた寝室の扉に寄りかかりながら、中にいる有紗のことを思って胸が締めつけられそうになる。
「りさ」
小さくつぶやけど、それが彼女の名前でないことは痛いほど理解している。だけどそう呼ばずにはいられなかった。
心の中にいる莉彩の存在が消えてなくなりそうなことに気づいていたから。
それが怖くて消え去りそうな莉彩の記憶を呼び起こし、彼女の姿に重ねてみる。
だけどぎゅっと閉じた郁弥の瞼の裏には莉彩ではなく有紗が浮かびあがるのが苦しくてたまらなかった。
**
シャワーを終えて戻ると、ベッドサイドに腰掛けた状態の有紗が立ち上がる。
「髪乾かさないとだめだよ」
「めんどくさい」
「ちょっと待ってて」
躊躇いなく寝室を小走りで出て行き、戻ってきたその手にはドライヤーが握られていた。
普段からあまりドライヤーをかけたりしない。タオルで拭いて無造作にしておくだけで時間が経てば乾いてしまうからほとんど意味をなさない物品だった。ここに泊まる女達のために置いてあったと言っても過言ではない。それを使って濡れた郁弥の髪を丁寧に乾かしだす。
「熱くない? 大丈夫?」
優しく梳かれる髪が額に触れてくすぐったかった。
だけどその手を振り払おうとは思えずに笑いを堪える。
こんな風になれなれしくしてくる女は苦手だったのに。そして自分にそうしていい存在は莉彩だけだったはず、それなのに。
少しだけ振り返ると、ん? といった顔で優しく微笑まれる。
その顔にわずかな焦燥感を覚えた。
違う、別の人間なのにどうしてこんなにも同じような暖かい感情を抱くことができるのだろうか。
莉彩以上の女は現れないと思っていた。そしてそれを望むこともなかった。郁弥にとっては莉彩が一番の女で、それしか望んでこなかった。
莉彩以外の女は誰も同じでよかった。そう思えきれなくなったのは本当に誤算だった。
自分に初めて身体を開かれる女をただ弄べればいいと思っていただけだったのに。
有紗は自分をどう思っているのだろうか。
さんざん好きなように扱い、必要な時だけ呼び出して妊娠しないことをいいことに中出しされる。今まで関係を持った異性の中で一番ひどい仕打ちをしている自覚もあった。そんな男のことを好きなわけがない。
だったらなぜずっとそばにいてくれるのだろうか。いつ見放されてもおかしくないのに。
「りさ」
「うん?」
「ありがとう」
不意について出た言葉に郁弥自身が一番驚くのだった。
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