第168話 実父の告白柊視点
「……う……柊……」
俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
懐かしいその声。よく呼んでもらったあの――
重い瞼を擦ると、鼻にツンとくる独特な匂いが鼻腔を刺激した。
目を開くと白い壁が視界に入る。そうだ、ここは病院だった。
ベッドに横たわったままの実父が鋭い目で俺を見ていた。いつの間にか俺もソファに座ったまま眠ってしまっていたようだ。
「なんでおまえがここにいるんだ?」
「……来たくて来たわけじゃない。あんたが未来の名前しか言わないから」
ぐーっと両腕を上げて背筋を伸ばすと固まった身体が開放され、頭が少しスッキリした。
時計を見ると十三時を過ぎている。いったいどのくらい眠っていたんだろう。身体の疲れは全然取れておらず、節々が痛くて気だるい。
「なんで未来の名前を言うとおまえが来るんだ?」
憮然とした態度で問う実父を甚だ忌々しく感じた。
いちいち説明するのが面倒くさいけど理由を言わないと納得しないだろう。
「あんたに刺された時、俺もこの病院のこの病棟に入院した。その時にお世話になった人が未来のことを知っていた。これでわかったか」
病室の扉をノックする音が聞こえて、すぐに誰かが入ってきた。
さすがに話の続きを促すでもなく、実父も口をつぐんでいる。
「小林さん、点滴を追加しますね」
笑顔で入ってきたのは亜矢だった。気遣うようこっちに会釈をしてきたから、俺も同じように返した。
点滴を見ながら亜矢は実父の様子を観察しているようだった。
「この看護師さんか?」
実父が亜矢を横目で見てそう言うと、彼女はきょとんとした表情を見せる。
「看護師さん、オレは娘を呼んだんだけど。身内は未来だけだ」
険しい表情でそう訴えられ、亜矢が困った顔で少し俯いた。
「未来さんの電話が繋がらなくて……」
「そりゃ繋がらないだろう? あんたが未来の携帯持ってるんだから。連絡手段を自分で
断っておいて、よく言えたもんだ。それに会いたいならそれなりの態度ってもんがあるんじゃないのか?」
もっともな俺の発言に実父が小さく舌打ちをした。
ここぞとばかりに実父のベッドの右側に立ち、軽蔑した目で見下ろしてやった。横目で俺を威嚇するように見つめる実父。だけどこの状況じゃ手も足も出まい。
「未来はオレの娘だぞ」
「血の繋がりもないくせに、か?」
「おまえだって兄でもないくせに未来に関わるな」
「うるせぇ、黙れ。外道」
吐き捨てるように実父が言い放ったその言葉にカッとなり、言い返してから、自分も大人げないと後悔する。こんな男と同レベルで言い争うなんて恥ずかしさを通り越して情けない気持ちになった。
「口の悪い男だ……どういう育てられ方をしたんだ。あんた、未来を知っているんだろう? 呼んでくれ。未来に会わせろ」
そう言い寄られ、困惑顔で亜矢が俺に視線を送ってきた。
俺の存在なんか無視して亜矢に縋る姿が滑稽で笑いたくなるが、今はそれどころじゃない。
「亜矢に言っても無駄だ。困らせるな」
「何? この看護師さんおまえの女? 下の名前で呼んで意味深だな」
一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにニヤニヤして俺と亜矢の顔を見ている。
なんて下世話な男なんだろうか。違うと否定しても信じていないようで、不敵な笑みを浮かべ続けている。
「看護師さん、こいつやることやってるからやめておいた方がいいですよ。うちのかわいい十五歳の娘にちょっかい出して……」
「やめろ」
「処女まで奪いやがって……」
「いい加減にしろよ!!」
布団をはいで胸倉を掴みあげるとすかさず亜矢が止めに入ってきた。
「――やめて! 柊さん!!」
「俺よりあんたの方が未来にっ……もっと酷いことしてるだろうが!!」
抵抗もせず胸倉を掴まれたまま宙を見ている実父に拳を振り上げると、その手を亜矢に掴まれた。
