空色なキモチ

□ 掌の鼓動 □

掌の鼓動 8

第八話

現在 5




 そうは言ったものの、絶対に妊娠しないとは言い切れないことはわかっていた。
 かといってどうすることもできず重い気持ちのまま郁弥の家を出た。そんな不安を郁弥に知られるのも怖いくらいだった。
 天道産婦人科病院の前で足を止めると、門を閉めようとしている圭理と目が合う。

「今帰り? ずいぶん遅いな」
「あ、うん。友達と」
「そっか、じゃあちょうどよかった。飯食ってけよ。この前の看病のお礼」

 白衣を脱ぎながらにこにこと微笑む圭理を見て、胸の奥の方がじくじくと疼くような痛みを感じていた。
 圭理は有紗が友達とどこかへ出かけてきた帰りだと信じているようで本当にうれしそうだった。なんとなく騙してしまった気がしてしまい、後ろめたい気持ちが有紗の心を黒く塗りつぶす。

 天道家は真っ暗で、人の気配がしなかった。
 朋美は今日もコーラスの練習、理平は医師会の会食で早めに仕事をあがり出かけて行ったという。
 それでもどうしてもすき焼きが食べたかった圭理は、朋美に買い物を頼んで自分で作るからと準備だけしておいてもらっていた。

「ひとりで寂しいと思ってたから本当によかったよ」
「ありがたいけど、圭くん誘う人いないの?」
「それは恋人って意味で? 残念ながらいないよ」

 キッチンでネギを切りながら楽しそうに笑う圭理を見て、腑に落ちなかった。
 おかしいことを言ったのだろうか、と自問自答するけどなにも思い浮かばない。

 有紗がまだ小学生の頃、圭理の隣にはいつもきれいな人がいた。たぶん同じ学校の人だろうとぼんやりと眺めていたのを覚えている。その人はよく圭理の家に遊びに来ていたのも知っている。
 そしていつの日かその人は来なくなっていた。なぜ来なくなったのかは幼い有紗にはわからなかった。だけど今なら別れたのだろうと想像ができる。
 その後も何人かの女性がこの家に上がって圭理の部屋に入ったのを見ていた。
 バレンタインには毎年たくさんのチョコをもらい、食べきれずにおすそ分けしてもらうくらいだった。
 圭理はきりっとした端正な顔立ちで笑うと少し下がる目尻には優しさが滲み出ているし、真っ黒でさらさらの短髪は清潔感がある。それは年を重ねてさらに深みを増してきているはず。そんな圭理に恋人がいないのはもったいないし不思議だった。

「そんなことより、顔色悪くないか?」

 隣で皿に野菜をのせていた有紗の顎を圭理が軽く持ち上げ、まじまじと顔を見つめる。

「だ、だいじょぶ、だよ」

 圭理の真っ黒な瞳に心の奥まで見透かされるようで、視線だけ横に逸らすと、小さなため息が聞こえてきた。

「何か心配事でもあるんじゃないか?」
「え、な、なんで?」
「有紗のことは誰よりもわかってるつもりだけど?」

 有紗は動揺するとどもる癖があるのを圭理は知っているが、当の本人は気づいていない。しかも目を逸らした時点で肯定を意味している。
 思えば母親の美春が連れ込んだ男に虐待されていた時も、服に隠れきれていない手背や下腿の部分の痣に関して聞くとひどくどもっていたのを思い出す。それは今でも圭理の心に決して消えない黒いシミのように残っている。もっと早く全身状態を確認していれば、未だに後悔の念が拭いきれない。
 そういう小さなサインを見逃してはいけない。そう思い続けていた。それは医師になった今、必要不可欠なスキルとも言える。

「話して楽になるなら」
「あっ、の、し、質問なんだけど」

 副菜のポテトサラダ作りながら有紗が話し始めたから無言でガスを止めた。火に気を取られて言いたいことを言い出せないのが一番困る。持っていた菜箸を取り、自分と向かい合わせに立たせた。
 昔から圭理は話をする時、ちゃんと向かい合わせになって目を見つめてくる。それが安心なことも多かったけれど、今のように逆に緊張してしまうこともある。だからつい俯いてしまうのだけどそれを咎めることはなかった。圭理はじっと有紗を見つめて話し出すのを待つだけ。

「なに?」
「あの、ね、えっ、ちじゃなくって、んと」
「ん?」
「ゴム、破けてた時って、やっぱり、んと、赤ちゃん、できやすいの、か、なぁ」

 尻つぼみのようにどんどん小さくなってゆく声を聞きのがしそうになった。
 有紗からの相談がまさか避妊のことだとは思わず、圭理は面食らってしまう。
 有紗に恋人ができたのは喜ばしいことだろう。友達も思うように作れなかった引っ込み思案のこの子に好きな男ができて、両思いになれているのなら。だけど――

「相手は避妊もろくにできないような男なのか」

 胃の辺りからこみ上げてくるような怒りを静かに押さえ込んだつもりだったけど不可能だった。
 気がつけば自分より格段に小さい目の前の有紗の両肩を強く掴んでいた。目を大きく見開き、涙を溜めた有紗がはっと息を呑むのを見て、ようやく我に返ることができた。冷静さを一気に失っていたことに気づく。

「ちが、うの。いつもはちゃんと。で、も、きょ、今日はたまたま、しっ失敗しちゃって」

 泣きながら一生懸命に伝えようとする有紗を見て愕然とした。
 いつもはちゃんと。今日はたまたま。
 いつも、というフレーズでその男と何度も身体を重ねていることがわかってひどくショックだった。
 自分の中では小さい頃の有紗のままだと思ってきていたのに、すでにほかの男を知っている事実にも、質問の内容にも動揺を隠しきれずにいた。

