空色なキモチ

□ 約束 □

約束 中篇

 引きこもりの弊害は大きかった。
 まず足腰が弱っている。昔は走って川まで行けたのに、そこまで向かう小さな森を越えるのがひどく辛かった。

 九月の木々の葉はまだ緑で、風が吹くたびにさわさわと葉擦れの音を立てる。
 すでに秋になっているはずなのにまだ残暑厳しいこの時期は嫌いだったが、川に近づくにつれて涼しくなっていく。

 川のせせらぎと川風が耳をくすぐる。とっても心地よい反面、息苦しさも感じた。
 あの時の記憶が潜在的に残っているような気がする。少しずつ動悸までしてきた。だけど歩みをやめるわけにはいかなかった。


 わたしの長い髪が頬をくすぐるのをそのままで、リボンで丸めた直哉お兄ちゃんの絵をしっかりと両手で持っていた。
 これはわたしの宝物。最後まで一緒にいたい。


 胸の拍動を感じながら、わたしはやっとの思いで川にたどり着いたのだった。

 そこは何ひとつ変わっていなかった。
 川の流れも、大きな岩も、なにもかも。

 よく目を凝らせば、直哉お兄ちゃんが座って絵を描いている姿まで浮かび上がってきそうだった。
 飛び石のように連なった小さな岩のその先の大きな岩。そこに直哉お兄ちゃんが座って歌を歌っていたのを思い出す。


 サンダルを脱ぎ、素足になってそのゴツゴツした岩を登る。
 膝丈の白のワンピースが濡れないように裾を少したくしあげてなんとかその大きな岩の上にたどり着くと、一息ついた。


 そして、直哉お兄ちゃんの真似をして誕生日の歌を歌う。

「ハッピーバースディーディア……」

 そこで止まってしまう。
 わたしなんて好きじゃない。大嫌い。自分の名前なんて歌う資格ない。

 こみ上げてくる涙を手の甲で拭い、直哉お兄ちゃんの絵を見た。
 スケッチブックを破った紙に描かれたお姫様。金色がなかったのか、長い縦ロールの髪は茶色だった。だけど何か色を混ぜているのかとっても淡い茶色で美しかった。薄いピンク色のドレスに桃色の頬。今見てもとっても素敵なお姫様。その頭の上には『彩夏姫』と書かれている。

 直哉お兄ちゃんの笑顔が瞼の裏に浮かび上がる。
 大好きだった。きっとこの思いは初恋。

 わたしのせいで死んでしまった直哉お兄ちゃん。
 明日は、彼の二十三回目のバースディ。そしてたった十五歳で亡くなった命日――


 岩からそっと降りて、わたしは川の中へ入った。
 思ったよりも冷たい水が芯から身体を冷やしてくれる。

 大きく深呼吸をして、少しずつ進む。


 直哉お兄ちゃん、迎えに来て――


 踏みしめるように深い方向へゆっくりと進む。
 右手に直哉お兄ちゃんの絵。その時わたしは異様なくらい冷静だった。何も怖いものなんかなかった。このまま進めば、自然に直哉お兄ちゃんの元へ――


「何やってるの?」


 どこからともなく声が聞こえてきた。
 男の人の囁くような声。とっても耳に心地よく、なじむような感じ。
 空耳にしてははっきり聞こえてきた。だけど人の気配はしない。

 気のせいか。

 さらに一歩踏み出す。


「彩ちゃん」


 名前を呼ばれた。
 空耳なんかじゃない。確実にわたしの名前が呼ばれている。

 まわりを見渡すけど誰もいない。
 持っていたワンピースの裾が手から離れて川の水で濡れている。足もどんどん冷えてきた。


 ――早く逝こう。


 足を速める。踏み込むごとに大きく跳ねる水しぶきがワンピースをどんどん濡らしてゆく。絵だけ手離さなければいい。そう思った。


 じゃばじゃばと跳ねる水と少し激しさを増す水流の音。
 もう少し進めば自然と流されるはず。だって直哉お兄ちゃんだってこの水にのまれたのだから。

「――彩」
「ひいっ!!」

 透き通った人の姿が目の前にあった。
 びっくりしたわたしは変な声をあげてしまう。だけど――

「な、お……にいちゃ?」

 それは間違いなく直哉お兄ちゃんだった。
 あの時と同じ服装で、同じ顔。八年前と全く違わない。だけど髪は思ったほど栗色ではなく目も青に見えなかった。あの時はどうしてそう見えていたのだろう。絵本の王子様に憧れていたからだろうか。

