姉の話が終わって落ち着くまでに相当な時間を要した。
時計を見るとすでに二十二時を過ぎていた。ここに着いたのが十九時少し前だったからすでに二時間は経過していることになる。雪乃はもう風呂に入って横になっているだろうか。
腹も減ったがそれを言える状況でもない。そんなことを思っていたらすっかり落ち着いた姉が席から立ち上がった。
「簡単におにぎりでも作るから、話を続けて。翔吾は喜幸さんに話があるんでしょう」
まるで気を利かせたみたいな感じでスッキリした笑顔を俺に向けた。
昔から姉は俺の空腹に敏感だったりする。なぜ気づかれるのかはいまだにわからないのだが。
とにかくようやく義兄と話す時間を作ってくれたことに感謝し、とりあえず姉にはまだ内緒の願いだけ先に申し出た。
それを聞いた義兄は一度だけ目を見開き、納得した様子で「約束する」と言ってくれた。
その表情は妙にすがすがしいもので、もしかしたら俺が申し出なくても前々から考えていたのかもしれないとさえ思えた。
最初の話を終えるとタイミングよく姉が戻ってきて、三人でおにぎりとたまご焼き、夕飯のおかずの残りの筑前煮と味噌汁を食べた。
俺と義兄の間が少しだけ和やかになっているのに気づいたのか、姉もうれしそうな笑顔を見せる。
食事をした後、俺は今日どうしても義兄に頼みたかったことを口にした。
「挙式の日、義兄さんも式場に来てほしい」
義兄は最初に持ちかけた願いの時よりも明らかに動揺し、顔を強張らせて首を横に振った。
姉も無理よ、と小さな声を漏らす。
「それはできない。私が行くことは雨宮家にも迷惑が――」
「新郎の俺が頼んでいるんだ。誰にも何も言わせない」
「だけど」
「雪乃に謝りたいって言ったのは嘘だったのか」
少し強い口調で言うと、義兄は小さく身をすくめて俺を見た。
かと思ったら何かに怯えたように背を丸め、俯きながら小さく首を振り続ける。
「嘘じゃない……嘘では」
「今すぐに返事がほしいわけじゃない。式までまだ時間がある」
「だけど、翔吾くん」
「披露宴に出席しろと言っているわけじゃない。せめて、雪乃のドレス姿だけでも見てほしい。雪乃だってそれを望んでいるはずなんだ」
「どうして!」
今度は義兄が声を荒げた。
何の確証もなくそんなこと言うなと続けられ、抉るような鋭い目で睨みつけられる。
「確信はある。あのクマのぬいぐるみだ」
雪乃がいかにあのクマのぬいぐるみを大事にしているか。
記憶のない時も無意識に抱きしめていたこと、事故直後に義兄のことは思い出していたことなどを伝えると急速にその顔は強張り、切なそうに歪められた。
大好きな父にもらった大切なプレゼント。雪乃は義兄と別れてからもあのぬいぐるみに思いを馳せ、その愛情を求めていたに違いない。
雪乃の自覚のない、義兄に対する強い思いに気づいていながら俺ができることといったら、こうして彼女の晴れ姿を見てほしいと頼む込むくらいだ。
それでも義兄は逡巡し、いい返事をすることはなかった。
挙式まで悩んでほしいとだけ伝えた。あとは義兄の思いに頼るしかない。
**
挙式前夜、雪乃の叔母に電話をするのは少しだけ緊張した。
いきなりの電話はもしかしたら何かあったのではないかと不安を抱かせてしまうかもしれない。
そう思いながらもどうしても話をしておきたくて、雪乃が微唾んだ後に電話をかけた。
寝室で話して起こしてしまうのを恐れ、かといってリビングで話しているのを聞かれても困るから用心して家の外に出た。パジャマにカーディガン姿で少し寒かったけどしょうがない。こうして電話をしていることが雪乃にバレたら何もかもが終わりだから。
『あら、翔吾さん? こんばんは』
通話に切り替わった途端、和やかな雰囲気で挨拶をしてくれる叔母がありがたかった。
どうしたの? と聞かれ、叔父と共にこの話を聞いてほしいと伝えると理由を深く尋ねられることもなくその旨を夫に告げて俺の要望を叶えてくれた。
まだ義兄から返事が来たわけではない。
だけどもしかしたら明日、義兄が雪乃を見に来るかもしれないことを簡潔に話すと、向こうからふたりの声が消えた。
思いを全て伝え、しばらくの沈黙の後に、「わかった」と答えてくれたのは、叔母ではなく叔父の方だった。
叔父の気持ちを考えたら申し訳ない申し出だったと思う。だけど受け入れてくれた。
雪乃を大切に思うが故の応えだろう。その思いに感謝しないといけない。
義兄はまだ決意ができないのかもしれない。
もう挙式は明日に迫っている。返事がないことに対してわずかな苛立ちを憶えたけど、これ以上俺にできることは何もない。
***
――そして、今。
俺は緊張しながら厳かな大聖堂風のチャペルの祭壇前で、花嫁を待っている。
ステンドグラスから通された光が俺だけに当たっている気がして、本当に主役なんだなって思わざるを得ない。本当の主役は雪乃だと思うけど。
心臓は太鼓のようにドコドコと鳴っている。こんなふうになることなんて滅多にない。
就職活動の時の面接なんて比じゃない。あんなもん、今思い返せば序の口以下だろう。甘い甘い。
俺はこうして待っているだけでいいのに、雪乃はあのすごい裾の広がった歩きにくそうなドレスでここまで来ないといけない。その間転ぶかもしれないしつまづくかもしれない。
もっともっと緊張しているんじゃないかと思ったらハラハラしてしまう。
しかもここまでエスコートされてくるのだ。
