空色なキモチ

□ 哀恋歌 □

哀恋歌 後篇

 
 夏休みに入る少し前、彼女が大学を辞めたと聞いた。

 アメリカの大学に編入した。
 それを教えてくれたのは友人で、英文科の知人から情報を得たのだと言う。
 しばらく僕に気を遣って彼女の話題を出さないようにしてくれていたようだけど、それだけは伝えた方がいいと思って、と躊躇いながら教えてくれた。どうりでその姿を見ないはずだ。

 彼女と別れた僕は憐れな目で見られることもあった。不釣合いだった、そんな陰口も耳に入る。
 やっぱり自分をいくら磨いても彼女の隣に立つには不相応なんだと実感した。
 僕はコンタクトをやめ、眼鏡に戻した。変えた服装も元に戻し、冴えない自分に戻った。そもそも今までの僕が冴えていたとはいくら考えても思えなかった。


 僕は闇雲にバイトに明け暮れた。
 居酒屋と警備員、そのどちらもない日は工事現場の作業員もやった。
 とにかく家にじっとしていたくなかった。何かをしていないとずっと彼女のことばかりを考えてしまう自分が壊れてしまいそうだったから。
 盗まれるような高価な物もない部屋の窓は常に少し開けておいて、猫が自由に出られるようにしておいた。


 その日も居酒屋のバイトを終え、ふらふらで夜中に帰宅の途についた。
 夕食を準備する気にもならず、かといって買って行こうという気力さえなかった。シャワーを浴びてさっさと寝ようと決めていた。最近まともに食事をとらなくなった僕はどんどん痩せ、さらにひょろひょろになっていった。

 ふと、アパートの前に見知らぬ男が立っているのに気づいた。
 ワイシャツ姿の男は自分より年上そうに見え、睨むように僕を見据えている。
 どこかで見たことがあるような気がしたけど思い出せない。その横を通り過ぎ、アパートの階段を昇ろうとした時に名を呼ばれた。なぜ僕の名を知っているのだろうか。
 振り返ろうとした時には肩を掴まれ、頬に強い痛みが走っていた。
 辛うじて尻もちをつかずに体勢を保てたが、いきなり殴りつけられ呆然とした僕にその男が舌打ちをした。その時、急に記憶が甦った。
 
 あの時、彼女の肩を愛おしそうな目をして抱いていたあの男だった。

「ついてこい」

 男はそう言い残し、どんどん先を行ってしまう。
 なんのことだかわからず立ち尽くす僕をもう一度見やると、怒りに満ちたように顔を歪めて。

「早く来い!」

 そう怒鳴り声を上げた。


 無言の圧力により引きずられるように連れて来られたのは見覚えのない大きな総合病院の前だった。
 なぜ病院? 腑に落ちない僕をまたひと睨みで動かす目の前の謎の男。この男は彼女とどんな関係なのだろうか。その説明すらないままこんなところまで来て、何をしようと言うのだろうか。疑問ばかりが僕を支配してゆく。
 僕から彼女を奪ったかもしれない男。怒りたいのはむしろこっちである。

 殴られた頬の痛みと口の中の鉄のような血の味がかなり不快だった。
 エレベーターの中、僕のほうを見ようともせずに扉に向き合った状態の男がようやく口を開いた。

「何を見ても驚くな」

 そう、ひと言だけ。


 連れて来られた重々しい扉の前には『無菌室』と書かれていた。
 こんなところは見たことがない。あったとしてもテレビドラマの中でだけ。僕の家族はみんな健康であり、病院にはお世話になることがほとんどなかったから。
 入口で手指消毒をさせられ、妙に鮮やかなブルーのガウンとマスクを勧められて靴も専用のスリッパに履き替えさせられた。
 足で開くタイプの扉を開け、先に入って行った男の向こうにベッドが見えた。
 ドキリと胸が軋むような音を立て、小さな痛みを伴う。

 そこに横たわる彼女を見たから。

 それは過去の彼女の姿を見る影もなくやせ細り、閉じた瞼から眼球が浮き出ている。
 真っ黒で美しかった髪は全てなくなっていた。

 なぜ、アメリカにいるはずの彼女がここでこうしてこんな姿でいるんだ。
 言葉が出ない。震える足で彼女のベッドに近づく。短い呼吸の回数は多く、酷く苦しそうに見えた。
 恐る恐るその細い肩に手を伸ばし、触れるとごつごつとしていた。うっすらと開く瞼には青白い血管までもが浮き出ている。彼女の口元が少しだけ緩んだような気がした。


『――く、ん』


 声にならない震えた唇が僕の名を告げる。
 そしてその後に続く言葉の動きがはっきりと読めた。


『――あ、り……が、と』


 ピーッと何かの機械が音を立て、揺らめき立つように伏せられた彼女の眦から涙が一筋流れ落ちた。


 僕の頭は真っ白で、何も考えられなかった。
 ただ、男に殴られた頬がジクジクと痛み、切れた口角が引きつる。

 気づいた時には、噛み切った唇から新たな血が流れ出していた。



**



 無菌室の外のソファに座って呆然とする僕に缶コーヒーと一冊のノートが差し出された。
 目の前に立っていたのは例の男。目は真っ赤になり泣いたであろう痕がくっきりと刻まれている。その男は僕の隣に座り、大きなため息をついた。そしてぽつりぽつりと語り始める。