 ――ほかの男。

 そう思った時、圭理の中で保たれていた感情の均衡が一瞬ぐらりと傾いたような気がした。
 ほかの男ってなんだ。それじゃまるで有紗が自分じゃない男を選んだことに不満を持っているみたいじゃないか。そう言い聞かせるも、圭理の動揺が収まることはなかった。

 一方有紗のほうは、嘘でも「友達のことなんだけど」と前置きをしておけばよかったと激しく後悔をしていた。だけど圭理に隠し事をしてもいつも後々バレてしまうことを痛感しているからか、咄嗟の嘘もつけないことが泣きそうなくらい悔やまれる。こんなふうに怒りの感情を露わにしている圭理を初めて見て、恐怖にも似たものを感じていた。

 すでに泣き出している有紗と、眉根にくっきりと深いしわを刻んで奥歯を噛みしめている圭理。
 互いが互いにそんな顔をさせたわけじゃないと思っていた。
 
 有紗は『たまたま失敗した』と言った。
 少なくとも全く避妊を怠ったわけではないはず。圭理はそう自分に言い聞かせ、小さくうなずいた。
 最終月経はいつだったか、周期は順調か聞くと有紗はおずおずと答える。 

「ちょっと待ってろ」

 有紗の肩を掴んでいた手を離し、圭理はキッチンから出て行った。


 十分ほどで圭理は家へ戻ってきた。
 泣き止んでいる有紗を見てほっとした反面、圭理の心はまだ動揺し続けていた。だけど今は冷静な対応が必要なこともわかっている。

「何時間くらい前にしたんだ」

 なにもせず、その場で立ち尽くしていた有紗がふと顔を上げて圭理を見た。

「え、と、二、三時間前」

 それを聞いてほっとした圭理は手に握っていたものを有紗に渡した。
 
「アフターピルだ。今ニ錠飲め。次は十二時間後にもう一度。気持ち悪くなるかもしれない。もし吐いてしまったら教えてくれ」

 手に握らされていたのはシートに入った四錠の薬。
 泣き腫らした目でそれを見てから圭理に視線を送ると大きくうなずいた。一も二もなくそれに従う。
 有紗はアフターピルの存在を知らなかったけど、その名前を聞いて薬の用途を理解した。だけど診察もなしにましてやこんなふうに処方していい薬などないことも理解していた。でも今はそれをすべてないものとし、こうして圭理が自分のために用意してくれたことが心からありがたかった。

「圭くん、ありがとう。お金を」

 制服のポケットから財布を出そうとする有紗を圭理は強い目線で止めた。

「いい」
「でも」
「いいから。具合が悪くなったらすぐ言うんだ」

 有紗の顔をまじまじと見つめ、その制服のブラウスの首元にうっすらと赤い痣が残されているのに気づいた。それがキスマークだと気づくのに時間はかからなかった。
 急に幼い頃の有紗の記憶が蘇る。
 身体中に痣を刻まれ、それでも泣き言一つ言わなかった。意味の違う痣であってもそれを刻んだ男に怒りを通り越し、殺意に似た感情が芽生えていた。
 有紗が望んだこと、そう思えば少しは気持ちが落ち着きつつあるが、心底穏やかではいられない。
 そして、ひとつの不安がさらに圭理を襲う。
 
「有紗」

 自分の声が震えているのがわかった。
 瞳を潤ませた有紗が困惑顔を見せるから宥めるようにその頭を撫でると、昔のことを思い出す。最近はこうしていなかったと懐かしむような思いで何度もそれを繰り返した。

「もし、また同じことになったら隠さずに言うんだ」

 万が一同じことになった場合、有紗は自分を頼らず他院に行くだろう。
 こういう用途の薬の存在を知ったら、間違いなく自分に迷惑をかけないようにするはずだ。有紗がそういう子だということは痛いほどわかっている。
 目を見開いた有紗が二の句を継げず、圭理の顔を見上げていた。その表情は図星を言い当てられたと明確に物語っている。

「いいか、ほかの病院へ行こうなんて思うんじゃない。どう見ても学生の有紗が婦人科へ行こうものなら好奇の目で見られるはずだ」
「そんな、こと。だって」
「いいから絶対に言うんだ。わかったか」

 目を泳がせるようにし、少しの時間迷いつつもようやく有紗がうなずいたのを見てほっと息をついた。
 今は学生でも婦人科を受診する。生理不順の子も多い。低容量ピルを処方する場合もある。もちろん有紗のように避妊に失敗した子にはアフターピルを処方することも稀にある。
 ほかの医者に有紗の身体を見せたくない、そんな気持ちがなかったとは言い切れないことに圭理はひどく動揺していた。

「圭くん、このお肉おいしいね」

 鍋を挟んで向かい合わせに座った有紗はすっかり笑顔を取り戻していた。
 むしろ場を和ますようにしきりに圭理に話しかけているように見える。

「ああ、いっぱい食べろ」
「え、あ。もうおなかいっぱいだよ」
「相変わらず有紗は食が細いな」

 せめて薬の副作用が出ませんように。祈るような思いで有紗につくり笑顔を向けた。
 本来ならこういうことの起きやすい場合は常にピルを飲ませておく方が妊娠を回避できるはずなのだが、そうはしたくなかった。周期が比較的順調で生理痛もないのであればあえて薬を飲ませる必要はない、そう判断した。

 有紗の『たまたま失敗』と言った言葉を信じたかった。
 相手の男の良心も。


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Date:2014/10/11
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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