「翔吾の前に、私から先に話をしてもいい?」
俺の様子を伺うように姉が顔を覗き込んできた。
覚悟を決めて話そうと思ったのに、正直出鼻をくじかれた感じだ。
今、俺が義兄に頼みがあると言ったばかりなのに……『順番を待てよ』と言いたくなったが、姉の表情が神妙なもので言葉にならなかった。
こんなふうに話の腰を折ってくるということは、どうしても俺が義兄に話すよりも先に話したい内容なのだろう。曖昧にうなずいてみせると、姉は少しだけ目尻を下げて軽く頭を下げた。唇が「ありがとう」と動いたように見えたが声にはなっていなかった。
「望美?」
「今が一番話せる時だと思うから……」
「あのことは」
「だめ」
今にも泣き出しそうな顔で姉が義兄に首を振る。
一方義兄も戸惑いを隠せないといった表情で深くて重々しいため息を漏らす。そして姉の肩を優しく撫で、渋々了承したように見えた。
姉は何を俺に話したいというのだろうか。義兄に止められてまで話したいというその内容はそんなに泣きそうな表情になるくらいのことなのだろうか。
普通に聞いてはいけないような気がして姿勢を整えて深く椅子に座り直し、出されたお茶を一口飲んだ。少しだけ冷めてしまっている。
なぜか自分まで緊張してしまう。さっさと終わらせてほしい。
「翔吾、今から話すことはあなたの口から雪乃さんに話してもいい。任せるわ。私じゃ決められないの。ごめんなさい」
俺のほうに向き直った姉の目尻からすでに涙がこぼれ落ちていた。
持っていた湯呑みを倒しそうになるくらい驚愕した俺は戸惑いを隠せず、助けを求めるように義兄に視線を送ってしまった。すると鋭い眼差しで俺を見ていた義兄もうんと強くうなずいてみせる。
どんな内容なのだろうか。俺の判断で雪乃に話してもいいって。
雪乃に関することなんだろうというのはわかるが、伝えるかどうかの判断を任せると言われてもどう答えていいのかわからない。とりあえず話を聞くことが先決だ。
そして、姉は「長くなるけど」と前置き、そしてゆっくりと声を震わせて話し始めた。
それは姉と義兄の出会いの話だった。
正直、ふたりの馴れ初めなんか聞きたくもなかったけど泣きながら話す姉を止めることもできない。
義兄も諦めたような面持ちで肩を落としているものだから、余計に聞かないとまずいような気がする。
そして、その話がふたりの馴れ初めだけではないことを話の途中で知った。
それは今まで隠蔽されていた衝撃的な事実だったんだ。
姉が、義兄を騙していた。
安全日だと偽って避妊をしなくていいと迫ったという。
その結果、姉が身ごもってみゅうが生まれたと聞かされ、頭の中が真っ白になっていた。
湯呑みを握っている手がかたかたと震えている。喉がからからで少し茶を飲もうと思ったら、すでに中身は空っぽだった。
「それ、母さん知ってるのかよ」
俺の口から出たのはそんな言葉で、姉は必死に首を横に振るだけだった。
そうだよな、よく考えたらわかることだ。
母はこの義兄に姉が誑かされたと思いこんで、ずっと恨み続けているのだから。
ピンク色のタオルハンカチで口元を覆い、引きつけるような泣き声をあげる姉の背を義兄が優しく撫でている。小さな声で「落ち着け」と宥めているのも聞こえた。それにうんうんと小さくうなずく姉。
「母さんに、言おうと思った。でも」
「私が止めたんだ」
急に義兄が姉の言葉を止めて、俺を見た。
瞼をきゅっと細め、小さく二度うなずく義兄のその顔は雪乃が困った時に見せる表情にそっくりで、思わず目を瞠る。
「あの当時、私は支店長という立場にいて本社からいろいろな無理難題を押しつけられて鬱病になりかけていた。家に帰って妻に愚痴をこぼすこともあったが、病気のことを話すつもりはなかった。私の妻はね、短大を卒業してすぐ私の元に嫁いできたいわゆる世間知らずのお嬢様みたいなもので、よく言えば社会の色に染まっていない純真無垢な少女だった……理解してもらうのは困難だったし、無駄な心配はかけたくなかった」
淡々と当時の状況を語る義兄を姉は少し心配そうな目で見ていた。
意外なところで雪乃の母のことを聞かされて、形容しがたい妙な心情になる。
知りたかったことかもしれない、でも、知りたくなかったかもしれない。
愛する人の家族のことを聞くのであればいいことを聞きたい。だけど今、義兄から聞かされた雪乃の母に対する感情は少なくとも俺にとってはよいものには聞こえなかった。
「だけど望美はすべて受け止めてくれた。私は望美に甘えていたんだ。私がすべて悪い」
「違うわ! 私が嘘をつかなければ」
「いや、本当に家族を思うならば君の言葉に乗ったりもしないはず。たとえ誘惑に負けたとしても、避妊だけはするはずだ。もちろん避妊をしていたらすべてが正当化できると言っているわけではない。私の意志が弱かったせいであって、あの時の私には望美は女神のように見えた。それに一も二もなく縋りついた」
まるで傷を舐めあうようなふたりの会話を聞きながら、雪乃のことを思った。
義兄の言うとおりだと思う。いくら心が病んでいたにしろ、妻子持ちの身で許される行為ではない。
だけど縋りつきたかった、という気持ちは少なからずわかる。
俺も記憶を失う前に別れを望んでいたはずの雪乃にみっともなく縋りついたから。
義兄は姉を好きだったのだろうか。