 このノートが彼女の日記であること、そして僕をここまで連れて来たこの男が彼女の従兄でこの病院の医師であることを聞かされた。

 ノートに記された彼女の思いを涙で濡れた目で追う、よく読めない。だけど――

 そこには繰り返し僕の名が刻まれ、別れたあともそれは続いていた。
 僕以外の名前なんて数えるほどしかない。

 猫を拾った僕のことを「素敵だ」と褒めちぎる彼女。
 日付こそその時に書かれたものではないことを物語っているが、思い出して記してくれたのだろう。
 僕が花火大会に誘ってくれるのを心待ちにしていたこと、僕の部屋のヒマワリが印象的でかわいかったこと、僕に告白されてうれしかったこと、化粧を教えてもらってよかったこと。
 初めての口づけ、そして初めての行為。
 ただ「幸せだ」そう何回も繰り返し書かれていた。

 変わる僕に疑問を抱く彼女。
 そのままでいい、あなたはそのままでいてほしいのに――

 なんでもっと一緒にいてあげなかったのだろうか。
 自分のことばかりで、彼女の気持ちをちっとも理解していなかった。
 こんなにも彼女は僕のことを想っていてくれたのに、僕は一体彼女の何を見てきたというのか。

 後悔ばかりが押し寄せて、涙が止め処なく溢れ出す。


 男は何度も僕をここへ連れてくると彼女に言った。
 だけど彼女は拒み続けた。
 
 僕の前ではきれいな自分でいたい。こんなやつれた姿を見られるのだけはいやだ、と。


 男の説明によると、彼女の病気が発症したのは僕が変わろうとしてしばらく経った頃のことだった。
 指輪を贈った頃、ちょうどその時期に当てはまる。
 あの時のうれしそうであり悲しそうな彼女の顔を思い浮かべて胸が締め付けられた。


 男と彼女の骨髄の型が一致し、移植を受けた。
 だけど彼女の身体は拒絶反応を起こした。男が移植をしなければもう少し生きられたかもしれない、そう泣きながら話す。ノートの字がどんどん乱れてゆく。徐々に読めない字に変わっていく。


 あなたにあえてよかった。なにもいわずにさるわたしをゆるしてほしい。
 さいごはあなたにきれいにしてほしかった。

 だいすきだった。たくさんのしあわせを、ありがとう。


 最期の日記は全てひらがなで刻まれていた。
 彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。涙が溢れて何も見えない。隣で僕の肩を掴む男の手が強くて痛い。それにまた涙が零れた。

 だいすきだった、と過去形になっているのが彼女の精一杯の優しさだろう。


「あいつの望みを、叶えてやってくれ」

 震える声でそう言われ、うなずくことしかできなかった。


 自宅へ運ばれた彼女を布団に横たわらせ、僕が死化粧をする。
 メイク道具は彼女が使っていたものを使用した。僕が勧めたファンデーションにグロス。アイラインにアイシャドウ。だけどこんなもの君には必要ない。そのままで十分きれいなのだから。
 ファンデーションを塗ろうとした時、首元に光る何かを見た。
 彼女は気に入っていた紺色の浴衣を着せられており、その合わせの間から見えたのは細い金のチェーンで、引っ張ってみるとその先には僕があげた指輪がぶら下がっていた。

「その指輪、ずっと大事にしてた」

 男がボソリとつぶやいた。
 痩せてサイズが合わなくなり、男が別の指輪を買ってやると言ったそうだが、彼女はそれを受け入れなかったという。だったらサイズを直せばいいと言っても彼女はそれを拒絶した。

 この指輪は特別でとっても大事なものだから手を加えたくない。
 こうしておけば肌身離さず傍においておける。

 そう言ってネックレスにそれを通したのだと。

 彼女は何ひとつ泣き言を言わなかった。辛い検査にも治療にも耐え、涙ひとつ見せなかった。
 だけど枕が涙で濡れていることは多々あったと話す。
 泣いている姿を誰にも見せようとせず気丈に振舞った彼女。そして最期、僕だけに見せた涙。

 僕の涙が彼女の頬を濡らす。まるで彼女が泣いたかのようにそれが筋になって頬を伝う。
 僕は泣きながら彼女にメイクをした。
 しっかりしろと、背中を叩かれながらようやく仕上がった出来栄えに、「殴って悪かったな」と、男は満足そうに泣き笑いをしてみせた。
 
 この男は彼女が好きだった、その気持ちが痛いほど伝わってきて辛かったんだ。


 メイクを終えたあと、僕は彼女とふたりきりにしてもらった。
 布団に横たわる彼女はとても死んでいるようには見えなくて。男が用意した黒髪のカツラを付けられて、まるで眠っているようにしか見えなかった。
 その頬をそっと撫でるともう冷たい。何の温もりも感じなかった。

 だけど彼女は確かに数時間前まで生きていた。
 病気と一生懸命に闘った彼女。僕に何も伝えずに去って行った彼女。

「だいすきだった、たくさんのしあわせを、ありがとう」

 彼女の最期に残した言葉をつぶやいて、僕はその唇にキスをした。

 伝えることのできなかった最後の言葉。
 風に乗って、天国の君に伝わりますように。

 そう願いを込めて。



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Date:2014/02/10
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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