「風間さん、これあとででいいんでコピー五十部お願いします」
右隣の席に座った翔吾さんが数枚の書類をわたしに手渡した。
書類の確認をしていると、二枚目に黄色のポストイット。
“五分後、休憩室”
「はい」
なるべく顔を見ないようにして小さくうなずく。
カタリと音を立てて翔吾さんが席を立った。もう休憩室へ向かうつもりだろう。
オフィスを出てエレベーターホールに向かう途中の左側に給湯室があって、そこには扉がない。
給湯室を通り過ぎるとすぐ右側にエレベーターホールがある。
左の壁沿いにガラスの小窓がついた扉があり、その中が休憩室となっている。
この休憩室は職員なら誰でも使用可能。
休憩室には飲み物の自動販売機が三台あり、缶ビン物と紙コップタイプのものがある。
お茶汲みする時、自販のコーヒーを希望される場合もあるのでその時はここで購入するのだ。
基本この休憩室での会議は禁止。
誰でもすぐにいつでも入れるようにしておかないといけないから。
静かに休憩室に入ると、壁際に三つ並んだ自販の前に翔吾さんが立っていた。
自販の方にいるとこの扉の小窓からはじっくり覗かない限り死角になる。
ただ壁が薄いようで、少し大きな声で話すと外に聞こえてしまうようなので気をつけないといけない。
地声が大きい人は要注意。翔吾さんは少し大きい気がする。本人には言えないけど。
本当はこの扉は普段開けておくことになっている。
だけど閉まっていたってことは、翔吾さんが故意に閉めたのだろう。
「コーヒー飲む?」
「あ、いいえ。仕事中ですから」
扉の壁の上についている掛け時計は十時半をさしていた。
わたしはこの後、翔吾さんから頼まれたコピーをしに七階の印刷室に行くつもりで書類を持って来ていた。五十部ずつだが三枚綴りで百五十枚になるので印刷室のコストの安い印刷機を使用するつもり。
「真面目だね」
真面目……なのかな?
どっちかと言うと新入社員のはずである翔吾さんが砕けすぎのような気もしないでもないけど……。
「呼んだのは、これを渡したかったから」
翔吾さんの右手がわたしの方に向けられた。
手を広げて差し出すと、ひんやりと冷たい感触。
翔吾さんの手が離れて、手のひらを覗き込むと鍵がのせられていた。
「これ……」
「今朝作ってきたんだ。早めに渡したかったんだけどなかなか作りにいけなくて」
……合鍵。
照れくさそうに翔吾さんが微笑んで俯く。
顔が真っ赤になってる……こんな翔吾さん初めて見た。
「今日少し帰り遅くなりそうなんだけど、家で待っててほしい」
「え?」
「帰ったら車出すから、近くのホームセンターで部屋着とか買おう。いいよね?」
部屋着?
それは、あの家にわたしの居場所を作ってくれるという意味?
いつでも翔吾さんの家に、あなたの傍にいてもいいっていうこと?
うれしくて、胸の奥がほわんと暖かくなって……自然に笑みがこぼれてしまう。
俯いて小さくうなずくと、頭をそっと撫でられた。
その手が優しくてうれしいのに、ドキドキして少しだけ不安になった。
誰かに見られたらどうしようって気持ちになって……。
「あ、もう行きますね」
その手を軽く自分の頭から退ける。
その時に見た翔吾さんの目には熱が孕んでいた。
まるであの時の……数日前に初めて重なり合った夜の時のよう――
「雪乃……」
すうっと翔吾さんの手が伸びてきたのがわかって身を引く。
こんなところでまずい。誰かに見られたら言い訳しようがなくなってしまう。
わたし達は話し合ってしばらくつき合っていることを社内では内緒にすることに決めていた。
だから社内では翔吾さんはわたしを名前で呼ばない。もちろんわたしだって。
だけどこうしてふたりきりになると、翔吾さんはここぞとばかりにわたしを呼び捨てにする。とっさにその癖が出ないようになるべく姓で呼んでほしいのに……。
「ここじゃ……」
避けようとしたけど、翔吾さんの大きい手でわたしの身体は自販機に押しつけられた。
覆い被さるように翔吾さんの身体が近づいてくる。
真剣な眼差しの奥に孕んだ熱は消えそうになかった。
「大丈夫。俺の背中で見えないよ。キスだけ……」
「だ……」
「翔吾? いるの?」
「――!!」
休憩室の扉の向こうで女の人の声がした。
しかも翔吾さんを呼び捨てにする少し鼻にかかるような艶のある甘い声。
慌てて翔吾さんがわたしから離れた。
休憩室の扉が開いたと同時に入ってきたのは秘書課の海原真奈美さんだった。
「ああ、やっぱりここにいたの」
ニッコリ扉口で微笑む海原さんにわたしは軽く頭を下げた。
もちろん翔吾さんに笑いかけていることはわかっていたけど……。
その翔吾さんは自販機からコーヒーを出して、沸きあがった熱を冷ますためのインターバルをとっているように見えた。
「何? 急用?」
意外と素っ気ない態度の翔吾さんにわたしは妙な違和感を覚えた。
休憩室のテーブルの上に置いた書類を翔吾さんが手に取って、わたしに渡す。
「じゃ、これよろしく」
「あ、はい。それでは失礼します」
軽く翔吾さんに頭を下げてから顔を見ると、海原さんに背中を向けていた彼は小さくわたしに微笑んでくれた。わたしは海原さんの方を向いていたので軽くうなずく程度にしておく。
扉と海原さんの間をすり抜けてそのままエレベーターホールへ向かった。
危なかったあ。もし海原さんが声をかけないで扉を開いていたら……。
急に身体がぶるりと震えた。これって武者震いっていうのかな?
だけど、実際のところあのふたりの関係って……大学時代の知り合いってだけじゃないような気がする。
親しげに名前で呼んでるし、翔吾さんだってこの前海原さんがオフィスに来た時に下の名前で呼んでた。
それにあれだけの美人そういない……。
それなのに、なんでわたしなの……?
手の中で翔吾さんにもらった鍵が光る。
本当にこれを渡す相手はわたしでいいの?
だけどうれしくて、手離したくなくて再びぎゅっと手の中にその鍵を囲い込んでしまっていた。
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Thema:オリジナル小説
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