わたしは人殺しだ。
その思いに苛まれ、囚われながら生きている。
そして、今日。
わたしは十五歳になる。
直哉お兄ちゃんの止まったあの時と同じ年に。
***
わたしの家のそばには理由があって親と一緒に暮らせない子が生活するいわゆる児童養護施設があった。
その施設はわたしの父が莫大な援助していた。父は弁護士、祖父や伯父もみんな弁護士だった。お金には困っておらず、地元ではちょっと名の知れた家。
施設には近づかないようにと両親から言われていたけど、わたしはそんな言いつけを守るような子どもではなかった。
家の裏から敷地を出ると、小さなフェンスの扉がある。それはダイヤル式の簡単な鍵で施錠してあり、その先に侵入しないよう口酸っぱく言われていた。
五歳上の真面目な兄はその言いつけを守り、その扉にも近寄らない。家の裏から出ようともしなかった。だけどわたしは違う。
その扉の存在を知ってフェンスを登った。それが六歳の頃。運動神経はとてもよかった。
フェンスを越えると細い石の階段があった。大人がひとりようやく通れるくらいの細さで、わたしはそこを一気に走って下るのが好きだった。下手をしたら前につんのめって転げ落ちてもおかしくないのに。あの頃のわたしは怖いもの知らずだった。女の子なのにおてんばで、兄と性別を間違えたんじゃないかだなんて親戚にもよく言われていた。
緩いカーブになった階段を下り終えると、そこには施設の庭に繋がる大きなフェンス。そこの一部に穴が開いている。その穴をくぐれるのはわたしみたいな小さな子どもだけだ。たぶん兄はここに来てもこの穴をくぐれなかっただろう。
初めてこの穴を発見した時、胸が躍った。
この先には何があるんだろう? もしかしたら不思議な森に繋がる道なのかもしれない。
寝る前に母に読んでもらった絵本を思い出して、はやる気持ちを押さえ込むのに必死だった。
フェンスの向こうは草がボーボー生えているのに躊躇わず、すばやくその穴をくぐった。
やっとの思いで通り抜け、草を掻き分け頭を上げると黒いジャージと少し汚れた白いスニーカーが視界に入ってきた。
「どこの子?」
上のほうから聞こえてきた声につられて見上げると太陽の光が遮られていた。
逆光でその人の顔はよく見えない。
手を目の前に差し出され、それに掴まると強い力で立ち上がらされた。背の高い男の子だった。
「君のお名前は?」
「くずみ、あやか」
「久住? 上の家の子か」
あからさまにいやそうな表情を見せたその男の子は、太陽の光のせいなのか髪が栗色に見えた。大きな目もやや青みがかったような感じ。まるで母に読んでもらった絵本の王子様が飛び出してきたかのように思えた。
「ここにきちゃだめって言われてるでしょ? 帰りな」
優しい口調でそう言われるけど、その表情は悲しげに見えた。
目の前の王子様がそんなに悲しい顔をするのがいやだった。笑顔を見せてほしいと願ってしまう自分がいたんだ。
「おにいちゃん、おなまえは?」
「僕? 直哉っていうんだ」
日本人の名前。それなのにこんなにきれいな栗色の髪と青みがかった瞳なのに不思議な感じがした。
「さあ、帰りな。二度とここに来ちゃだめだよ」
「どうして?」
「どうしてって……困ったな」
困惑顔で笑うその表情はとってもきれいだった。
まさに絵本の中の王子様、今はジャージにTシャツ姿だけどいつかきっと素敵なお洋服を着て、わたしを迎えに来てくれる。そんなふうに思っていた。
これがわたしと直哉お兄ちゃんの出逢いだった。
**
それからわたしは直哉お兄ちゃんに会いに通い詰めた。
毎日裏の小さなフェンスを越えて階段を駆け下り、施設のフェンスの穴をくぐった。
直哉お兄ちゃんは十四歳で中学三年生。わたしが生まれる前からこの施設にいると教えてくれた。
この施設に来た理由を聞いても「彩ちゃんには難しくてわからない」と教えてもらえなかった。
直哉お兄ちゃんはいつもそこにひとりでいた。
施設の庭にある大きな木の絵を持っているスケッチブックに描いているのだ。
「直兄ちゃん」
その後ろ姿に近づいて、声をかけると驚いてこっちを振り返る。その表情はいつも困ったようで、でも優しいものだった。
最初に会った日から「ここに来てはいけない」と何度も言われ続けた。だけどわたしは通い続けた。言われ続けてもへこたれなかった。
