第55話 本当の兄妹柊視点
修哉の「運転を代わる」という申し出に、素直にうなずいた。
後部座席のドアを開けてもらい、未来を抱えたまま自分も乗り込む。
座席に下ろさずに、抱いたまま腰を落ち着ける。この重みが尊く感じた。ここに未来がいる、もう手離したくないと思った。この子を救えなかったくせに――
抱き込んでいる未来の胸の辺りで、携帯電話のバイブレーターの振動が伝わってきた。
そっとタオルケットをずらしてみると未来の右手にしっかり携帯電話が握られている。それを手から取ると、携帯の形に手のひらが内出血し、腫れ上がっていた。よっぽど強く握りしめていたのがわかる。
そうすることで、与えられている苦痛を逃そうとしていたのかもしれない。
そう考えたら、たまらなく胸が痛んだ。大声で叫びたくなるほど。ひとりだったら叫びだしていたかもしれない。
確認すると悠聖からのメールだった。
それを見ないようにキー操作をしてみると、俺の携帯電話からの着信履歴がたくさん表示された。
さらにキー操作をすると――
『わたしはどうなってもいい。お願いだからお兄ちゃんを苦しめないで』
なんだ、この文章は。
もしかして未来は実父に脅迫されていた?
申し訳ないと思いつつ受信メールを見てみると実父からのものがあった。
しかも、今日の、ほんの数時間前に受信している。
未来が自宅に戻らなければ、兄の俺に直接手を下すといったニュアンスの内容――
俺のせいだ。
俺があいつに……実父に、未来がうちにいると教えなければこんなふうに呼び出されることも、それに応じる必要もなかったのに。しかも俺が未来を実の妹だと勘違いしていたことを利用しやがった。
わざわざ『兄』と表記することで、未来の気持ちをわざと強く揺さぶったんだ。俺の勘違いを逆手にとって。
それよりなにより、俺が今日時間通りに図書館前に着いていればこんなことには……。
この文章は未来の心からの叫びだったに違いない。これを実父に見せて、俺を守ったんだ。
胸元の無数のあざがむごたらしい。見えないようタオルケットを元に戻して、未来を抱きしめた。
その顔が俺の胸にもたれかかる。こんな時でもキレイな未来に気が狂いそうになった。
「なんで……俺なんかのことより、自分を大切にしろって……」
修哉がミラー越しに俺を見ているのがわかる。
それでも俺は構わずに泣いた。もう耐えられなかった。
「未来……ごめんな……俺のせいでこんな……」
俺の涙が未来の頬に落ちる。
悔しくて悲しくてどうしようもなかった。頭がおかしくなりそうだった。再び涙が一滴落ちた時、ゆっくりその瞳が開いた。
「未来!!」
“お・に・い、ちゃ……”
うつろな目で俺を呼ぶ未来の顔が、涙で歪んでよく見えなかった。
こんな時でも俺を『お兄ちゃん』と呼んでくれる。それが申し訳なくて、俺は嗚咽を漏らしてしまっていた。
“ご・め・ん・ね”
ゆっくり未来の唇がそう動く。
その表情が、一瞬力なく微笑んだように見えた。そのまま再び瞼がゆっくり閉じていく。
「なんで謝る……未来……」
未来の閉じた瞳から涙が流れ落ちた。
その涙を拭うと暖かかったけど、すぐに冷たくなってしまう。
――情けない。たった十五歳の少女に守られるなんて。
**
マンション到着後、すぐに俺の寝室に未来を運んだ。
ベッドに寝かせると未来が悲しそうな表情のまま、ゆっくり唇を動かす。
“わたし、汚い……お兄ちゃんのベッド……穢れちゃう”
「バカ……未来は汚くなんかない。穢れるなんて言うな」
頭を撫でると未来は気持ちよさそうに目を閉じた。
頬の丸みを手で包み、瞼の下を親指を這わせてそっと拭う。涙はあとからあとから流れ出す。それでも俺はずっとそれを拭い続けた。キリがないのかもしれないけど、そうしたかった。
穢れるだなんて言わないでくれ。
俺の方がよっぽど穢れている。あんなゴミみたいな父親の血が流れているんだから。
血だけじゃない。あの男の遺伝子が俺の中にある。おぞましい。
同じ血が流れていると思うだけで吐き気がする。唾棄したいくらい。俺が死んで未来に償えるのであれば、今すぐにでもこんな命は捨ててやる。だけど、未来の傷は消えはしない。むしろさらに深い傷を与えることになりかねない。
守ってやるって約束も果たせず、実父に脅迫されているのも知らずに傷つけ、苦しめている。みんなみんな俺のせい。俺が未来を苦しめた。
それなのに、一番苦しいはずの未来に守られて俺は逃げるのか? そんなこと許されるはずがない。
未来は実父によって穢された。でも未来は穢れてなんかいない。
『穢された』と『穢れた』は違う。絶対違う。イコールのわけがない。
未来の傷を一緒に背負っていきたい。いや、そうしないといけないんだ。
納得するまでいくらでも言い続ける。穢れてなんかいないんだって。それでも穢れているというのならそれでもいい。そのままの未来を俺が全部受け止める。そのくらいの揺るぎない覚悟が必要なんだ。
そっと未来の前髪をかき上げて、額に口づけをした。
未来は瞳を閉じたままだった。
「悪かったな、修哉」
ベッドから離れて、寝室の扉の前にいた修哉に頭を下げる。
ずっとそこに立っていたのだろうか。物音すらしなかった。
ひとつだけ質問させてほしい、と修哉が尋ねてきた。
ここまで何も聞かれなかったのが奇跡だろう。一度だけうなずくと、それ以上は何も聞かないし、口出しもしない。できる立場じゃないからと前置きした。
「あの男は、おまえの……」
口ごもった発言はそこまでで止まる。
修哉が言わんとすることがすぐにわかったので、「ああ」と一言だけ返した。
「オレのせいだ。未来ちゃんが……オレ、取り返しのつかないこと、しちまった……あんなこと言わなければ、あの子は――」
修哉の身体が震えている。
今にも泣き出してしまいそうな表情で俯き、喉の奥の方から嗚咽を漏らす。
「おまえのせいじゃない。俺が時間通りに迎えに行かなかったのが悪い」
――それに、修哉の言うことにちゃんと耳を傾けておけばよかった。
未来だって瑞穂を気にかけていた。それなのに、俺はふたりの言うことを蔑ろにして、ひとりで未来を守っているつもりになっていた。ただの間違いだった。
「柊……」
「修哉、おまえに話がある」
未来を寝室にひとりにするのは気が引けたが、修哉とリビングで話すことにした。
お茶を淹れる気にもならなかったので缶コーヒーを出し、ソファで向かい合わせに座る。
「これを見てくれ」
修哉の前に、未来の母親から受け取った写真を出した。
その写真を見た途端、疲れ果てたようだった修哉の顔が驚愕に変わる。
「これ、親父とオレだ。なんでおまえがこの写真を……?」
「裏を見ろ」
促されるまま、修哉が写真を裏返しにしてそれを見た。
俺の顔を修哉が震えた眼差しで見ている。ため息をついてゆっくりうなずくと、修哉の顔がみるみる強張っていった。
「おまえが未来の本当の兄貴だったんだよ……修哉」
「嘘だろ? だってあのチビが、あんな……それにあの子……しゃべれたはずだ」
修哉の言葉に俺達は息を飲んで目を見合わせた。
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Thema:オリジナル小説
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