ようやく俺のものになった。
ずっとずっと狙っていた子。
風間雪乃。年は俺の一つ下。口癖は『結構です』
入社した時はいろんなことを抜きにしたら、ただの一個下の女性社員くらいにしか思っていなかった。
見た目は地味だし、大学で接していた女性陣とは全く違うタイプだった。
もちろん、社にいる他の女性社員とも……。
営業部へ配属され、まずデスクを受け渡された。
まわりを見渡すと華やかな女性社員に囲まれている、と思いきや……左隣はその地味な彼女だった。
彼女はいつも真面目に仕事をこなしている。
自分の仕事が忙しくても頼まれれば絶対にそっちを優先させていたし、いやな顔一つせず取り掛かる。
男慣れしていないようで、声をかけると真っ赤になって俯いて頷くしか反応を見せない。
髪にコンプレックスを持っているのか、よく右のつむじの辺りをいじっているのを見かける。
その後必ず毛先を見つめて大きなため息をつくのだ。
今時珍しいタイプの女の子だなと思っていた。
「風間さん、十五時に第三会議室に緑茶を十個頼める? いきなりクライアントさん来るって言うからさー」
デスクの上のパソコンで入力作業をしていた彼女ははっと顔を上げて立ち上がった。
すでに時間は十四時四十五分になっていた。彼女は慌てて給湯室に向かう。
「雨宮。今、手が空いてるなら風間さんの手伝い頼むよ。お茶運んでやって」
俺の指導者の三浦さんにそう言われ、給湯室へ走る。
三浦さんは俺の二期上の二十四歳、同じK大卒で仕事をバリバリこなすエリート営業マン。
出身大学が一緒だからか俺の指導員としてあたってくれている。
仕事ができる上に話が面白く、男前で性別問わず人が寄って来る。
三浦さんは女性社員は苦手だと言っているが、普通に話しているように思える。
最も信頼している先輩で、その三浦さんに言われたことは絶対だ。
彼女は湯飲みを温めながらお湯を沸かしていた。
なぜかニコニコ微笑みながら、お茶筒の蓋に茶葉を移している。
もしかして三浦さんのことが好きなのか? と思った。
こんなに嬉しそうに微笑む彼女を初めて見て、ふとそんなことを思ってしまったのだ。
好きな人に仕事を頼まれたから?
彼女が手際よくお茶を淹れるのをじっと見つめていた。
まるで愛しい人に淹れているかのような振る舞いだった。
いつもと違う、人にはあまり見せないであろう彼女の優しい笑顔になぜか俺は少しだけドキドキしていた。
お盆にお茶をのせ、運ぼうとする彼女が俺の存在に気づいて大きく息を吸い込んだ。
まさかこんな近くで人に見られているとは思わなかったのか酷く狼狽していた。
「あ、驚かしてすんません。三浦さんに手伝うよう言われたんで……」
「あ、そうでしたか。じゃこれお願いできますか?」
やっぱり彼女は俯いたまま俺に持っていたお盆を手渡した。
もう、お茶を淹れた時の笑顔はすっかり消えていた。笑っていたほうがかわいいのに……。
お盆の上にのせられたお茶はどれもいい色でおいしそうだなって思った。
その後、何度も彼女がお茶汲みをするのを見かけた。
だが、誰に頼まれようと彼女はお茶を淹れる時ニコニコしている。
別に三浦さんから頼まれたからじゃなくいつでもお茶を淹れる時に微笑んでいる子なのか? と思ったらおかしかった。
***
俺も営業に回るようになり、そこそこ仕事を取れるようになっていた。
社内にクライアントを招いて会議をすることも少しずつ増えてくる。
指導者の三浦さんに『会議のセッティングは一存する』と任されるようになった。
「お茶はさ、いろんな女子社員に頼んでみろ。自分の好きな味を出す子に頼むのがいいぞ」
会議の準備に関して三浦さんが指示を出したのはそれだけだった。
あとは俺の好きなようにやっていい、と。
基本外部との会議で出すお茶は俺ら営業の口には入らない。ちゃんと準備をしてもらってはいるのだが、飲んでいる暇がないのだ。
三浦さんは彼女のお茶が好きだからいつも頼むのか……。
でも実際いろんな人にお茶を淹れてもらっても飲む暇ないしな。
だけど三浦さんがそれだけ言うんだからやっぱり飲み比べした方がいいんだろう。
そう思って頼んだ人が給湯室に行った後、追いかけて少しだけ試飲させてもらうことにした。会議前に飲む分には構わないだろう。
最初は彼女に頼もうと思っていた。
でも、彼女はその日とっても忙しそうで悪い気がして他の人に頼んだ。
それから何度も会議の場があり、その都度別の女性社員にお茶を頼んだ。
だけど違いがよくわからなかった。正直、前回の人より薄いような、濃いようなくらいの区別しかつかない。
