空色なキモチ

□ 掌の鼓動 □

掌の鼓動 6

第六話

現在 3




 その日の帰り道、有紗は重だるい全身を引きずるようにしてようやく家の側まで歩いて帰ってきた。
 秘所の鈍い痛みがまだ続いている。何かが挟まっているような違和感が抜けずに、不自然な歩行になってしまう。

 郁弥の家の最寄り駅からは時間をかければ徒歩でも帰れる距離ではあるものの定期があるので電車で帰ってきた。今はそんなに歩ける体調でもない。


「有紗」

 誰も帰りを待つことのないアパートの前で呼びかけられた。
 冬の日の入りは早い。すでに街灯が灯されているが時間はまだ十九時前。逆光になって一瞬よく見えなかったがそこに立っていたのは圭理だった。
 通常ならまだ診療時間内だ。それなのにここにいる圭理を見ると少し赤い顔をしているのに気づく。
 背の高い圭理の前に立って顔を覗き込むようにすると、力ない笑みが返って来た。

「ちょっと熱っぽくて先にあがらせてもらったんだ」
「え? そうなの? 今からどこに?」

 天道産婦人科医院の敷地内に圭理の自宅がある。
 早上がりしたのに有紗の家のそばにいるのはおかしいなと思い、尋ねてみると食事を買いに行くという。
 圭理の母、朋美は親しい仲間と共に合唱サークルの会合に参加していた。
 近々コンクールがあると楽しげに話してくれたのを思い出した。そしてその練習が夜に行われることが多いということも。参加者が子育てを終えた主婦層が多いとは言え、まだ学生の子を育てている人もいた。どうしても練習時間を合わせるのが難しく、昼間の部、夜の部と分かれているらしい。朋美は病院の事務長というポスト柄、昼間なかなか抜けることもできず、夜の部に参加するようにしている。
 普段の圭理なら有りものでささっとおかずを作り上げてしまうほど料理上手だけれど、体調が悪いから作る気にもならないのかもしれない。

「圭くん、わたしが作るよ」
「本当? 悪いな」

 そんなことない、と首を振り、圭理の背中に軽く手を添え、来た道を戻った。

「なんだか歩き方変じゃないか? 足でも痛めた?」

 様子を窺うように顔を覗き込まれ、どくんと心臓が強く跳ねたのを感じた。
 自分の体調が悪いにも関わらず、有紗を気遣うようなその眼差しは心配そうでもあり、熱のせいか潤んでいるようにも見えた。

「ううん、そんなことない。大丈夫だよ」

 声をかけた時に振り返った有紗の顔色が悪いように見えた。
 そして今までの有紗とは違う、なんとなくだけどいつもよりぐっと大人びたような視線を自分に向けた気がして圭理は不思議な違和感を覚えていた。

 有紗も圭理も朋美に料理を習った。
 朋美は料理上手で教えるのもうまかった。圭理の味は有紗の味でもある。だから安心して食事を任せて自室のベッドに横になった。
 有紗は天道家で食事を取る時もあったが、ほぼ自炊をしている。
 圭理が保護した当時、ほっとけば雑草でも食べてしまいそうなくらい飢えていた有紗はなかなか身長も体重も増加しなかったものの高校生になりようやくわずかながらに丸みを帯びた身体に変化してきたと思う。それがまたうれしいようでもあり少しだけ寂しいようでもあった。

「いつまでも子どもだと思ったら、大間違いだな」

 そう独りごちて目を瞑ると、瞼の裏に幼い頃の有紗の姿が浮かび上がってきた。
 生まれたてのひよこが親鳥を追いかけるように自分の後ろをくっついては「圭くん、圭くん」とうれしそうに名を呼び、にこっと微笑むのだった。


 少し微唾んでいたようで気がつけば心配そうに有紗が圭理の額の上に冷たいタオルを乗せていた。それがとても心地よく感じたから結構熱があるのだろう。
 手伝われて起こされ、背中の辺りに枕を入れて寄りかかるだけで一息ついてしまう。午後の診察時はこんなにもだるさを感じなかったが、急に身体の節々が軋むような痛みを覚えた。
 