右手に持っている手袋を落とさないように気をつけて握りしめているだけの俺よりよっぽど強い緊張と戦っているのだろう。
立会人に促されて扉の方を向くと、眩しいくらいの輝かしい光が雪乃の姿を照らし出す。
そしてその隣に立っているのは――
風間家の親族席のほうを見ると、そこにはスーツ姿の雪乃の叔父。
ゆっくりと歩み、雪乃をこちらへエスコートしているのは紛れもなく義兄だった。
真正面を向き、姿勢を正してこちらに歩みを進める義兄の目は真っ赤でぎゅっと唇を噛みしめ、涙を堪えているように見える。
軽く目を伏せた雪乃の表情はブーケ越しではっきりは見えないけど、同じく涙を堪えているようで。駆け寄って抱きしめたくなるのを必死で押さえ込んでいた。
早く、少しでも早く俺のもとへ。
そんな思いを胸の奥に押しとどめて、ただ雪乃が一歩ずつ近づいてくるのを待ちわびていた。
そして目の前に義兄と共にたどり着くと、雪乃が恥ずかしそうに上目遣いで俺を見る。
まさに心臓を撃ち抜かれた、そんな感じで胸の鼓動が最高潮に達していた。
姉と義兄のマンション前で泣いていた姿や、どんな仕事にも真摯に向かい合う雪乃が一気に俺の記憶を駆け巡ってゆく。
出逢った頃はただの地味な普通の女性社員にしか見えなかった。
だけど違うんだ。やっぱり最初から俺にとって特別で、こうなるべくしてなったとしか思えなくて……雪乃も同じように思ってくれたら本当にうれしい。
義兄が自らの腕にまわされた雪乃の右手を両手で包むようにとる。
「娘を頼みます」
小さな囁くような声で義兄が俺にそう告げた時、雪乃がはっと顔をあげた。
きゅっと閉じた唇はかすかに震えて、少しだけ歪んだ表情からは明らかに喜びしか感じ取れなかった。
俺の前で初めて雪乃を『娘』と称した義兄。そして、雪乃もそれに気づいただろう。うなずき返して、雪乃の手をとった。
賛美歌が流れ、誓いの言葉も半ば心ここにあらずな状況だったのは雪乃には黙っていよう。
常にほわほわと熱に浮かされたような状態で、ただそこに立っていただけのような感じだった。
司祭が聖書を朗読しているのも、どこか遠くで流れているようなわずかにしか耳に入ってこない。ただ、隣に立っている雪乃のことだけが気になっていた。
いきなり義兄が現れて驚いただろうなとか、困惑したんじゃないかとか。
だけどどうしても雪乃のこの姿を義兄に、いや違う。この晴れ姿を、雪乃が幸せそうに微笑む姿を義兄に見せつけたかった。
「新郎、雨宮翔吾は風間雪乃を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓います」
厳かな気持ちで誓いの言葉を述べた俺。
そして少しだけ間をおいてから『誓います』と述べた雪乃。
この瞬間のことは、お互い絶対に忘れないだろう。
指輪の交換の時、差し出された雪乃の手は小さく震えていた。
大丈夫だと諭すようにその手を包み、細い薬指に雪乃が選んだ指輪を通す。サイズをあわせてあるからピッタリとはまるのはわかっていたけどこの瞬間が一番うれしかった。
雪乃から指輪をはめられる時には、すでにその手は震えてはいなかった。俺の指にもスムーズにその指輪がおさまる。
写真を撮られているのがわかり、かなり照れくさかったけどそれよりもうれしさのほうがこみ上げてきてもっと見てほしいと思ってしまう。
指輪は丸くて終わりがないことから永遠の愛を意味し 貴金属でできていることは永遠に価値のあるものを意味するという説明がさらに深く胸に響いた。
小さな雪乃が少しだけ屈んで俺がヴェールをあげやすいように協力してくれる。
屈まなくても大丈夫なくらいの身長差はあるけど、そうしたほうが美しく見えると習ったから。
なるべく大きく弧を描くようにヴェールをあげたほうが綺麗だと志田の彼女に教えられ、家でも何度も練習した甲斐があってうまくいったと思う。
雪乃がはにかんだような表情で俺を見つめる。
誓いのキスは大事なところで、カメラマンも構えているシーンだから三秒はキープするように言われていた。いろいろ注文があり、緊張のあまり当日は忘れてしまうんじゃないかと思ったけど意外と憶えているもんだ。
実際は緊張よりも喜びのほうが確実に
勝っていて、これで終わりだという安堵感も相まり、比較的冷静な心持ちで雪乃に顔を寄せた。
「――っ!」
唇が触れ合う瞬間に、雪乃が小さくだけどびくりと身体を強張らせたのに気づいた。
そうだ、打ち合わせでは頬にキスの予定だったのにすっかり舞い上がった俺は無意識に超自然に唇を重ね合わせてしまっていた。
目を軽く瞑っていてもわかるくらいの眩しいばかりのフラッシュと湧き上がるような拍手、そして歓声。
ええい、してしまったものはしょうがない。そう自身に言い聞かせて心の中でざわめき続ける混乱を押さえ込むしかできなかった。
雪乃の柔らかい唇をもっと堪能したいのに。
そんな余裕すらないまま名残惜しい気持ちを何とか宥め、離れる瞬間に雪乃の顔を見ると頬を真っ赤にしてちょっとだけ怒ったような目で俺を見上げていた。
うわー、あとで何言われるかわかんない。どうしよう。
そう思っていたのに、はにかんだ顔のまま笑みを浮かべる雪乃を見てほっとしたのだった。
向かい合ったまま目を合わせ、この手を二度と離さないと固く心に誓う。
ずっとふたりで。
共に生きていこう、雪乃。
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