第176話 兄の手未来視点冒頭から嘔吐シーンがありますのでご注意ください。
「……うっ!」
急に吐き気がして両手で口を押さえる。
心配そうに母がわたしの顔を覗き込んだのがわかったけど、その手を振りほどいてトイレに駆け込む。
ほとんど何も食べていないから胃液みたいなものしか出てこない。苦しくて気持ちが悪い。胃がぎゅっと締めつけられるようだ。口の中に酸っぱいような苦味のようなものが広がってゆく。喉が焼けるように熱い。
「未来! 大丈夫か? 背中さすってやるから、開けてくれ」
トイレの扉を叩く音とお兄ちゃんの声。
こんな姿を見られたくない。その大好きな声すら今は煩わしい。
「ほっといて……っぐ! げほっ!」
胃のあたりが押し上げられ、胸の奥のほうからこみ上げてくるような波に流されるままパシャパシャとわたしの口から吐瀉物が流れ出る。涙を流しながら吐き続けた。
「……未来」
トン、とトイレの扉に何かが当たる音が聞こえた。
どのくらいトイレに籠っていたんだろうか。
ようやく嘔気が落ち着いてきた頃、トイレの扉がノックされた。
「未来、水を持ってきた。開けてくれないか?」
お兄ちゃんの声を聞いて、本当は開けたくなかった。
だけど口の中が気持ち悪くてうがいをしたい。観念して扉の鍵だけを開けてドアに背中を向けていると、頭の上から水入りのコップが差し出された。
お兄ちゃんの方を見ず、掠れそうなくらい小さな声で「ありがとう」とお礼を伝えてコップを受け取る。
何度かうがいをすると口の中がスッキリしたけど喉の奥の焼けるような痛みは取れない。モヤモヤしていた頭の中も少しずつクリアになりつつある。吐くような大きいため息が自然にわたしの口から漏れ出た。
ようやく一息ついた頃、お兄ちゃんが後ろでにしゃがみ込んでわたしの背中をさすり始めた。
その手が暖かくて、微妙な心境になる。
「ごめんな。俺のこと、許せないよな。許してくれとは言わない、けど――」
「お兄ちゃん、こそ」
その言葉を遮ると、お兄ちゃんの手の動きが止まった。
言いかけの言葉の続きも少しは気になったけど、もう聞きたくはなかった。
「お兄ちゃんこそわたしが許せないでしょ……わたしが義父さんを……」
「あいつが勝手に未来に惚れただけだ」
「わたしが……」
「未来のせいじゃない。すまなかった」
再びお兄ちゃんの手がわたしの背中を優しくさすり続ける。
もう出るものもないのに、それでもお兄ちゃんはまるでわたしを宥めるかのようにずっと背中をさすり続けた。
「壊れたのは盗作事件のせいだ。それまであいつだって自分の気持ちにセーブをかけていたはず」
「……今日、義父さんに会ったの?」
わたしが聞くと、お兄ちゃんの手がまた止まった。
少し間があいた後、後ろから小さなため息が聞こえた。
「……うん」
「どこで?」
しばらく待ったけどお兄ちゃんが答えないから振り返ってみると、俯いて押し黙っていた。
言うのを躊躇っている様子が見て取れる。
「わたしの携帯持って帰って来てくれたのに、会ったこと内緒にするつもりだったの?」
「え? なんで携帯のこと? 俺の机の中、見た?」
「携帯のバイブ音が聞こえた……お兄ちゃんの机の中から」
「ああ、そっか。だからバレたのか」
しまった、という顔をしてお兄ちゃんが小さく肩をすくめた。
お兄ちゃんがわたしの右肩を抱く。
「部屋に戻ろう。立てるか?」
支えられて立ち上がると少しだけグラッとした。
しっかり両肩を支えられお兄ちゃんの寝室に行き、ベッドに座らされた時にもう一度訊いてみた。
「どこで義父さんと会ったの?」
バツの悪そうなお兄ちゃんが顔をしかめる。
これ以上隠し切れないと思ったのか、小さなため息をついてようやく重い口を開いた。
「病院。今朝、事故を起こしたみたいで、たいしたことはない」
「……事故」
「大丈夫だ、気にするんじゃない」
「だって……昨日の、あれのせいでしょ? 車で逃亡みたいな」
お兄ちゃんの顔が一瞬曇ったように見えたけど、すぐにニッコリ笑いかけてくれた。
「だとしてもその事態を招いたあいつが悪い。未来は気にしなくていいから少し休みなさい。ポカリを持ってくるから」
それ以上何も言えず、わたしは促されるままベッドに横になった。
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