トイレもアンティークな小さな絵の額縁や、かわいい陶器の飾り物が並べられている。
この家に着いて、今一番息をつけた気がした。だけどずっとこうしているわけにはいかない。
少し時間を置いて、静かにダイニングに戻ろうとした。その時――
「なんでわかってくれないんだよ!」
翔吾さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
ダイニングの中はシーンと静まり返っている。
「だって……両親がいない子なんて、雨宮家の嫁として……」
「病気で亡くなっているんだから仕方がないだろう。いい加減にしなさい」
お母さまを諭すようなお父さまの様子が少し苛立っているように思える。
わたしのせいで家族の関係がこじれてしまうような気がした。そんなのは絶対にいやなのに、どうすればいいの?
「それにあの子の父親を奪ったのは他でもない、
望美だろう」
「望美はあの子の父親にたぶらかされたのよ! 喜幸さんに出逢ってなければ今頃……翔吾だってあの子じゃなくても」
「いい加減にしろよ!」
再び翔吾さんの怒鳴り声。扉が閉まっているのにこんなにも鮮明に聞こえるなんて。
望美さんと称されたのがきっと翔吾さんのお姉さんのことなのだろう。
お母さまはふたりの結婚をそう思っていたんだ。
父がこの雨宮家に歓迎されることはないだろうと思ってはいたけど……お母さまの本心を聞いて複雑な気持ちだった。
母とわたしより翔吾さんのお姉さんを選んだ父。その父を受け入れられない新たな家族。
父だってそれを覚悟で翔吾さんのお姉さんを選んだのだろうけど、なぜか胸が苦しくなった。
「本当のことを言うよ」
少しの静寂の後、翔吾さんの低い声がした。
それは苦しそうに発せられているように聞こえて、思わず一瞬だけ呼吸を忘れてしまうくらいだった。
「雪乃は頑なに隠しているから知られたくないことなんだと思うし、一生言わないつもりでいた。だけど、彼女の状況を母さんにはきちんと伝えなきゃいけないと思った。情に訴えかけるようでフェアじゃないし、雪乃も望まないと思って言わなかった。だけど――」
意を決したような翔吾さんが一瞬言葉に詰まった。
本当のこと? わたしが隠していること? 望まないこと? 何を言い出そうとしているの?
トーンダウンした翔吾さんの声は聞き取りにくくなっている。
聞き逃さないよう、ダイニングの扉を少しだけ静かに開けた。
「雪乃のお母さん、あの人が姉貴と再婚した後、自殺したんだ」
目の前が、ぐらりと揺れた感覚がした。
聞き間違いであってほしかった。でも、そうじゃない。
なんでそのことを知っているの? なんで? なんで?
ダイニングを流れる空気が静まり返っている。
翔吾さんのご両親は目を大きく見開いて身動きひとつしていない。彼は容赦なく話し続けた。
「雪乃は大学進学も諦めて、母親とふたりで生きていくと決めていたのに……母親はいきなり彼女の前から消えた。母さんは姉貴のことばかり言うけど、一番辛い思いをして生きてきたのは間違いなく雪乃だ。だからもう、俺は雪乃をひとりにしたくない。それに俺にとってかけがえのない人間なんだ。だから一緒に生きていくって決めたんだ」
ダイニングの扉のノブを掴んでいたわたしの手に自然に力が入ってしまった。
それは小さく音を立てて、響いた。
「――雪乃!?」
ばつの悪そうな顔で翔吾さんがこっちを見ている。
わたしの頭の中は真っ白で、どうしたらいいかわからず意味もなく首を振っていた。
「雪乃」
「なんで、それを知って……」
その疑問が苦しいくらい胸を締めつけて、自然に涙が溢れ出す。
知られたくなかったのに、なんで……どこから……。
もしかして、先週叔母夫婦の家に行った時?
ううん、叔母がそのことを話すはずがない。でもどうして?
「――ああっ」
いきなり大きな嗚咽が聞こえた。
翔吾さんのお母さまが、両手で顔を覆って泣き出している。
「だって! だって……」
「母さん!」
「翔吾さん!」
涙ながらに必死で何かを訴えようとするお母さま。それを制する翔吾さんをわたしが止めた。
気づかないうちにわたしは目の前の彼のワイシャツの袖をぐっと握りしめていた。それに気づいた翔吾さんが悲しげな目でわたしを見ている。
「もう、やめて。こんなに苦しんでいるあなたのお母さまを見ていられない。これ以上悲しませないで」
「雪乃……」
「お願い……わたしはお母さまの気持ち、わかるの」
翔吾さんの横を通り過ぎて、お母さまのそばに近寄る。
この人だって大切な娘を奪われたと思い続けてきたんだ。それはわたしも同じ。だからわかる。
泣き続けるお母さまはなんだかとっても小さく見えて、頼りなく感じた。初めて見た時の気高い雰囲気が見る影もなく、ただ可哀想としか思えなかった。
その小さな背中に手を伸ばしてそっと撫でると、びくりと身体を強張らせ、次の瞬間わたしを鋭い目で凝視した。だけどその瞳は怖くはない。
そして見る見る間にその目が細められて、悲しげに歪んでゆく。
「そんな辛い思いをしていたなんて……」
震える声でそう言われ、わたしは翔吾さんのお母さまに抱き寄せられていた。
その胸の中はとっても暖かくて、優しい花のような香りがした。
母の胸の中もいつも優しい香りがしてた。石鹸のようないい匂い。それを思い出して、わたしの目から涙がどんどん零れ落ちる。お母さまのブラウスを濡らしてしまうんじゃないかってくらい。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
涙が止まらなくて謝り続けるわたしを、翔吾さんのお母さまが首を振ってさらにきつく抱きしめてくれた。
ふわりと柔らかい髪が、わたしの頬をそっとくすぐる。そこからもとってもいいシャンプーの香りがした。
「私こそごめんなさい」
お母さまは何度も謝りながら、わたしの頭を何度も撫でてくれた。
**
それからわたしと翔吾さんのお母さまはすっかり打ち解けた。
夕方になって帰る頃には「泊まっていけばいいのに」と言われるくらいで。何の準備もしていないので、申し訳なくもお断りすると「またいらっしゃい」と何度も言ってくれた。
そして、最後に。
「ウエディングドレス、一緒に選びに行きましょうね」
そう言われて、わたしは再び泣き出してしまった。
「母さん、雪乃をこれ以上泣かさないでくれよ。明日瞼が腫れて大変なことになるだろ?」
「だって! 私だって雪乃ちゃんのドレス姿を見たいのよ! 式の時には何着も着れないでしょう? 試着の時にたくさん楽しまないと。早く孫の顔も見たいし。籍だけでも先に入れてしまえばいいのに」
「……」
わたしと翔吾さんが目を合わせると、お父さまが笑い出した。
「本当に現金な奴だな。おまえは」
「だってそう思わない? 雪乃ちゃんと翔吾の子ならきっとかわいいわよ。早く抱きたいわ。名前の候補もたくさんあげておくから」
「気が早いって」
翔吾さんが眉を下げて本当に楽しそうに笑っている。
そんな中でもお母さまは「だって、だって」と繰り返していた。この「だって」はお母さまの口癖なんだろう。かわいらしいお母さまはこの家のアイドルのように思えてしまった。
わたしの涙は自然に引いて、みんなでしばらく笑いあったのだった。
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Thema:オリジナル小説
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