第144話 エンコーの理由未来視点
車の中でお兄ちゃんの低い声が響いた。
――未来は俺が買う。いくらだ――
「……だめ」
わたしが首を振りながら言うと、お兄ちゃんは切なそうな目でこっちを見てからすぐに逸らした。
「未来は黙ってろ。金子、いくらで売ってくれるんだ?」
「バカじゃないの? 教師の安月給で買えると思ってるの? しかも高校教師が女子高生買うとか……」
麻美が鼻で笑いながらお手上げのポーズをした。
もうやめて、と心の中ではいくらでも言えるのに言葉にできない自分は臆病者だ。
「未来は高いよ? さっきのリーマンも言ってたけど上玉なんだから」
「いい。いくらでも出す」
そう答えるお兄ちゃんの横顔は真剣だった。
なんでそこまでするの。こうなったのだって全部わたしの責任なのに。
「だから高校教師の安月給じゃ」
「俺、大学時代ずっとバイトしてたし、足りなきゃ借金してでも出してやる」
「も、やめて……」
黙ってろと言われたけど、ただ聞いているのが耐えられなくなってお兄ちゃんのワイシャツの袖を引っ張る。だけどお兄ちゃんはわたしの方を見ようともしなかった。
「いいから黙ってなさい」
「お兄ちゃん!」
小さくだけどわたしが叫び声を上げると困惑顔で見つめられた。
だってそんな必要ないよ。なんでお兄ちゃんがわたしを買うの? お金を払う理由なんてない。
「ねぇ、柊先生と未来って変だよね。弟の彼女って関係だけで彼氏のお兄さんをそんなふうに呼ぶ? 弟の彼女を呼び捨てにするのも変だし」
「そんなことどうでもいいだろう? 今はそんな話、してないから」
修哉さんに同意を求め、不思議そうに訴えかける麻美をお兄ちゃんが止めて話を引き戻した。
もしかして庇ってくれたのかもしれない。つい興奮してお兄ちゃんと言ってしまった自分がいけないのに。自己嫌悪に陥ってしまう。わたしはお兄ちゃんの足ばっかり引っ張っている。
「じゃ、ついでにこの画像も一緒に買って」
携帯電話を取り出した麻美を見てハッとした。
もしかして画像って、あの時の。
「麻美、やめて、約束したでしょ?」
わたしが止めるのも聞かず、麻美は携帯を見つめて操作している。
どくん、どくんとわたしの胸の鼓動が高鳴ってゆく。見せないって約束したはず。それなのに――
「柊先生、これ」
「やめて! 見ないで!」
シートベルトが邪魔して身体が思うように動けない。まだ車が動く前なんだから締めなければよかった。ついいつもの習慣で締めてしまったのを悔いて急いで外すけど間に合わなかった。麻美の携帯はしっかりとお兄ちゃんに向けられている。
画像はやっぱりお兄ちゃんとわたしがホテルから出てきた時ものだった。
お兄ちゃんが眉を寄せて携帯の画面を見ている。修哉さんも画面を覗き込んで驚きの表情をしていた。
「昨日の朝のだ……」
「そうよ。朝早く駅前で見つけて撮ったの。この画像も一緒に買い取ってよ」
得意満面の麻美がふふんと鼻を鳴らして笑った。
お兄ちゃんに見せないって約束したのに、だからいやな援助交際もしたのに。やっぱり自分にはどうすることもできなかった。お兄ちゃんを巻き込まないで隠し通したかったのに。
「買ってもいいけど……金子はその画像をどうしたいの?」
今度はお兄ちゃんが勝ち誇ったような余裕たっぷりの表情に変わった。
「公表するか、教育委員会とか? 別に公表されても構わないけど」
麻美の顔が悔しそうに歪む。
そんなふうに麻美を煽らないでほしいのに。事がどんどん悪い方向へ進んでいるような気がして、でも何もできない自分が悔しかった。
「はあっ? 淫行教師って言われるよ?」
「べつに俺は構わない。職を失ったっていいんだ」
「だめだったらぁ……」
もう一度お兄ちゃんのワイシャツの袖を強く引っ張ると、苦笑いでわたしを見た。
「黙ってなさい。この画像のせいで援交なんかさせられたんだろう。もうね、未来の考えていることは手に取るようにわかる」
お兄ちゃんの優しい眼差しが『任せておけと』言っているようにしか見えなかった。
わたしはいつもその優しさに守られて、何もできないでいる。迷惑ばかりかけているのにわたしを助けてくれるんだ。申し訳ないという気持ちを感じないといけないのに、うれしさのほうが勝ってしまう。
自分の袖からわたしの手を離させ、お兄ちゃんが麻美に向き直った。
「金子の好きにしろ。売るなら買う」
「柊先生って未来のこと好きなの?」
麻美の直球の質問はわたし達を動揺させるのには十分すぎるものだった。
お兄ちゃんとわたしを交互に見据える麻美の目に何もかも見透かされそうで怖かった。お兄ちゃんの動きも一瞬止まったのがわかるくらいだ。
無言のお兄ちゃんが運転席の方を向き直ってシートベルトを装着した。
カシャンという音が車内に響き、少しの間沈黙が続いた。誰も口を開こうとはせず、わたしも前を向いてちゃんと座り直す。
「答えないってことは肯定ってこと?」
沈黙を破ったのは苛立った口調で声を荒げる麻美だった。
不思議なくらい麻美の怒りの感情が伝わってくる。声のトーンのせいだけなのだろうか。
「――ああ」
エンジンをかけ、運転する準備をしながらお兄ちゃんが軽く返事をした。
ちらっとその顔を覗き見ると冷静な顔をしているように見える。どういう意味の「ああ」なのかわたしにはわからなかった。
「ああってどういう意味で? 柊先生、はっきり言ったら?」
怖くて後ろを振り返れなかった。
麻美がどんな表情をしているのか、怒りの感情に飲み込まれそうだ。恐る恐るお兄ちゃんの方を見ると、平然とした表情で前を向いている。何を考えているのかさっぱりわからない。
わたしを買うだなんて麻美を煽らなければよかったんじゃないかという思いがずっと頭の中を駆け巡っていた。あの言葉がなければに理不尽に追及される事もなかった気がして。それに画像を公開していいだなんて、絶対によくないはずなのに。わたしはどうなってもいいけど、お兄ちゃんだけは守りたい。
お願い、否定して。そう思ったのに――
「未来のことが好きだ」
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