少しずつ仕事にも慣れ、入社して約半年後に時々ならひとりで営業をまわることを許された。
ようやく一人前として認められたのかな? と俺は少し舞い上がっていたのかもしれない。
そんな時、俺はミスを冒した。
別の取引先に他社の企画案を提出してしまったのだ。
完全な俺のミスだった。
三浦さんと共に謝罪に向かい、どちらの会社にも頭を下げた。
三浦さんはそんなに怒っていなかったが、怒られた方がよかったとさえ思えた。
呆れられたのかもしれない。だから何も言ってくれないのか? そう思ったら悲しくなる。
俺はまだまだだということを思い知らされ、肩を落として社へ戻った。
「風間ちゃん、お茶お願いできる? 第一会議室に二個」
帰った途端、三浦さんが彼女に声をかけた。
これから三浦さんは部長と話し合いだと言って俺の背中を一度叩いて去って行く。
その三浦さんの背中を見送りながら深々頭を下げた。今の俺にはそのくらいしかできなかった。
俺は無意識に扉口を封鎖していたようで、彼女が後ろでオフィスから出られずオロオロしているのに気づいた。
「あ……すんません」
軽く頭を下げると、彼女は自分の胸元で手を大きく振り“いいえ”と言った。
そして俺の横を通り過ぎて給湯室へ向かう。
せめて……部長と三浦さんの話し合いのお茶出しをさせてもらえないか。
彼女に頼むと了解してくれた。
彼女が淹れたお茶を第一会議室に運ぶ。
中にいた部長と三浦さんは少し驚いた表情で俺を見た。
だけど会議室を後にする時に一礼するとふたりとも柔和な目で俺を見ていたのに気づいた。
お盆を持って給湯室に戻ると、彼女が洗い物をしていた。
長い髪をバレッタで一つにまとめ、頼りなさそうな背中が小さく揺れている。
この人の髪、随分茶色いんだな……地毛かな? とふと疑問に思った。
「風間さん、お茶出させてくれてありがとうございました」
急に声をかけられたからか彼女は少しビックリしたように身体を強張らせた。
こっちを振り返っておずおずとお盆を俺から受け取る。
もっと堂々とすればいいのにって思ったけど、これが彼女なんだよな……。
「あの……お茶、ひとつ多く淹れちゃったのでよかったらどうぞ」
給湯室の小さなテーブルの上に湯飲みが置いてあり、その中から湯気が立っていた。
「あ、じゃいただきます」
「飲み終わったら置いておいてください。後で洗いに来ますから」
そう言い残して彼女は給湯室を逃げるように足早に出て行った。
その時、ふわっと石鹸のような香りがした。
彼女の淹れてくれたお茶を飲んで、ビックリした。
他の女性社員が淹れてくれたものと香りが違う。そしてコクがあるように感じた。
旨みも渋みも甘みも苦味も含まれているようなふんわりとした優しい味がする。
暖かい湯飲み。それだけで心が穏やかになる気がした。
三浦さんが言っていたのは、このことだったのか。
俺はその日からできる限り彼女にお茶汲みを頼むようにした。
彼女は快く引き受けてくれ、頼みやすかった。
「雨宮くん、このお茶おいしいね。さっきの子が淹れたの? これからも彼女で頼むよ」
彼女のお茶を会議で出すようになったら商談もうまくいき始めた。
そしてお茶も彼女のご指名が入るようになってた。
まるで自分が褒められたかのような気持ちと、彼女を褒められてうれしい気持ちが入り交じったような満足感でいっぱいになる。
それから、俺は彼女にしか仕事のフォローを頼まなくなった。
お茶汲み、コピー取り、資料の作成、ファイリングなどたぶん周りから見たら雑用係として扱っていると思われただろう。
俺は彼女の仕事ぶりが好きだった。
彼女は思っていたよりも不器用だった。
だけどいつでも一生懸命。その姿がまぶしいくらいだった。
俺のミスから数日後のことだったと思う。
仕事ではないけどスーツのボタンが取れかけて、つけるのを頼んだ。
普通だったら四つの穴に縦なら縦、横なら横に糸を通すところを彼女はなぜかクロスさせていた。
バツ印のようにつけられたボタンがおかしくて隠れて笑ったのを覚えている。
「あ……んまり上手についてないから、あとでつけ直してもらってください」
彼女はそう言った。
確かに言われたとおりあんまり上手じゃない。
でもなんとなくそれをとって新たにつけ直してもらおうとは思えなかった。
左手の指先についている絆創膏、きっとこのボタンをつける時に刺してしまったんだろう。
そう思ったらこのボタンすら愛しくて、ありがたかった。
このボタンを握りしめて、頑張ろうって思えた。
この時から、俺は彼女に惹かれていたんだ。
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