第56話 わたしの居場所未来視点
――初めてじゃないのか? なんとか言え! この淫乱がっ!!――
うなずいて肯定すると、何回も頬を叩かれた。口の中に生暖かい血液の味が広がってゆく。
『相手は柊なのか?』と、何度も聞かれた。わたしは絶対にその人の名を言わなかった。それがまた義父の逆鱗に触れたらしい。再び何度も叩かれた。
あまりの衝撃に頭が朦朧とした頃、再び義父がわたしの中に――
**
目を開けると、暗い中でお兄ちゃんが号泣していた。
その涙がわたしの頬を濡らす。
わたしをしっかり抱きしめて謝り続けるお兄ちゃんの声。何度もわたしの名前を呼ぶ。意識が遠のく中、小さくだけど聞こえていた。
低くて深くて明瞭な、ゆったりした声。
まるで子守唄を聴いてるみたいだった。
お兄ちゃんの声、好き。
あの声が……欲しい。
「――!!」
再び気づいた時にはお兄ちゃんの部屋だった。
いつものベッドに寝かされている。どうやってここまで戻ってきたんだろうか。
ゆっくりベッドから起き上がって立つと下半身が少し痛かった。頭もぼんやりしている。
ブラウスのボタンがなくなっていて、そのままだと開いてしまう。着ていたブレザーの前をしっかり押さえると手が震えた。上から押さえるけど、その手も震えてしまう。
そうだ、わたしはさっき、義父に――
ここにいちゃいけないのに、なんでここに戻ってきてしまったんだろう。
ふらつく足取りで歩み、部屋の扉を開く。暗い廊下にリビングのドアから明かりが差し込んでいた。
あっちにきっとお兄ちゃんがいるんだろう。静かに扉を閉めて玄関に向かう。男物の靴が二足あったけどわたしのものは見当たらなかった。どうやって戻ってきたのかわからないから靴もどうなったかわからない。
……しょうがない。
靴下のまま玄関に立って、リビングに向かい一礼した。
“お兄ちゃん、ありがとう……ごめんね”
唇で言っても伝わるわけないけど、これだけは言っておきたかった。
内鍵に手をかけてゆっくり回す。音が出ないようなるべくそっと回したつもりだったのに、思ったより大きな音が出てしまってビックリした。気づかれたらまずい。
ゆっくりリビングの方を振り返る。逆光で顔が見えなかったけど、誰かがこっちを向いて立っていた。
「――待て! 未来!!」
やっぱりお兄ちゃんだった。
ドアノブを回し、勢いよく扉を開けて飛び出すつもりだったのに、非情にもドアガードがかかっていた。
焦るあまり震える手でドアガードをはずそうとしたけど間に合わず、すでに真後ろにお兄ちゃんがいた。後ろからわたしの右手首と左肩を強い力で掴む。
「どこへ行く?」
わたしの手を掴むお兄ちゃんの手が震えている。
それと共にわたしの手も震えた。ドアガードがカタカタと音を立てているのが煩く感じて、そこから手を離す。わたしの手首を掴むお兄ちゃんの力がさらに強まった気がした。
「どこへ行くつもりなんだ? 未来。靴も履かずに……こっちにおいで」
お兄ちゃんがわたしを自分のほうに引き寄せる。
手を振り解こうと暴れてみるけど、お兄ちゃんの力の方が断然強い。後ろから腰を抱えられ、それでも駄々っ子のように暴れ続けると力ずくで押さえつけられてしまっていた。
「こっちへ来い!」
その頃には命令口調に変化していたけど、怖くなんかなかった。
全力で抵抗するもお兄ちゃんの部屋に引きずり込まれてしまい、そのままベッドに放り投げられる。身体がマットレスに沈むのを感じただけで痛みはなかったけど、目の前で部屋の扉が閉められ、視界が一瞬にして真っ暗になった。
わたしはひとりお兄ちゃんの寝室に閉じ込められてしまったのだ。
飛び起きてドアノブを回したのに開かない。ガチャガチャ空音をたてて回るだけだ。扉を思いきり叩くけどビクともしない。
“開けて! お兄ちゃん!!”
唇で訴えても伝わるわけない。
なんでわたしはしゃべれないんだろう。それが今ほど悔しいと思ったことはなかったかもしれない。
ポケットから携帯電話を取り出し、メールを打ち込んで送信した。
『開けて! こんなの拉致? 監禁じゃない! 訴えてやる!
女子高生監禁で高校教師逮捕って有名になるんだから! 開けやがれ! バカ兄!』
扉に耳を押し当てて、向こうの様子を伺う。
すると、わたしからのメールを見たであろうお兄ちゃんが扉の向こうで「ぷっ」とふき出した。
「上等じゃねぇか! 訴えてみろ! 警察も法律も怖くないわ! 死刑にだってなってやる!」
扉越しにお兄ちゃんの怒鳴り声がして、驚きのあまり扉を叩くのを忘れてしまっていた。
死刑って、何を言ってるのだろうか? 話が飛びすぎな気がする。
「未来が幸せになったのを確認したら、いつでもなってやる。行く場所が見つかった時はいつでも見送る。でも今はダメだ」
お兄ちゃんの苦しそうな、絞り出すような声。
ドアを叩き続けると、さらにその悲痛な声は続いた。
「俺が安心して送り出せる場所を見つけるんだ。その時は止めないから自分の足で出て行けばいい。それまで俺の傍に……」
わたしが行く場所を見つけて自分の足で?
行く場所を見つけるまで、それまでわたしはここにいていいの?
もう一度扉を叩いた。
ノブを回して体重をかけて押しても扉はピクリともしない。
『わたしがいると、みんなが辛い思いをする』
メールを打ってそう送信すると、扉の向こうからカタリと音が聞こえた。
「しない! 未来がいないと俺が辛い!」
わたしがいないと、お兄ちゃんが辛い?
お兄ちゃんは、わたしを必要としてくれているの?
躊躇いながら『開けて、お願い』とメールを送信する。
「嫌だ!」と大声でお兄ちゃんが即答した。違うのに。そうじゃないのに。
もう一度もどかしい気持ちを抑えながら、メールを打つ。
『お兄ちゃん、お願い。開けて未来を抱きしめて』
メールを受信したはずのお兄ちゃんの反応がなくなった。
扉の向こう側でカタッと物音が聞こえ、すぐにドアノブが回った。扉がゆっくり開いて、暗いこの部屋に廊下の明かりが差し込んできた。
――眩しかった。
目が痛いくらいで、一瞬目を瞑る程、瞼を細めた。
ドアが開く瞬間も、お兄ちゃんの姿も何もかも。わたしの視界に入るものすべてが輝いて見えた。
眉を下げて、哀しげに微笑むお兄ちゃんがわたしに手のひらを差し出した。
“お兄ちゃん!!”
両手を広げて近づくと、背の高いお兄ちゃんが少し身を屈めた。
その首元に飛びつくように抱きつくと、お兄ちゃんのゴツゴツした大きい手がわたしをしっかりと包んで頭を撫でてくれた。その手がすごく優しくて、もう枯れたんじゃないかと思うくらい流し続けた涙が再び溢れ出す。
“お兄ちゃん! お兄ちゃん!”
視界に入っていないから伝わっていないのはわかっている。
でもお兄ちゃんを呼ばずに、叫ばずにはいられなかった。
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Thema:オリジナル小説
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