第68話 彼女の切ない想い柊視点
訳が解らないといった表情の悠聖を、俺はじっと見つめていた。
困惑顔のまま首を振り、俺をきつい眼差しで睨みつける。
こんなに感情を露わにする悠聖は本当に珍しい。未来のことになると、感情のコントロールができなくなるのかもしれない。
「未来を騙せと言うのかよ?」
「……そう思われてもしかたがないが、頼む」
ベンチに座り込む悠聖の前に立って、深く頭を下げた。
「兄貴が未来に嫌われたくないから?」
何も言えなかった。
確かにその理由がないとは言えない。
「答えろよ!!」
ぐいっ! とすごい力で悠聖が俺の胸ぐらを掴み上げた。
悠聖は俺よりやや小さいが、それをやりこなせるだけの身長がある。いつの間にこんなに大きくて力強くなったのだろうか。これからもっと大きくなるだろう。その成長がうれしいと思いながらもされるがままになっていた。
だけどずっとこのままでいられるわけがない。
この庭を通って図書館へ向かう人の数は少なくない。今は幸い途絶えているが、もう少し遅くなれば学生も仕事帰りの社会人も通るだろう。
悠聖から目を逸らしてつぶやくような小さな声で答えた。
「そう思ってくれても構わない」
「そんな理由なら……断る」
小さくため息をつくと悠聖が俺から手を離した。
そのまま俺はその場に立ち尽くし、悠聖はベンチに座り込んで再び頭を抱えた。
「本当はそんな理由じゃないんだろ? 兄貴がそんな卑怯な人間じゃないのはわかってる。なんで嘘の片棒を担がせるようなことを頼むのかさっぱりわからないけど、未来のため、なんだろう?」
困ったような泣きそうな表情で目の前に立っている俺を見上げる。
俺はもう一度大きいため息をついた。
「……未来のためといえば聞こえはいいけど、自分のためだ」
「兄貴!」
「俺はおまえが未来に言わないでくれると信じている」
未来が安心して住める場所ができるまでの居場所を確保してやりたい。
それがある今でも、未来を守ることはできなかった。
だけど、今またあの家に帰ったら……同じことの繰り返しになる。そんな思いをこれ以上あの子にさせたくはない。
本当のことなんて言っても何の意味もない。
ここは悠聖の情に訴えかけるしか方法はないと思った。
「あともうひとつ」
「まだあるのかよ……」
あからさまにいやそうな表情を浮かべられる。
悠聖から受け取った白い封筒を自分の顔の高さまで持ち上げて提示した。
「
封筒の存在と俺の実父がここに来たこと、そして未来があいつにされたことすべて、おまえは知らないフリをしてくれ」
悠聖が息を飲み、少しだけ身を引いた。
「待って……兄貴、僕知ってるのに……未来がレイプされたこと知らないフリしてつき合えってこと?」
「――そうだ」
「なんでだよ? その写真のことだって……」
「これは未来のためなんだ!!」
俺の荒げた声に悠聖が少し驚いた表情をした。
未来の思いを守ってやりたかったけど、どうしてもできなかった。だから、未来が望むことをきちんと悠聖に伝える必要がある。そして、この決着を俺の手でつけないといけない。
「未来はあいつにされたことをおまえに知られたくないと言った。俺は口止めされていたから言わないつもりだった。きっと知られたらおまえに嫌われると思ったんだろう」
「……未来が悪いんじゃないのに、嫌うわけないのに。いやがるのを無理にされて……そんなので嫌いになるわけないのに。僕はそんなに信用されていないの?」
「そうじゃないんだ。未来は誰よりも悠聖を信用している。だから嫌われたくない、そう思うのは自然なことだろう。それに――」
悠聖の思考を止める必要があった。
本当のことを伝えないといけない。悠聖にとっては酷なことだ。これ以上傷つけたくない、守りたかった。
もっと早く行動に移しておけばよかった。
一度未来を取り戻した後、俺が連れ去るのをあっさり見送ったから、一度ならず二度までも同じような脅迫で連れ戻そうとするなんて思わなかった。実父の未来への執着心を侮っていた。俺の認識が甘かったんだ。
何もできなかった俺を許すな、許さなくていい。
その代償はきちんと受ける。これ以上好きにはさせない。ここで食い止めてやる。だから、未来の身に起きたこの事実だけは受け止めてやってほしい。
そう思いながら、覚悟を決めて口を開いた。
