彼女はいつもひとりだった。
俺が入社した頃は同期の水上さんや他のメンバーと昼食をとっていたのに、いつの間にかひとりになっていた。
だけど彼女は何事もないようにデスクで食事をしたり、時にどこか別のところに消えたりしていた。
デスクで食事をとる時、いつも携帯電話を片手にしている。
何かを見ているようなんだけど、それが何かはわからない。しかも楽しそうに小さく微笑んだり、時に悲しそうな表情になったりもする。
一度席に忘れ物を取りに行くフリをして近づいたことがある。
彼女はさりげなく携帯をデスクに置き、食事をし始めた。
人が近くに行くと警戒して携帯を伏せる。
もしかして、男からのメール?
嫌な予感がした。
もしかしたらつき合っている男がいるのかもしれない。
見た目はとっても地味だけど、彼女の魅力に気づいている男はいるだろう。
俺もその中のひとりだ。
負けたくない……彼女をとられたくない、そう思っていた。
でもすでに男がいるなら勝ち目があるとも思えない。
彼女は俺の視線になんか気づかない。
こうしていつも見つめているのに、彼女が見ているのは仕事と携帯。
こんな切ない思いをするのは初めてのことだった。
これってもしかして初恋? そう思うこともあった。
今まで来るものは拒まずにその時につき合っている人がいなければ普通につき合いを始めていた。
だけど何かが違う、そう感じた時に別れを切り出す。
だったら最初からつき合わなければいいじゃないかとさんざん友人に叱咤された過去がある。
いつだったか……高校三年生くらいの時か?
そいつの好きだった女とは知らずに告白されてつき合ってしまい、結局別れた後にそう告げられた。
結果的にはそいつがその女とつきあい始めたんだから問題はないと思ったけど、俺がその子を傷つけた罪は重いと殴られた。
それから簡単につき合うということをしなくなった。
告白をされても、友達ならってことで了承を得られる子だけは仲良くした。
身体の関係も持った。それだけの関係と言われたらそうなるだろう。それでもいいって子はいるわけで、そういう子とは結構仲良くやってきた気がする。
社会人になる時には関係を終わらせて終焉を迎えた、が。
くっついて入社してきた女がひとりだけいる。
そいつだけはどうしても離れてはくれなかった。
時々うちに来て、ただ泊まって帰る。関係は途切れているのに、だ。
だけど、俺の中で風間雪乃の存在が大きくなっていくにつれ、ただ泊まるだけのその関係も重いものに感じてきていた。
だから、もうここには来ないよう本当の別れを切り出した。
納得しきっていないようにも見えたが、それからは家に来なくなった。
ようやく入社前から告げていた終わりを受け入れてもらえたのだとほっとしたのも事実だった。
部の忘年会。
俺はここぞとばかりに彼女にお酌へ行った。
そのくらいのきっかけしか作れなかった。
彼女を前にすると思ったことが口に出せず、仕事を頼むことしかできない自分が中高生か! って思うくらい情けなかった。
俺に仕事を頼まれると“はい”と小さな声で返事をして俯く彼女。
抱きしめたくなるくらいかわいいと思ったけど、職場でそんなことをしてしまったらセクハラになってしまう。だからなるべく普通を装って接していたんだ。
彼女はお酒を飲めないと断ってきた。
それだけではない、ひとりでいるのにここに来てくれるなというような拒否的な目で見られた気がする。
少し残念な気持ちでその場を去る俺。
本当は彼女と話をしたかったのに。
二次会には行かず、彼女を誘ってふたりで飲みにいけないか。そんなことすら考えていた。
一次会が終わる間際、同僚と共に喫煙スペースへ行く。
そこには先輩が数人すでにたむろしていた。その中に三浦さんの姿もあった。
確か三浦さんも俺と同じでタバコを吸わないはずだが……まあずっと上司に囲まれていて休憩に逃げてきたんだろう。俺もそうだったから気が楽だった。
「雨宮、おまえさっき風間にフラれてたな」
営業第一課の斉木さんに指を差されて笑われた。
斉木さんは彼女と同期のS大卒で少し苦手なタイプ。結構イケメンだと思うのだがねちっこい誘い方をするようで苦手としている人もいるようだ。
どうも俺をライバル視している節がある、と前に三浦さんから聞かされたことがある。
俺が着ているスーツを真似して買ってみたりしているらしい。
社に着てきて“雨宮、おそろいじゃん”的なことを言うとか……どうでもいいけど。
「別にフラれたってわけじゃ……酌を断られただけで。お酒飲めないらしいですね」
「案外おまえ傷ついてるんじゃねーの? あんな地味な女に酌しようなんておまえ変わってるね」
バカにしたような斉木さんの笑いにカチンと来た。
確かに傷ついてないと言ったら嘘になる。でも認めたくなかった。
それに彼女は確かに地味ではあるけど、そんな言い方をしなくてもいいだろうと腹が立った。だけどここで俺が彼女を庇って面白いようにはやし立てられるのは避けたかった。彼女にも迷惑がかかるだろう。
「そんなわけないじゃないですか?」
「なあ。雨宮はなんで風間を構ってるの?」
いきなり斉木さんにされた質問に俺は少し狼狽してしまった。