本当の兄といるより、直哉お兄ちゃんと一緒にいたほうが面白かった。
ただ直哉お兄ちゃんが絵を描いている姿を見ているのが楽しかった。不思議と退屈もせず、ずっと見ていたい気持ちになるのだ。
しばらく通い詰めると直哉お兄ちゃんは言っても無駄だと思ったのか、何も言わなくなった。
わたしは直哉お兄ちゃんにいろいろ聞いた。
なんでここにいるのか、両親はいないのか、寂しくないのか。
今考えたらとっても残酷な質問ばかりだったと思う。だけど直哉お兄ちゃんは笑顔で答えてくれた。
「僕はここしかいるところがないんだよ。親もいないし。だけどね、みんな優しいんだ。ここはとっても素敵なところだよ。だから寂しくなんかないんだ。みんな彩ちゃんのお父さんに感謝しているんだよ」
――ここしかいるところがない。親もいない。
それがどうしてなのかわたしには理解ができなかった。
両親がいて当たり前だったわたしには親のいない子の気持ちは全くわからなかった。だけど直哉お兄ちゃんはその言葉通りとっても幸せそうに見えたんだ。
会えたのは直哉お兄ちゃんが両親と一緒に暮らせないから。
それがどんなに寂しいことかわからなかったけど、わたしは直哉お兄ちゃんに会えてよかったと思っていた。
「おひめさま、かいて」
「彩ちゃんはお姫様の絵が好きだね」
お姫様の絵が好きなんじゃない。直哉お兄ちゃんが描く絵が好きなんだ。髪は縦ロールでヒラヒラのドレス。いつも笑顔。
直哉お兄ちゃんはわたしを『あやちゃん』と呼んでいた。
時折『あやかちゃん』と呼ぶこともあったが、ほとんどが『あやちゃん』だった。それを気にしたことはなかったし、家ではいつも『彩夏』と呼ばれていたので逆に新鮮でくすぐったい気持ちになった。
「ほら、彩夏姫だよ」
「おいろもぬってー」
「うーん、そうだね……じゃ、あとで色を塗ってみよう。そうしたら彩ちゃんに渡すね」
約束、と言って絡めた小指。
その約束が守られたのは、直哉お兄ちゃんがわたしの前を去った後だった。
**
その日、わたしが今まで直哉お兄ちゃんに描いてもらっていた絵が父母にバレた。
自分の部屋の机の引き出しにしまっておいたのに、兄が勝手に取り出して父母に見せたのだった。
これは誰が描いたものなのか問い詰められ、答えないわたしの横で兄が口を開いた。
「施設の子だよ。直哉って名前」
なんで兄がそれを知っているのわからなかった。
あの施設に寄りつきもしない、ましてや直哉お兄ちゃんに会ったこともないはずなのに。しかも直哉お兄ちゃんより年下の兄が『施設の子』と表現するのも変な感じだった。
父が激昂し、目の前でたくさんの絵を破かれた。お姫様が全部ずたずたにされた。
施設に行ってはいけない、なぜ約束を守らない? と怒られた。母が父を宥め、泣きじゃくるわたしを抱きしめた。泣いてもお姫様は戻ってこなかった。
翌日からわたしの外出は制限された。
部屋に閉じ込められ、ひとりでぐずぐず泣いている姿はまるで軟禁されたお姫様のようだと思ってさらに悲しくなった。
直哉お兄ちゃんに迎えに来てほしい、そう思ってその名をつぶやいた。
そんなわたしを兄が部屋に訪ねてきて馬鹿にした表情で笑う。
「あいつ、父さんにすごい怒られてたぞ。今後彩夏に近づいたら施設を追い出すって言われてた」
信じられなかった。
直哉お兄ちゃんが悪いんじゃない。わたしが勝手に近づいただけだ。
それなのに、直哉お兄ちゃんがあの施設を追い出される。そうしたら直哉お兄ちゃんが住む場所がなくなってしまう。わたしのせいだ。
父に抗議したい気持ちを押さえて、わたしは家をこっそり抜け出した。
もちろん直哉お兄ちゃんに会いに。謝りたくて必死に走った。フェンスには頑丈な大きい南京錠がかかっていた。わたしがダイヤルの番号を知っていると思って替えたのだろうか。まさか乗り越えているとは思わなかったのかもしれない。
いつものように、施設のフェンスの穴をくぐって草むらの中から顔を出すけど、直哉お兄ちゃんの姿はなかった。
施設の庭を探したけど、直哉お兄ちゃんらしき人の姿は見つからない。施設の入口付近でサッカーをしている男の子ふたり組に直哉お兄ちゃんのことを聞いてみた。
「川に行くって言ってたよ。スケッチブックを持ってたから、たぶん絵を描きに行ったんじゃないかな?」