「未来は犯されることを知っていて……家に戻っ」
「――――バカ言うな!!」
俺の話の途中で、悠聖の怒声に遮られた。
急に立ち上がり、俺の顔に近づいた悠聖の目は真っ赤になっている。
「そんなバカな真似するかよ? 未来が自ら犯されに行ったとでも言うのか?」
「……そうだ」
「何のために?」
「俺のためだ」
少しの間、沈黙があった。
それを破ったのは……俺。
「この封筒の中の手紙に書いてあっただろう? 兄は約束だから勘弁してやるって」
悠聖の身体が震え始める。
この手紙を見た時、そして写真を見た時もこんな感じだったのだろう。
「未来は、俺の実父に……身を委ねければ俺に直接手出しするって脅されていたんだ」
胸も胃が痛かった。
目を背けたい事実を自分の身体が拒絶している。胃液がすべてあがってきそうだった。
「それじゃ……未来は、兄貴を守るため……?」
「――――そうだ」
悲しい事実だった。
俺だってまだ完全にその事実を受け入れられているわけではない。だけどそうしてくれた未来のためにも目を背けることだけはしたくない。
自分の恋人が他の男のために、ましてや自分の兄のために犠牲になったと知った悠聖の気持ちは計り知れない。
だけど、まだ続きがある。
「今回のターゲットは未来の初体験の相手」
「――――僕だ」
……やっぱり。初体験の相手は悠聖だった。
バージンだと言っていた未来の相手。高一同士がする行為としては早い気もするが、恋人の悠聖であることは自然だろう。ほぼ確信はしていたが、なぜか胸がちくりと痛んだ。
「あいつは未来の初めてを自分のものにしたがっていた。だからその相手が憎くてたまらない。もちろんそのことは未来も知っているはず」
「……じゃあ」
悠聖の目が鋭くなる。俺も目を逸らさずに悠聖にうなずきかけた。
「この手紙が未来の手に渡っていたら……おまえを守るために未来はあいつの元へ行くはずだ」
「――くそっ!!」
悠聖がベンチに座ったまま地団駄を踏むように両足を動かした。
この手紙が未来の手に渡らなくて本当によかったと思う。だけど悠聖の手に渡ることも本意ではなかった。
このままにしておけば、実父はさらに未来の弱点を突いてくるはずだ。
再び悠聖に接触するかもしれない。もうそんなことはさせない。
「あいつがこの手紙をおまえに渡したのは挑発するためだろう。すでに未来は一度自分の手中に収めているというアピール」
「……っ!!」
悠聖が舌打ちをした時、横に人の気配を感じた。
図書館へ向かう女子高生らしきふたり組がちらっとこっちの様子を伺いながら通り過ぎてゆく。見覚えのないセーラー服は聖稜の生徒でも、横溝の生徒でもない。
結構長いことここで話をしていたようで、空が茜色に変化してきていた。
ポケットから家の鍵を出して悠聖に向けると、何の疑問も抱かず手のひらを差し出してきた。
「悠聖、今日未来の迎えを頼む。俺が帰るまで家にいてくれ。未来を絶対にひとりにするな。あとはすべて知らないフリを……」
悠聖が真剣な顔でうなずく。
「あと、未来のいやがることは……」
「わかってる!! 僕だって未来がいやがることなんかしたくないんだ」
今まで吹いていた風が凪いだような気がした。
その時の悠聖の顔は悲しそうでとっても悔しそうだった。この前未来が熱を出した時の行動を今でも反省しているんだろう。悪気が無かったのはわかっている。
あの時の悠聖は未来が辛い思いをした直後だったことを知らなかった。今初めてその時の状況を聞かされて自分がしたことを心から悔いているはずだ。
「頼んだぞ」
「兄貴、どこか行くのか?」
俺は図書館にある夾竹桃の木を見つめていた。
白い花びらが大きく咲いていてそれだけで涙が出そうだった。花が咲いているだけなのに、こんな当たり前のことに胸を打たれる。
「兄貴?」
悠聖の目は真っ赤だった。
「……ああ。ちょっと中を見てから行く。未来を頼むぞ」
鞄を持って、図書館の方に向かって歩き出す。
あの中に未来がいるという思いだけが俺の足を前へ動かしていた。その思いすらなかったら、この場で泣き崩れていたかもしれない。
そんな情けない姿を弟には絶対に見せたくないと思った。
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