 小松菜や小さく切り刻んだ大根とネギの卵雑炊を有紗が土鍋から小鉢によそってそれをさましながらレンゲに掬い、圭理の口元に寄せる。いつもなら自分で食べるけど今日は本当にだるくて無言で口を開けた。ふわりとおいしそうな香りが漂い、急に食欲が沸きだす。食べられるうちに食べておかないともっとだるくなった時がきついから。

「うん、おいしい」

 ふわふわの卵に出汁の風味が口いっぱいに広がる。野菜の煮え具合もちょうどいい。圭理にとってまさにお袋の味だった。
 ほっとした表情を見せ、同じように雑炊を圭理の口に運ぶ有紗。
 さっきまでは自分が親鳥の気持ちでいたのに、今は真逆だなと自嘲した。不思議そうに有紗が首を傾げたが「思い出し笑い」とさらりとごまかす。雛鳥はいつか親元を旅立つ。そういう時が刻一刻と近づいてきているのかもしれない。そう思ったら言葉に言い表せない深い痛みのようなものを覚えた。まるで身を削がれるような、そんな感覚で。

 幼い頃から有紗を見つめてきた。それはまるで自分の本当の妹のように。
 がりがりにやせ細った有紗は見ていて痛ましかった。だけど天道家に来るようになって笑顔を見せてくれるようになった。それがかわいくて。
 美春の男に人知れず虐待されていた時も、そんなことを悟られまいと天道家では常ににこにこしていた。時折見せる寂しそうな表情が気になって何か心配事があるのか問うも、首を横に振るだけだった。
 有紗が小学校二年生くらいまでは圭理が風呂に入れたりもしていたが三年生になった頃、ひとりで入ると言い出した。恥ずかしいのだろうと納得してひとりで入らせるようになったが、その時にはすでに有紗の身体は殴られたり蹴られたりしたような痣だらけだった。それに気づいたのが朋美だった。
 有紗の入浴中、シャンプーが切れているのを思い出し持って行った朋美が扉を開けたのに気づかず背中を向けて髪を濡らしていた。その背中には大きな紫色の痣が無数にあった。驚きのあまり大声をあげた朋美に気づいた有紗が真っ先に口にしたのが「圭くんには言わないで」だった。
 泣きながらそう訴える有紗の裸体をバスタオルで優しく包み、朋美もびしょ濡れになりながら共に号泣した。どうしても圭理に知られたくなかった。そう有紗は泣きながら話したという。誰にされたのか問うても首を横に振るだけで、有紗は何も言わなかった。

 保護した当時も同様の痣があったこと、それに関して美春に注意したこと。
 それで収まったと思っていたのに継続されていたと知り、朋美は無力さを感じていた。
 すべて後から両親に聞かされた話だけれど、有紗をそんな目に遭わせた母親が許せず文句を言いに行くと憤怒した圭理を理平が止めた。そして再び両親が美春に事情を聞きに行ったのだった。
 
 誰よりも幸せになってほしいと思う。
 どうしたら有紗に幸せが訪れるのだろうか。
 自分が側にいることで有紗が笑顔でいられるのならそうしてやりたい。いつの日か圭理はそんなふうに思うようになっていた。

 医師になり、近所の人や親戚から縁談の話をかなり持ちこまれた。
 大学時代、研修医時代につきあっていた女性は何人かいる。だけど結婚までは考えられなかった。心のどこかに有紗の存在が引っかかるようにあったから。

 自分だけが幸せになるなんて――
 その引っかかるものがそういう理由でもたらされているのだろうと思いこんでいた。
 有紗が幸せになるのを見届けてから……自分のことは後でいいんだとまるで言い聞かせるように縁談の話も片っ端から断っていた。それは客観的に見たら偽善とも取れる思いかもしれない。
                     
 そして、その思いが偽善でないことに圭理自身が気づくのは、もう少し先のことだった。  

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Date:2014/10/09
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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