第九話現在 6
万が一がこんなにも早く来るとは思わなかった圭理の視界は一瞬ぐらりと揺れ、このまま気を失ってしまいたいくらいの心境になった。
有紗がまた避妊に失敗したと言い出したのは、最初にアフターピルを渡してからわずか一ヶ月足らずのことだった。
同じ状況になった時は隠さずに言えと言ったのは圭理だ。だけどこんな短いスパンで二度も失敗するとは考えにくかったのも事実だった。
「本当に失敗したのか?」
申し訳なさそうに俯く有紗に怒りの矛先を向けたくなくて、心の中で何度も深呼吸を繰り返した。
小さく何度もうなずく有紗に聞きたいことはほかにもある。相手の男に会わせてほしいと言い掛けて、その口をつぐむ。
「なあ、有紗」
診察を終え、家に帰ろうとしていた矢先の出来事だった。
すでに外来看護師や事務員も帰宅し、静かな診察室に圭理の声だけが響き渡る。その緊迫感に有紗の身体がびくりと震えたように見えた。
圭理だけ椅子に座り、有紗はまるで反省しているかのように棒立ちで俯いている。患者用の椅子を勧めても首を振って座ろうとはしない。
「オレが心配してるのはわかってるな」
「う、うん」
「じゃ、どういう状況で失敗に至ったのか、きちんと説明してくれないか」
立ち上がって、再び座るように促すとようやく有紗が座ってくれた。その姿を見て圭理も座る。
医師と患者の椅子は造りが違う。医師用の椅子には肘掛けがついているが、患者用にはついていない。なるべく高圧的にならないよう圭理はそこに肘をかけないように気を配っている。少し前のめりになるようにして座っても俯く体勢を崩さない有紗の顔を覗き込んだ。
今日も首筋の見える位置に堂々と残されているキスマークの存在が圭理の苛立ちを膨らませ、必死に押さえ込んでいる例えようもない感情に揺さぶりをかけてゆく。怒りなのか嫉妬なのか、この気持ちの理由が圭理自身わからなくなっていた。
「つ、爪で、ひっ、ひっかけちゃったのかも、しっ、しれないって」
つまり装着前ということだろう。それに気づかず行為を始め、終わったあとに気づくパターンはあるはずだ。もっともらしい理由だけどそれが本当かどうかは定かではない。
「相手の爪はそんなに伸びているの?」
「う、どうだろう」
「爪が伸びているのなら切らせなさい。そのくらいは言えるだろう」
「う、ん」
「爪が伸びていると有紗の身体に傷が付く可能性もあるだろう。それにね、爪には細菌がいっぱいついている。わかるよな。そういうところから感染のリスクがあがったりもするんだ。性病のリスクもある。医者として妊娠だけでなくそういう面でも心配しているんだ」
傷つくのはいつも女性のほうだとなるべく言葉を選んで優しく伝えるようにに心がけたけど、肩をすくめてうんうんとうなずく有紗が可哀想になってしまう。
有紗だけじゃなく相手の男にもちゃんと説明したい。これでは有紗だけが責められているようで痛ましい。医者として、と強調してもっともらしいことを言っている自覚もあった。
もしかして行為を強要されているのではないか、そんな思いも脳裏を過ぎる。そうであってほしくない。
「嫌な思い、しているんじゃないか?」
なるべく冷静に声のトーンを落とさないよう気をつけて尋ねると、弾かれたように有紗が顔を上げた。
その表情は泣き出しそうなものに変化し、圭理の目を見て必死に首を横に振り続ける。
「ちがっ、違うの! 嫌な思いなんかっ」
「わかった」
「わたしが郁くんにっ!」
「わかった。わかったから」
興奮のあまりに目を真っ赤にした有紗の両肩を叩いて宥めると、小さく肩で息を繰り返し、落ち着こうとしているのがわかった。
有紗が郁くんとやらを好きなのだろう。
そう思ったらやるせない気持ちに陥った。もし有紗が嫌な思いをしていたとして、助けを求めてくれたのなら真っ先にその男の元へ行って行為をやめさせるのに。それすらもできないなんて。
「もし、また、万が一失敗したら、言うんだぞ」
もう一度その約束を取り付けると、申し訳なさそうに有紗がうなずいた。
万が一、前回はあえて使わなかったその言葉の重みが有紗に伝わればいいと祈るような思いでそう告げてしまう。
「はい……ごめんなさい。圭くん」
「ごめんなさいじゃなくて、『ありがとう』が聞きたい」
それは昔からの圭理の口癖だった。
美春やその男に虐げられ育った有紗は『ごめんなさい』が口癖になっている。そのことをずっと不憫に思っていた。
はっきりと言えない有紗にも非がないわけじゃない。だけど反省をしているのが見て取れたから、いつも通りそう伝えると、有紗が小さな声で「ありがとう」とつぶやいた。
***
圭理にアフターピルをもらい、家に戻った有紗はすぐにシャワーを浴びた。
今日の郁弥はいつも以上に荒々しく有紗を抱いた。
何かあったのかもしれないけど、それを聞くのもはばかられるくらいだった。口を開こうものなら掌で塞がれ、まだ潤っていない中を何度も穿たれた。痛みを伴い涙が出たけど郁弥はお構いなしだった。
郁弥とのセックスにキスはない。一度も唇を重ねたことがなかった。
その理由は「俺の女じゃないから」だった。
きっと本命の相手にはキスをするんだろう。そう思ったらなぜか泣けてくる。だけどそれを見られて友達でもいられなくなったら悲しい。だから泣くのを必死に堪えていた。
今日の避妊失敗は嘘だった。
前回は本当だったけど、今日は違う。
「あ、ゴムねーや。でもおまえ妊娠しないんだよな。ナマでいいか。外で出せば平気だろ」
一瞬言葉に詰まる有紗を見た郁弥は眉間にしわを寄せて目を眇めた。
確かに前回の失敗の時「たぶん大丈夫」だと言った。だけど妊娠しないとは一言も言っていない。
それに避妊しないことのリスクや外出しが避妊法じゃないことも圭理から聞かされていた。
なんて言っていいか言葉を選んでいるうちに、だめなのかよと無言の圧力をかけられて拒否権はないと思った有紗は躊躇いながらもうなずいていた。
本当はうなずいてはいけなかった。
またアフターピルをもらわないといけない。圭理が心配する。
郁弥に抱かれながらもその思いが頭から離れず行為に没頭できなかった。
たった一枚、避妊具をつけてくれればそんな思いは解消されるはずなのに。流されるまま受け入れてしまったことに激しく後悔していた。
案の定、圭理はひどく心配していた。
今度からは自分が避妊具を用意しよう。そうすればちゃんと避妊してくれるはず。買いに行くのは恥ずかしいけど、そのくらいは我慢しよう。爪を切ってもらうこともちゃんとお願いしよう。そう心に決めていた。
シャワーを浴び終え、居間に戻って鏡を見ると首筋に赤い痣が残っているのに気づいた。
この位置じゃブラウスから見えてしまうかも。もしかして圭理に気づかれていたかもしれない。
急にいたたまれない気持ちになり、夕食も食べず布団にくるまってぎゅっと目を閉じた。
圭理に嘘をついたこと、心配をかけていること。
その罪悪感に有紗の小さな胸は押し潰されそうになっていた。
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Thema:オリジナル小説
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