「柊さん! もうやめて!!」
「未来に謝れ! そして二度とそのツラ見せんな!!」
急に実父の焦点が俺に向けられた。
亜矢が俺の腕にしがみつき、全力で止めようとする必死なその姿を見て実父の胸倉を離した。
実父の口角がクッと上がり、ニマニマと下品な笑みを浮かべている。それはとても不気味で小さい頃、共に過ごした実父とは全くの別人のような気がした。そうであってほしかった。
この人はどうしてこんなにもかわってしまったのだろうか。面影すらない。昔の優しいだけの父の姿はもうどこにもない。その事実が辛かった。
「おまえ、未来が好きか?」
右側の窓の方に視線を落として実父が笑った。
こっちを見ていない実父を睨みつけてやると、向こうも俺を見ずにニヤリと口元だけで笑っていた。
「奇遇だな。オレもずっと昔から好きなんだ」
「……は?」
いきなりの実父の告白に耳を疑った。
どういうことだ、オレも好きって? まさか未来のことを本気で――
「……おい!」
「柊さん!!」
もう一度実父に掴みかかろうとした瞬間、亜矢に止められた。
そのまま腕を掴まれ、「もう出て!」と出口の方へ引っ張られる。
まだ言い足りない事がたくさんある。そして聞きたいことも。今言った言葉の本当の意味を聞かないといけない。
「離せよっ! おいっ! 今のどういうことだっ!」
実父に怒鳴り飛ばすも、亜矢が強く引くので遠ざかるばかりだった。
本気で振り払えば、多分亜矢の腕を離せただろう。だけど俺にはそれができなかった。本当はその言葉の真意を聞くのが怖かったのかもしれない。頭の中が混乱しまくっていた。
遠くからでも実父が俺を見てあざ笑っているのがわかる。
「ふざけるな! 未来をそんな目で見るな!!」
亜矢に引かれるまま病室から出された。
あんな目で未来を見られていると思うだけで虫唾が走った。
頭の中がモヤモヤする。
あいつは、実父は未来に本気で惚れていたのか。
**
「柊さん、これ飲んで落ち着いて」
亜矢に談話室へ連れてこられ、テーブルの前に缶コーヒーを置かれた。
だけどそれに手を伸ばす気にもならず、無言で机に肘をついて頭を抱え込む。目の前に座った亜矢が身を乗り出して小声で囁いた。
「ねぇ、柊さん。小林さんの言ったことって本当なの?」
「……言ったことってどのこと?」
もう何を話したのかも頭の中がゴチャゴチャで思い出しきれなかった。
「その……未来ちゃんの初めてを柊さんがって」
躊躇いながら亜矢が上目遣いで俺を見た。
目を伏せて小さく首を横に振り、もらった缶コーヒーに手を伸ばして片手でプルタブを引く。
「違う……けど、あの男にはそう言ってあるんだ」
「……どういうこと?」
亜矢が俺の顔を凝視した。
何をどう説明したらいいかわからなかった。
「あいつおかしいだろう? 未来の初めての相手を教えろって脅すから咄嗟に俺だって言った」
コーヒーを飲むと思ったより苦くてぼんやりした頭が少しだけスッキリした。
もうひと口飲むと、さらに落ち着いたような気がして大きくため息を吐いてから亜矢を見ると険しい表情をしていた。
「脅すって、親子の関係でそんな……なんて脅されたの?」
机の上に置かれた亜矢の手が小さく震えている。
脅すという言葉にいろいろな想像を膨らませているのかもしれない。俺とあいつは普通の親子ではない。きっと亜矢の想像の範疇を大きく越えていると思う。
「……訊かない方がいい」
そう伝えて俺は残りの缶コーヒーを一気に飲み干した。
勘がいい亜矢は気がついているかもしれないが、とても口に出して説明したくはなかった。
「コーヒーありがとう。もうあんなことしないから大丈夫」
「……そう」
亜矢が静かに席を立ち、俺の肩を軽く叩いて席を離れていった。
ひとりでいろいろ考えたかったから、その時間を与えてもらえてよかった。
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