ここで態度に表したらさらにいいようにネタにされそうだと、嫌な予感しかしない。俺の純粋な気持ちをからかわれるのだけはゴメンだった。
「構ってなんてないですよ?」
「そうか? やたら風間に仕事頼むじゃん」
「風間さんって利用しやすくないですか? 大人しそうで何頼んでも断らなそうだし」
ついその場をつくろうために思ってもいないことを口にしてしまった。
利用しやすいだなんて思っていない。
だけど俺の密かな思いをどうしても斉木さんに知られたくなかった。
この人は人の女を取るのが趣味だという噂がある。
彼女とは同期だし、これ見よがしにちょっかいを出しそうでいやだった。
「なんだ、そんな理由かよ。好きなのか? ってちょっと思っちまったじゃねえかよ」
少し残念そうに斉木さんがぼやく。
俺が彼女を少しでも好きな素振りをしたら絶対に彼女をおとしにかかりそうな気がした。
その読みはあたっていたようだ。弱点を見つけた、とでも思ったのだろうか。甘いな。
その時、斉木さんが自分の髪をガリガリとかき乱し、ボサボサになってしまっていた。
「なに言ってんすか? 髪ボサボサじゃないですか?」
「ああ、本当だ! あはは」
自分のかき乱した髪を手のひらで押さえつけるように斉木さんが整えた。
でも一度ボサボサになったものは戻らない。あまりにも酷い乱れ具合で、喫煙スペースにいた男性陣みんな大笑いしていた。
一次会が終わり、店の外へ出て彼女を探すとすでに姿がなかった。
店の前でたむろしている彼女の同期、水上咲子さんの姿を見つけ、声をかける。
ふわふわの肩より少し長めの茶色い髪が特徴的で、少し化粧が濃いけど見た目は華やかだ。同期でもこんなにも違いが出るものなんだと不本意ながら思ってしまった。
「あの、風間さんは?」
「え? 帰りましたよ。用があるとか言って……」
不思議そうな顔で水上さんが教えてくれた。
彼女、帰っちゃったんだ……喫煙スペースで時間をとりすぎてしまったことを後悔した。
あそこに行かず宴会所で彼女の動向を見ていれば誘えたかもしれないのに。
「雨宮。ちょっと飲みにいかね?」
そう誘ってきたのは三浦さんだった。
俺たちは二次会の誘いをやんわり断って、ふたりで別の場所へ移動した。
「おまえさ、ほんとは風間ちゃん好きだろ?」
「いっ……?」
和食居酒屋のカウンター席に座って生ビールで乾杯した途端、三浦さんにいきなりそう言われた。
思わず変な声を出してしまって誤魔化しきれず横目でおずおずと三浦さんを見るとニンマリと微笑んでいた。
やべー、バレたって気持ちだけがどっと押し寄せてきた。
「見てればわかるよ。おまえが風間ちゃんを見る目、すげー優しいから」
「あ……いや……」
「風間ちゃんは全然気づいてなさそうだけどなあ」
「斉木さんには内緒にしてください! お願いします」
枝豆をつまみながら三浦さんがきょとんとして俺を見つめていた。
ふん、と鼻から大きく息を漏らし、カウンターに向き合うようにして三浦さんが俺から視線を外した。
「そんな口軽くねーよ。ばーか」
……そうだよな。三浦さんに限ってそんなことするわけないよな。
俺は言ってから後悔した。
「たぶん風間ちゃんははっきり言わないと気づかないと思うぞ。他の人から自分に意識向けられているなんて思ってもみないって感じだし」
「はあ……そうっすよね」
「あと利用しやすいとか言うな。いくら誤魔化すためでも風間ちゃんが知ったら悲しむだろうが」
確かにそうだ。俺はあの時の軽口を激しく反省した。
利用なんかしていない。それなのにあの言葉を使った俺……あの中にいた誰かが俺が言ったことを彼女に伝えたらどうしよう。
少しだけ胸の奥が冷えた感じになった。
「まあ、頑張れや。周りは驚くだろうけどさ。あの子がいい子なのわかってるやつは納得すると思うぞ」
「三浦さんも、ですよね?」
「ああ、そうだな。あの子を悲しませるなよ」
くくっと三浦さんが笑う。
やっぱり三浦さんは彼女のいいところをわかっていた。
俺と同じ気持ちでいてくれる人がこんなに身近にいて、すごくうれしかった。
こんなに身近に応援してくれる人がいるなんて、本当に心強かった。
もちろん悲しませたりなんかしない。したくないんだ。
***
年が明けて――――
彼女の長かった髪がばっさりと切られていたのに俺は驚いた。
あの長い髪、きれいだったのに……。
短いのもイメージが変わっていいけど。
「風間さん、あけましておめでとうございます。髪、心機一転っすか?」
俺が声をかけると、彼女はちらりとこっちを見た。
いつものように真っ赤な顔をして俯くのかな? と思ってその様子を伺っていた、のに。
彼女はなにも答えず、すぐに俺から目を逸らした。
新年の挨拶どころか朝の挨拶すらない。
いつも挨拶すれば小さな声で返ってきていたのに。
冷ややかな彼女の目に俺の姿は写っていないかのようにスルーされてしまった。
胸の奥が再びひんやりと冷えて重苦しいくらい……まるで漬物石を思いきりのせられたような感覚を味わっていた。
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