「雪乃?」
声をかけられて我に返った。
ひとりでトリップしたような感覚に陥っていた。
あの時の母の顔、父の顔、あの人の顔……。
「雪乃の実家は遠いの? それでもいいよ。近いうちに会いに行こう」
「――無理です」
「……俺を会わせたく、ない?」
悲しげに目の前の雨宮翔吾の表情が歪む。
だからなぜそんな顔をされるのか?
「必要ない、です」
「何が? 何が必要ないって?」
「雨宮さんがわたしの親に会う必要も、ここにいる必要も、何もかもですよ」
あからさまに傷ついた表情を見せつけられてもわたしには何もできない。
むしろそっちから離れるべきじゃないの? なんでわたしがこんな悪者みたいな扱い受けないといけないのかわからない。こんなに身体がだるいのに……。
なんとか身体を左向きにしてひと息つく。
「もう帰ってください……」
「……薬だけ飲んで。そうしたら、帰るよ」
懇願するような声を聞いて、しょうがなく起き上がる。
でも風邪薬はありがたい。買いに出るのが辛かったから。
コップの水と、白い錠剤を渡され飲み込むと少し喉が重いような痛いような感じがした。
心配そうにわたしの顔を覗き込むその目を見ないように少し左に目を逸らす。
しばしの沈黙の、後。
「じゃ、帰るから。早くよくなって」
いつもとは全く違うこの人の小さな声が聞こえ、わたしも力なくうなずく。
今、何時なんだろう? 電車はあるのかな?
ゆっくり立ち上がった雨宮翔吾が俯いたわたしの頭をそっと撫でた。
また、だ。
過去が、甦る。
風邪をひいて寝込んで学校を休んだわたしの頭を父の大きな手が優しく撫でた。
『早くよくなりなさい』
その時の父の表情はとっても暖かくて、全てを包み込むようなものだった。
それなのに――
「雪乃?」
父とは違う声が、わたしの名を呼ぶ。
それでようやく我に返れる。
体調が悪いから昔のことを思い出すだけだ。ナーバスになってるだけ。
「薬のお金、払います」
「いや、いいよ」
「いえ、そういうわけにはいかないので」
ふらつく足取りでなんとかベッドから立ち上がり、居間と寝室の境の襖戸の傍に投げ捨ててあったバッグを手にする。
茶色のエナメルが少しはげかかってる……もう新しくしないとダメだな。
こんな古臭いバッグ使ってるなんて恥ずかしかったけど、今はどうにもならない。
若草色の財布から五千円札を一枚出してわたしの後ろに立ち尽くしている雨宮翔吾へ向けた。
「これで……」
「いいって、そんなの受け取れないから」
「ダメです、ちゃんと持って行ってください」
「なんでそんなに……」
「借りを作りたくないんです、さあ」
お金を折りたたんで押しつけるようにその手に握らせる。
これで、終わり。
そう思ったのに――
その大きな手がお金ごとわたしの手を握りしめた。
そのまま強い力で引き寄せられて、わたしの力の入らない身体は吸い寄せられるようにその胸に抱かれる。
目の前にワイシャツの胸。
柔軟剤のような香りがふわりとした。
「もうフラフラじゃないか。抵抗する力もないんだね」
「……ぅ」
グイッと少し乱暴に顎を掴まれ、上を向かされた。
視線が絡みあう。
その瞳には艶が宿っていた。
疲れの二文字を色濃く示したブラウンの瞳がわたしの顔に近づいてくる。
あ! まずいと思ったけど抗う気力も体力もわたしの中には存在しなかった。
柔らかい唇が食むようにわたしのそれを塞ぐ。
それと同時に身体が震え、内股にぎゅっと力が入るのを自覚した。
ダメなのに、こんなことしちゃダメなのに……。
心ではそう思っている、でも。
わたしの身体を支える力強い腕にそっと手を添えて、そのワイシャツを握りしめてしまっていた。
好き……なの。
でも、ダメなの。
これは本物の愛じゃないから、ダメなの。
ねえ、なんでこんなことするのかわからない。
まだわたしをからかうの? 騙すの?
こんなことする必要ないのに、もう捨てていいのに。
わたしはあなたが振った傷ついた女性じゃないのに。その身代わりにしないで。
――重ねられた唇が、あつい。
気がついた頃にはすでに唇は離れていて、そのワイシャツの胸に抱き寄せられていた。
足が立たなくなったわたしの膝裏に手が添えられ、荷物のように軽々しく抱き上げられる。
ふわりと浮かび上がったような身体はまるで現実じゃないみたいに気持ちがよくて……。
「君が寝つくまで傍にいるから……」
布団の上に身体をそっと下ろされる。
それなのに身体がふわふわしている感覚はおさまらない。
目を閉じると、ぐっと闇に吸い込まれるような感じになって……またわたしは微唾んでしまう。
「雪乃、俺はね……ずっと、君の傍にいたいんだ」
泣きすぎたせいなのか寝すぎたせいなのか熱のせいなのかよくわからない瞼の重さと戦いながらベッドサイドの雨宮翔吾を見る。
泣き出しそうなその表情は嘘を言っているようには見えなかった。
だけどそんな都合のいい解釈をしちゃいけないんだよね。
今は病気だから現実を逃避したいだけ……熱が下がればきっとまたちゃんと元の同僚に戻れるはず。
わたしの瞼にそっと暖かい手のひらがのせられた。
その動きに合わせ目を閉じる。
「結婚してほしいんだ、雪乃」
すでにわたしは夢の世界にいたようだ。
なんて都合のいい……戯言、ううん空耳?
大好きなバリトンボイスで聞こえてくるなんて……おかしいよね。
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