そう教えてもらい、わたしは川へ向かって走った。
うしろから「君、どこの子?」と尋ねられたのを無視して。
施設から走って五分くらいの所に渓谷があった。
そこは危ないから近づくなと父に言われていた。制限が多くて父のことは昔から嫌いだった。
渓谷までは小さな森の中の一本道で迷いようがない。
直哉お兄ちゃんに謝ったらすぐに引き返せば大丈夫だと思っていた。
川のせせらぎが聞こえてきて茂みの中から様子を伺うと、川の中の岩場に座った直哉お兄ちゃんの後ろ姿が見えた。いつものTシャツにジャージ姿で間違いようがない。
ふと耳を澄ますと歌声が聞こえてきた。
「ハッピーバースディーディアなーおやー」
――直哉、自分で自分の名前を歌った。
その歌を聴いて今日が直哉お兄ちゃんの誕生日だということを知った。
最後まで歌い続けた直哉お兄ちゃんは自分で拍手をしていた。なんだかとっても寂しそうに見えたんだ。
一緒に歌ってあげたい。
茂みから抜け出して直哉お兄ちゃんに声をかけよう。
そう思った時、茂みの中の草に足をとられたわたしは前のめりに転がり、そのまま川へ落ちた。
冷たい水が全身を包む。助けを求めようと大きく開いた口の中に容赦なく入り込んできた川の水が喉の奥を冷やし、わたしから声を奪った。
その後のことは断片的な記憶でしかない。
「彩!!」
直哉お兄ちゃんの叫び声。
流される自分を追いかけて、走ってくるその姿。
冷たい、苦しい。口の中にどんどん入ってくる川の水。もがけばもがくほど水に飲みこまれる。流される――
必死で伸ばした手は、大きな手に掴まれた。
そこまでしか覚えていない。
わたしが目を覚ましたのは、病院のベッドの上で。
大泣きした母と今にも泣き出しそうな父がわたしを抱きしめた。
「直兄ちゃんは?」
わたしが聞いたことに対して答えは返って来なかった。
何度も聞いた。なぜか涙が止まらなかった。母はずっと泣きながら首を振り続けた。父がようやく口を開く。
「あの子は、彩夏に会えないところに行ってしまったんだ」
「うそ! どこに行ったの?」
「遠い遠いところだ」
父に淡々と説明され、置いてけぼりにされたようなとっても寂しい気持ちがこみ上げてきた。
わたしの枕元にはあの時直哉お兄ちゃんに頼んだお姫様の絵が色鉛筆できれいに彩られ、命を吹き込まれた状態で置いてあった。
これは直哉お兄ちゃんの置き土産だと父が言った。
――彩夏姫。
そう書かれたお姫様の絵を抱きしめて、わたしは泣いた。
***
直哉お兄ちゃんがわたしの前から去ったのではないと知ったのはその後すぐのことだった。
その日も家のフェンスを越えて施設へ向かっていた。
もしかしたら直哉お兄ちゃんがひょっこり帰って来ている気がして。
だって直哉お兄ちゃんは「ここしかいるところがない」って言ってたもの。いなくなるわけがない。本当はいるんだけど父が隠しているとしか思えなかったのだ。
施設のフェンスの穴をくぐり抜け、草を掻き分けると直哉お兄ちゃんがいつも座っているポジションに見たことのない女の子が座っていた。
体育座りで背中を震わせ、泣いているように見える。
わたしが動くと草が音を立てる。それに気づいた女の子が泣き腫らした目でわたしを睨みつけた。
年の頃は直哉お兄ちゃんと同じくらいだろうか? わたしにとってはすごくお姉さんに見えた。そのお姉さんに直哉お兄ちゃんのことを聞こうと思って近づいた。その時――
「人殺し!!」
いきなり浴びせかけられたその言葉に、わたしはびっくりしてその場に尻もちをついてしまった。
お姉さんはわなわなと震えている。その表情には憎しみが込められているのがありありと感じ取れ、今にも飛びかかってきそうな勢いだった。
恐怖にわたしの全身が震え出し、縮み上がった。
「人殺し! あんたのせいで直くんは死んじゃったんだ! あんたが溺れなければっ……! あんたが死んじゃえばよかったんだ! あんたなんか死んじゃえ! 直くんを返してよ!!」
泣き叫ぶお姉さんを見て声も出せないくらい慄いたわたしはその場から走って逃げた。
それでも後ろから「人殺し!」と罵られる声が小さく聞こえてくる。耳を手で塞いでただただ走った。
直哉お兄ちゃんが死んだ? 嘘だ! 嘘だ!