ただその時、親身になって相談に乗り、受け止めてくれたと言い張る一社員の姉を本気で思っていたのか。それともただ縋っただけなのか。
そう問うと、義兄は難しそうな表情で俯いて否定も肯定もしなかった。
しばしの間をあけ、静謐な雰囲気に変化した義兄の口がゆっくりと開かれた。
「正直に言えば、子どもができた時点で後悔はした」
その言葉を聞き、ぎょっとして姉を見ると俺のほうを向いて小さくうなずいた。
姉は義兄の当時の心境を知っていたのだろう。知らなかったとしたらこんなふうに冷静に聞いていられるずがない。
子どもができて後悔した、その気持ちすら知っているのにふたりは一緒にいる。
そしてなお、みゅうだけではなく悠斗というふたり目の子も授かっているのだから。
「妻、そして娘を裏切る行為をしてしまい、死のうと思った。自分が犯したこと全てから目を背けて死ねば逃げられると思ったんだ。ある程度の保険金もかけてるし、母子ふたりなら暮らしていけるだけの金にはなるだろうって。情けないよな……この命で償えるなら安いもんだと思った」
今度は義兄が泣きそうな表情になり、姉が自分の使っていたタオルハンカチを手渡す。
情けないというより殴り倒してやりたい気持ちになった。なんて責任感のない男なのだろうか。手の色が変色するくらい強く拳を握り続けている自分に気づく。
「だけど、私が死んでしまったら望美はどうなる。おなかの子は、そう考えたら」
「雪乃と母親はどうなるんだ!」
勢い余って怒鳴るような口調でそう訴えると、義兄がうんと大きくうなずいた。
「そうなんだ……結局私は望美と子どもを選んだ。だけど、妻と雪乃を思う気持ちは望美と腹の子を思う気持ちと変わらなかった。本当なんだ」
もう妻はいないが、と続ける義兄が大粒の涙を流した。
姉がテーブルの上に置かれていたタオルハンカチを再び義兄に差し出す。それで顔を覆った義兄が小さな呻き声をあげた。
「翔吾には、この人がつけたみゅうの名前の由来を話してなかったわよね」
今度は姉が義兄の背をそっと撫でた。
そしてとっても優しい表情で俺を見つめ、首を傾げるからうんと一度だけうなずいてみせた。
みゅうの本名、美雪。
雪乃と同じ「雪」の字を継いだその名前は雪の日に生まれた雪のように白い女の子で、姉の生まれた時とそっくりだったから姉の名前を一字取った。
そう母からは聞かされていた。だけど姉の口から聞いたわけでない。
考えてみれば夫の前妻との子どもと同じ字を使うことに姉は抵抗がなかったのだろうか。
その理由がすぐに語られることになる。
姉は義兄と前妻との子、つまり雪乃の名前を知らなかった。
義兄が「美雪」とつけた時、いい名前だと思った。だけど自分の名前の「望美」から「美」の一文字を取ったのなら、義兄の名前の「喜幸」から「幸」をとって「美幸」にしないかと姉は提案した。幸せになってほしいという願いを込める意味とお互いから一文字ということで。
だけど兄は頑なに「美雪」がいいと言い張った。
姉はそれを母に相談した。自分は「美幸」がいいが義兄は、と話すと母も義兄の意見に賛成した。理由は簡単なことだった。母は義兄をよく思っていないから雨宮家の孫に義兄の名を一文字でも継がせたくはなかったのだ。
そして「美雪」に決定し、役所に出生届を出しに行く直前、義兄が前妻との娘の名前を姉に伝えた。
――姉は激昂した。
「なぜ娘の名前から一字取るのか、そしてなぜそれを今言うのかパニックしたわ。最後まで隠し通してくれればいいのにとも詰め寄った。だけど、この人は何も悪びれずに、『たとえこの子と雪乃が一生会うことはなくてもふたりは姉妹だ』って」
穏やかな表情で姉が俺を見てそう告げた。
義兄の言ったその言葉を姉は受け止めた。だからそのまま「美雪」という名で出生届を出したという。
「これは贖罪なの。私がこの人を騙したりしなければこうはならなかったはず」
「だから、それは」
「ううん、喜幸さんがそう言っても私が何もかも招いたと思っているから。あなたが苦しんでいるところを付け入ったのも、騙し討ちしたのも。だから私もこの人の前妻や雪乃さんから逃げてはいけないと思ったの。一生償っていく十字架を背負った瞬間なの」
「ままぁ……おしっこ」
寝室の扉が開いて中から眠そうに目をこするみゅうが出てきた。
目の前のふたりはびくりと身体を震わせ、必死で涙を拭っている。寝室のほうに背を向けていてよかったと思った。両親が泣いていると気づいたら不安になるだろう。
立ち上がろうとする姉を手で制し、かわりに自分が席を立つとみゅうがきょとんとした顔をした。
「よし、しょうくんと行こうな」
「えーはずかしいもん」
ゆっくり近づいていくと、真っ赤な頬を膨らましつつも抱っこをねだったみゅうが大きく両手を広げてくる。
抱き上げるとこの前よりも重くなったような気がした。確実に大きくなっている。
たとえこの子が多くの犠牲のもとで生を受けた子だとしても、みゅうには何の罪もない。俺にとってもかわいくて大事な姪っ子。そして愛する彼女の妹でもある。
ぎゅっと俺の首元に抱きついたみゅうの甘い香りと柔らかい頬が暖かい。
急に愛しさが溢れ出すようにこみ上げてきて、しっかりとその身体を抱きしめた。
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