「ようやく気づいたか。さっきから呼んでるのに無視しやがって……」

 ビシッと額に痛みが走った。
 目の前の透けた直哉お兄ちゃんがわたしにデコピンをしたのだ。
 痛みを感じるってことは――

「直兄ちゃん! 生きてたっ……」
「生きてるように見えるか? さっさと川から出ろ」

 ぐいっと強い力で腕を引かれる。
 直哉お兄ちゃんがじゃばじゃば水しぶきを上げて目の前を歩くから引かれるままに必死についていく。わたしの手を掴む直哉お兄ちゃんの手が透けている。


 ――生きているように見えるか?


 直哉お兄ちゃんが言った言葉。
 だけどこうして水をかき分けて歩いている。足もある。手首を掴まれている感触も、デコピンの痛みも感じた。

「直兄ちゃ……」
「生きてない。だけど今、僕はここにいる」

 背中を向けたまま直哉お兄ちゃんは川岸に向かってわたしの手を引いて歩いた。



 強引に川から引き上げられ、岩場で息を整える。
 その間、直哉お兄ちゃんは立ったままわたしを仁王立ちで見下ろしていた。
 すごく怖い形相だけど、あの時のまま年を取っていない。あの日着ていたブルーのTシャツ、色のすすけたジーンズ。そして少し黒ずんだ白いスニーカー。だけどどれも濡れていない。

「おまえ、死のうとしていたのか?」

 目の前でしゃがみ込んだ直哉お兄ちゃんがわたしの顔を覗き込む。
 いつも『彩ちゃん』と優しく呼んでくれていたのに、いきなり「おまえ」と言われドキッとした。そして図星を指され、ぐっと息を呑む。

 この直哉お兄ちゃんは幽霊なのかもしれない。だけど全然怖くない。
 こうして話せるし、触れることだってできるんだ。幽霊って触れることができるの?

 手を伸ばして直哉お兄ちゃんに触れようとすると、それは空を切った。
 するっとその身体をすり抜けてしまう。あれ? さっき手首を痛いくらいの力で引かれていたのに。

「そっちからは触れられない。こっちからなら」
「ぁいたっ!」

 再びデコピンされて、鋭い痛みが走った。
 額を手でさする。なんでこっちからは触れられないの?

 生き返ったんじゃない。直哉お兄ちゃんはわたしを迎えに来てくれたんだ。

 だったら川から引き上げる必要ないのに。なんでそうしたんだろう。
 そのまま溺れてしまえばよかったはず。

「迎えに来たんじゃない。ばか」

 嘘っ? 心を読まれた? まさかね……そんなことあり得ない。
 それにこの人、直哉お兄ちゃんじゃない気がする。全然あの頃の優しさがない。見た目本人だけど、中身は別の人格が入っているとしか考えられない。

「正真正銘直哉だよ。今のおまえは僕と同い年だろう? あの頃の子どもじゃない。だから優しくする必要ない。しかも命を粗末にするやつに優しくなんかできるか」

 やっぱり心を読まれているんだ。
 命を粗末にするやつ、そう言われて今自分がしようとしたことはそういうことなんだと自覚した。
 だけどもう、生きているのはいやだ。

 涙が流れそうになって瞼を閉じると頬に痛みが走った。
 透けた直哉お兄ちゃんがわたしの頬を叩いたんだ。生まれて初めて人に叩かれた。厳しい父でもわたしには手をあげない。