しかもわたしのせい? わたしが溺れたから?
死ぬってどういうこと? わからない。
慌ててフェンスをくぐり抜けて、階段を昇ろうとした時、そこに兄の
冬夜が立っていた。
「ここに来ちゃだめって何度言われたらわかるんだ? お前はばかなのか?」
見下したように薄ら笑いを浮かべる兄は酷く冷酷に見えていつも以上に嫌悪感を抱いた。
わたしは昔からこの兄が苦手だった。直哉お兄ちゃんのこともこの兄がバラさなければずっと一緒にいられたのに。
なにより今までここに近寄ろうともしていなかった兄がいたのにびっくりした。
いつもなら口もききたくないけれど、酷く動揺していたわたしは兄に縋ってしまっていた。
「おに……直兄ちゃんは……あやのせいで……死んだの?」
兄の両腕を掴んで、震える声でそう尋ねる。
兄が困惑顔で微笑みながらわたしの頬をそっと撫でた。兄に撫でられたのは初めてかもしれない。
笑っているのにとっても冷たく感じるその表情は怖い。直哉お兄ちゃんがわたしに向けていてくれたものとは真逆のもの。
「ばかだな、そんなわけないじゃないか」
そう言われ、やっぱり直哉お兄ちゃんは死んでなんかいないんだってほっとした。
わたしは涙を流したまま兄に笑いかけた。だけどその続きがあった。
「あいつが死んだのは彩夏のせいじゃないよ。あいつは彩夏の犠牲になっただけ。もともと僕らとあいつの命じゃ重みが違うんだよ。だから当たり前のことをしただけさ。彩夏が気に病むことじゃない」
――ぎせい いのちのおもみ
わからない言葉だった。
意味はわからないけれど、とっても怖い響きに思えた。
だけどわかったこともある。
――あいつが死んだのは
直哉お兄ちゃんは、もういない。
直哉お兄ちゃんが亡くなった日、それは彼の誕生日だった。
そして奇しくも、その前日がわたしの誕生日だった。
七歳のわたしと、十五歳になりたての直哉お兄ちゃん。
死んだのは、彼。
犠牲って何? 命の重みって何?
あの時の兄の言葉がいまだに耳から離れない。
それは呪縛のようにわたしを捕らえ、逃がしてなんかくれない。
今なら兄の言ったことの意味がわかる。
命の重みなんてない。ありえない。わたしが死ねばよかったんだ。
それなのに、直哉お兄ちゃんはわたしを庇って……。
――彩!!
あの時、直哉お兄ちゃんが叫んだわたしの名前。
あの声が忘れられない。
それからわたしは、家を出られなくなった。
小学校にも通えなくなり、家を一歩も出られなくなった。いわゆる『引きこもり』だ。
世間体を気にする父は住み込みの家庭教師を雇い、わたしにひたすら勉強をさせた。
金の力で中学までは出たことにしてやるけど高校は絶対に行くように言われている。義務教育じゃないから金の力ではどうにもならない、そう母を責める父の姿を何度も見た。
そして、わたしは今日、十五歳になった。
生きていれば直哉お兄ちゃんは明日で二十三歳になるはずだ。
あの時の絵はわたしの机の中に残っている。引きこもりになった時、父が何度も捨てようとしたが、額縁の中に入れて飾っておいたのを外して隠し持っている。もう捨てたと父には言った。
少しだけ色褪せたその絵を持って、私はあの川へ向かった。
自分の家の敷地外に出たのは、実に八年ぶりのことだった。
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