第58話 揺れる気持ち未来視点
悠聖くんから連絡が来ていたのは、二十時過ぎのことだった。
義父に身体を弄ばれている間、わたしの右手の中ではずっと携帯が震えていた。
そのおかげで携帯の方に意識が集中できていた。かろうじて耐えられたのだと思う。
『バイト終わった? お疲れ様。明日仕事の前に少しだけデートしよう』
その一時間後の二十一時過ぎにもうひとつメールが来ている。
『寝ているのかな? 未来。逢いたい』
悠聖くんの優しさに、止まったはずの涙がまた溢れ出してきた。
やっぱりわたしは穢れた人間になってしまった。
どうしてもお兄ちゃんを守りたかった、そして瑞穂さんに元気になってほしかった。結果的にはなにも守れなかったのかもしれない。だけどのことは悠聖くんには言えない、知られたくない。
それでもわたしを好きでいてくれるの?
『ありがとう、悠聖くん。わたしもあなたに逢いたい』
そう打って、すぐに消去した。
逢いたいなんてわたしに言う資格なんかない。なんて送信していいのかわからない。
それに、本当に逢いたいのか今はわからない。
こんなわたしを好きでいてもらえる資格なんかない。
本当のことを知られたら、どんな目で見られるのか不安しかない。
**
リビングに戻ったら修哉さんの姿はなく、お兄ちゃんがひとりでソファに座っていた。
修哉さん、帰ったんだ。さっき、修哉さんにひと言だけ伝えることができてよかった。
『ごめんなさい。わたしの居場所はここしかないみたいです』
それに対して修哉さんも。
『そうだね、未来ちゃんがいないと柊がダメになる。オレが間違っていた。謝って済む問題じゃないけど、ごめん』
修哉さんは、わたしがここにいることを許してくれた。
お兄ちゃんはリビングの入口に背中を向けて、額に手を当てている。
その背中がすごく辛そうに見えた、このままひとりにしておいた方がいいのかもしれない。わたしには何もできないから。
時計を見ると二十三時を回っていた。
そのままリビングを後にしようとした、時。
「未来……ごめん、俺のせいでっ――」
つぶやくようにかすれた声でお兄ちゃんがわたしの名を呼んで詫びた。
小刻みに身体を震わせ、崩れるようにその姿がソファの背もたれにうずもれてゆく。
――泣いているの?
その悲痛な姿を見ているのが辛かった。
わたしのために泣くの? わたしはお兄ちゃんを悲しませてしまったの?
そっとお兄ちゃんの真後ろに立つ。
はやる気持ちを抑え、深呼吸をしてからゆっくりとお兄ちゃんの首元に抱きついた。
「未来……いたのか?」
こっち振り返らないで、手のひらで頬を覆うような仕草をした。
見えないようさりげなく振舞ったつもりなんだろうけど、慌てて涙を拭ったのはわかっちゃうよ。それに、鼻声で少し震えている。
思い余って、わたしは後ろからお兄ちゃんの右頬にそっとキスをした。
「……みら……い?」
前を向いたままのお兄ちゃんの横顔をじっと見つめる。
濡れた目元や長いまつ毛がキラキラ光っていて、同じように唇も濡れて光っている。その唇を見て、思ってしまった。
触れたいって。
わたしは片手に持ったままの携帯電話で、お兄ちゃんの首元に抱きついたままその目の前で文章を打った。
『お兄ちゃんはそのままでいて』
自分の顔の前で変換しながら文字が表示される画面を、お兄ちゃんはじっと見つめている。
わたしはそのまま打ち続けた。
『お兄ちゃんはそのままでいて。振り返らないで』
お兄ちゃんが小さくうなずいた。
これで終わりにしようかと思った、けど、わたしの手は止まらなかった。
『お兄ちゃんはそのままでいて。振り返らないで。もし振り返ったら、わたし』
そこまで打った後、お兄ちゃんがわたしの携帯電話の画面を左手で覆った。
「未来、明日兄ちゃんとデートしないか?」
わたしの希望通り、前を向いたままお兄ちゃんがいきなりそう言った。
お兄ちゃんとデート?
「夜、どこか行こう」
自分の首元に回されているわたしの両手を、お兄ちゃんがポンポンと軽く二回叩く。
たぶん離しなさいって言っているんだと思った。ゆっくりその手を離して身体も離れた。わたしが離れたのを確認して、お兄ちゃんがこっちを振り返った。目許は赤いけど、笑顔だった。
「どこに行きたい?」と、聞かれたけどいきなりすぎてなにも思い浮かばない。
しばらく考えてから、思いついた場所を携帯に打ち込んでお兄ちゃんに見せた。
『うちのそばにあるお母さんと待ち合わせした土手。夜、星が綺麗なの』
「そこでいいの? 未来の家の傍行くの、大丈夫なの?」
『お兄ちゃんがいれば』と唇を動かすと、「そっか、じゃあそこに行こう」と了承してもらえた。
あの土手の星は本当に綺麗だから、お兄ちゃんに見せてあげたいって思った。
**
お兄ちゃんがお風呂に入っている間、考えていた。
わたしどうしたんだろう、お兄ちゃんにあんなこと。あのままお兄ちゃんがわたしの携帯の動きを止めていなかったらって思ったら、少しだけ怖かった。
携帯電話の画面を見ると、さっきの文章が残っている。
『お兄ちゃんはそのままでいて。振り返らないで。もし振り返ったら、わたし』
ここで止まった文章。
その続きを、打ち込みたかった文章を打った。
『お兄ちゃんはそのままでいて。振り返らないで。もし振り返ったら、わたしその唇にキスしてしまう』
ギュッと目を閉じた。なんでこんな気持ちになるのかわからない。
あの時のお兄ちゃんの唇に、自分の唇を寄せたいと思ってしまったのは事実だった。
わたしが好きなのは、悠聖くんなのに。
それに、そんなことされたらお兄ちゃんだって困るはず。一緒に暮らせなくなるかもしれない。
その文章を消去して、ソファの背にもたれかかって深いため息をついた。
悠聖くんに返信しないと。
あれから何回も文章を打っては消し、打っては消しを繰り返したけど結局送れなくて。
『ありがとう、悠聖くん』
それだけしか打てなかった。
そのまま送信すると、胸の奥がチクチクと針で刺されているかのように痛んだ。
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