 なんでこっちからは触れられないのに……ずるい。

「甘えるな。生きているのはいやだとか大して生きてもいないおまえが言う言葉じゃない。もっとちゃんと生きろ」
「だっ……」

 言葉が出てこない。
 言ってないのに……思ったことすら言ったことにされてしまう。心を読むなんてずるいよ。
 そんなこと言ったら直哉お兄ちゃんだって十五年しか生きていないじゃない。
 だけどわたしがそんなこと言える立場じゃないはず。その命を奪ったのは……生きたくても生きられないようにしたのはまぎれもなくこのわたしなんだから。

「だったら! 直兄ちゃんが生きればいいじゃない!この命をあげるから……」
「そんな気持ちの命、いるか! こっちから願い下げだ、ばか!」

 またばかって言われた……悔しい。
 大好きだった直哉お兄ちゃんに逢えたのに、それなのにばかばか言われてしかも意地悪だ。

 そんな気持ちの命って……どんな気持ちの命ならほしいのよ。
 そんなのわかんないよ。

 ぼろぼろと涙が頬を伝う。
 いたたまれなくて膝を抱えて顔を埋めると、濡れたワンピースが頬を冷やしてゆく。だんだん身体が冷えてきて少し寒い。

「とにかく家に帰るんだ。風呂に入って暖まって一度寝ろ」

 ふわっと頭に感触。
 顔をあげてみると、直哉お兄ちゃんの透けた手がわたしの頭を撫でている。


 優しい手。やっぱり直哉お兄ちゃんなの?
 寝たらもう逢えなくなっちゃうのはいやだ。ずっと一緒にいたいの。連れて行ってほしいのに。

 頭に触れる手に自分の手を重ねようと伸ばすけど何も触れない。掴めない。やっぱり実体じゃない直哉お兄ちゃんの存在。

「やだ! 直兄ちゃん! わたし……」
「僕も彩の家に行くから」
「え?」



**



 びしょ濡れのわたしと全く濡れていない透けている直哉お兄ちゃん。
 並んで小さな森を越え、わたしの家に戻った。
 大事にならないようこっそりと裏口から入ったのに家庭教師の福山先生にバレてしまった。

 福山先生はT大卒のエリートなのに、なぜか住み込みのしがない家庭教師なんかしている。
 元々は弁護士志望で父の元を訪れたようだ。司法試験には一発合格した優秀な人なのに、父の言いつけでわたしの家庭教師にされてすでに二年目。銀縁眼鏡の下に潜む細くて冷ややかな眼差しがわたしは苦手だった。まるで自分の兄の分身を見ているようで。いつ何時も感情を表に出さない。

「彩夏さん、どうしたんですか? そんなに濡れて」
「別に……」
「着替えを、佐山さー」
「いいから! ほっといて!」

 佐山さんというのはうちのお手伝いの女性。
 三十代半ばだろうか、福山先生同様に住み込みで働いている。面倒見がよく、わたしの身の回りのこともよくしてくれている。料理もうまい。

「無能なくせに……」

 わたしが小さくつぶやくと、福山先生は少しだけ眉間にシワを寄せて鼻白ませた。
 あんたのこと言ってるんだよ、そう視線を送って部屋に向かうとその後ろを直哉お兄ちゃんがついてきた。

「あの人無能なの?」
「弁護士資格を持ったただの家庭教師だもん。無能以外の何者でもない」
「彩、性格悪く育ったね」

 ――余計なお世話!

 そう言おうと思って振り返ると不思議そうな表情の福山先生が立ちつくしていた。
 そうか、彼からは直哉お兄ちゃんは見えないのかもしれない。それならわたしがひとりで話しているように見えるだろう。ニヤニヤと笑う直哉お兄ちゃんが恨めしかった。


 わたしは直哉お兄ちゃんの言いつけ通りシャワーを浴びてすぐにベッドに入った。
 そのままどのくらい眠っていたのだろう。次に目をあけた時はカーテンの外が夕暮れ色に染まっていた。
 隣には直哉お兄ちゃんが眠っている。いつの間に入り込んだのだろうか。その身体は透けていなくて実体化されたように見えた。だけど手を伸ばして触れようとしても感触がない。わたしの手はするっとその身体をすり抜けてしまう。

「だからそっちからは触れられないって」

 静かに目を開けた直哉お兄ちゃんが苦笑いをした。
 わかってる。わかってるけど、どうしても触れたかった。それなのにもう二度とこの人には触れられない、そんな思いが押し寄せてきて熱い涙として零れ落ちた。それがじわじわと枕を濡らしてゆく。

「なんで泣くの?」

 目許を拭われる感触に胸が打ち震えた。
 小さい頃、よくこうしてわたしのことを撫でてくれた。夏の暑い盛りには汗を拭ってくれた。
 これからもずっとこうしてほしい。そのためにはわたしが死ぬしかない。死ねばずっとそばにいられる。

「直にぃ……」

 名前を呼びかけた時、部屋の扉がノックされた。
 こんな時に……渋々返事をするとお盆の上に土鍋を載せた福山先生が入ってきた。

「具合どうです? 少し食べられそうですか?」
「……いらない」
「困りましたね。少しでも食べて、今日の勉強は……」
「うるさい! 出て行って!」

 ベッドの上のクッションを投げつけると、両手の塞がった福山先生はそれをもろに顔面に受けた。眼鏡が軽くずり落ちる。
 それでも表情ひとつ変えず、わたしの机の上に土鍋を置いた。

「置いておきますからね。冷めないうちに召し上がってください」

 足元に落ちたクッションをわたしの枕元に戻して、福山先生は静かに出て行った。
 ――やりすぎた、そう思ったけど謝れなかった。

「いい先生だな。なんであんなことをするの?」
「勉強勉強うるさいの。大嫌いなの。顔も見たくない」
「勉強しない彩が悪いんじゃないの?」
「だっ……」

 言いかけてやめた。言ってもしょうがない。
 勉強なんてしても意味がない。どうせわたしは今日死ぬ気でいた。やっても意味のないことなんてしたくない。第一勉強なんかしたってわからないことはたくさんあるんだ。頭がよくたってわからないこと。
 父はわたしにも弁護士になってほしいと思っている。兄はその意思を継いで現在地元大学の法学部三年生。父の言いなりでばかみたいだと思う。

「とりあえず食えば? お粥かな?」

 直哉お兄ちゃんが興味深々顔土鍋の蓋を開ける。
 まだ湯気が立ち込めているおじやだった。ふわっと出汁の香りがしておいしそう。食べ物に罪はないし、おなかも空いてきている。

「へーうまそう」

 直哉お兄ちゃんが覗き込む中、その土鍋のおじやを小鉢にすくってひと口食べた。

「うえっ! しょっぱ!」

 なにこれ? 塩ききすぎ! まっず。こんなおいしくないおじや初めてだった。
 むかむかと苛立ちがこみ上げ、内線で佐山さんを呼び出すと目を真ん丸くしてその土鍋を見た。

「佐山さん体調悪いの? こんなまずいのつくるなんて」
「これ、私じゃないですよ。さっきキッチンで福山先生がなにかしてたからほっといたんですが……おかげで今日の夕食が遅れそうだなって思っていたんです。彩夏さん、体調悪いんですか?」

 椅子に座ったわたしの隣に立っている直哉お兄ちゃんと目を見合す。
 確かに佐山さんが作ったにしては中に入っている野菜の大きさが不ぞろいだった。ネギなんか連なっちゃっているし。

「見た目は美味しそうなのにねえ。作り直してきましょうか? 今日はステーキの予定なんですよ。彩夏さんのお誕生日ですからね。ケーキはもうできていますよ」

 ニコニコと微笑む佐山さんに「食事はここで食べる」と伝えると寂しそうな表情を浮かべた。
 せっかくのお誕生日なのに、とぼそりとつぶやき肩を落として部屋を出て行く。土鍋も一緒に下げさせた。

 わたしの誕生日をよろこんでくれるのは佐山さんだけだと思う。
 あの人たちと食事を共にするのはいやだった。もうずっと部屋でひとりの食事が続いている。こんな日だからこそ余計に一緒にいたくない。

「あの先生がつくったんだ。おじや」
「高血圧にして殺す気かしら?」

 ぶくつさ文句を言っていると、直哉お兄ちゃんがぷっとふき出した。
 笑いごとじゃない。

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Date:2014/09/08
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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