第46話 頭から離れない彼女悠聖視点
未来の寝顔をずっと見つめていた。どのくらいこうしていたかわからないくらい。
気持ちよさそうに眠る彼女は、人形のようにかわいかった。
とても今まで受けてきた苦労なんか感じさせない、穏やかな寝顔に自然に笑みがこぼれてしまう。
そして、痛みのために流し続けた涙のせいで頬が真っ赤になっている。そこにそっと触れると少し熱を持っているようだった。それでも彼女は目を醒ます様子はなかった。
だけど耳に触れると少しだけ表情を変える。耳が弱いんだろう。唇を寄せただけで震え上がる彼女を思い出したら、再び愛しさがこみ上げてきた。
そろそろ兄貴が帰ってくるかもしれない。
本当はずっとこうしていたい。だけどそうもいかない。こんな姿を兄貴に見られるのはまずいと思うから。
この部屋に彼女をひとり置いていくのは忍びなかったが、静かに制服に着替えた。眠り続ける彼女の額に軽く口づけをして、先に部屋を出た。
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リビングのさっきの席に座ってひとりで勉強を始めるが、全く頭に入っていかなかった。
未来のしなやかですべすべで柔らかい身体を考えないようにしても思い出してしまう。
僕の首筋にしっかり抱きついて、切なそうに吐息を漏らす未来が愛しくてしょうがなかった。今でもこの胸に抱いたことが信じられない。僕の大切な恋人。
「あーもう!」
シャープペンシルでノートをぐちゃぐちゃと書き乱す。まるで自分の心の中のようだった。
時計を見ると二十一時半をまわっている。兄貴が帰ってきたら家に帰ろうと思っていた。未来をこの家にひとりにしては帰れない。
携帯を見ると、母からメールが来ていた。
『帰りは何時くらいになりそうですか? ご飯は食べたの?』
メールの受信は十八時ちょっと過ぎだった。
未来と一緒にいたから携帯は必要ないと思い、鞄の中に入れっぱなしで連絡することすら忘れていた。三時間半も前のメールの返信を今頃するのも憚られたが、自分が連絡していなかったのが悪い。
『返信遅くなってごめん。夕飯は食べた。兄貴の家にいる。帰りはもう少し遅くなる』
返信するなりすぐに電話が鳴った。
母からだった。メールした意味がない。
『悠聖? 柊の家にいるの? 柊は?』
「今外出てるよ」
『そうなの? ひとりなら早く帰ってくればいいのに』
「いや、兄貴の部屋結構勉強はかどるから、もう少しだけ」
ひとりじゃないから、とは言えない。
未来をひとりにしたくない。それだけの理由だけど僕にとっては最大の理由。勉強がはかどると言った手前、頑張らないといけない。自分で自分にプレッシャーをかけてしまった。
急に思い出したが、前に未来にきょうだいの有無を聞いた時、『今はいない』と言っていた。
『いつか教えるね』とも。それが兄貴だったってことか。あの時はまだ兄貴と知り合ってなかったってことか。どちらにせよ、未来の兄が僕の兄であったことはいまだに受け入れがたい。
あぁ、僕の頭から未来が離れない。
ずっと未来と一緒にいたい。
玄関から鍵の開く音がしたのは、二十二時過ぎだった。
リビングの方から玄関を見ると、酷く疲れた様子の兄貴が佇んでいた。
「おかえり」
僕がリビングから声をかけると、兄貴がビクッと身体をすくめた。
「悠聖……いたのか?」
「どうしたの? 何かあった?」
すごく辛そうな顔をしている。こんなに憔悴しきった顔、初めて見たかもしれない。
僕の問いに兄貴の目が激しく動揺したように見えた。何かを隠している、そう思ったけど聞ける雰囲気ではなかった。なんだか酷く暗いオーラを纏っているように見える。
「……未来は?」
「寝てる」
「寝てる? 具合悪いのか?」
「いや……たぶん疲れているだけだと思う」
「……そっか。それならいい」
兄貴がため息をついて寝室に姿を消した。何があったんだろうか。
兄貴の部屋のドアが閉まったのとほぼ同時に、未来の部屋のドアが開いた。
眠そうに目を擦りながら、緩慢な動きで部屋から出てくるのを見てホッとした。あんなに辛そうな兄貴を見た後だったから、彼女の姿は本当の癒しに思えた。
未来が僕の名をつぶやく。血色のいい唇が緩やかに動いてから弧を描くのをじっと見つめてしまった。
「随分大きいパジャマだね。袖折ってあるし、もしかして兄貴の?」
未来は照れくさそうに笑って「うん」とうなずいた。
「かわいいでしょ?」と唇が動き、玄関の前でクルッと回って僕に見せてくれた。
パジャマよりそんな未来の仕草の方が何倍もかわいいよってことは言わないでおこう。でも大きすぎて肩が落ちているし、少し首元の露出が多いように思える。
これ以上見ているといやらしい気持ちになってしまいそうだ。それに気づいて慌てて目を逸らす。
「――未来! もうそれは着るな! 早く着替えなさい!」
兄貴が部屋から出てきて、未来を見るなり大声を上げた。
それに驚いた未来が全身で反応する。酷く怯えた表情で俯く彼女を見て止めに入ろうと思ったのに、その隙もなく兄貴は狼狽える未来の背中を強引に押して、部屋の中へ閉じ込めた。
「自分のパジャマを持っているんだからそっちを着なさい!」
そう怒鳴るように声を荒げ、未来の部屋の扉を乱暴に叩く。
「兄貴! そんなに怒らなくてもいいじゃないか!」
僕もまるで争うように大声を上げてしまっていた。
あまりにも理不尽な行動に、平常心を保っていられなかった。
兄貴はちらっとこっちに視線を向け、そして無言のまま浴室に入って行く。
僕は悪いことなんかしていない。兄貴が悪いから注意したのに、何となくこっちが罪悪感を抱くような悲しげな瞳に一瞬怯んでしまった。
未来が泣いているんじゃないか心配だった。部屋のドアをノックして小さく声をかけてみる。
「未来? 大丈夫?」
部屋は静まり返っていて扉に耳を当てても状況はわからなかった。
しばらく待つと、ガチャリとノブが回る音がして扉からひょこっと未来が顔を出した。さっきのパジャマとは違う、上下ピンクのスウェットに着替えていた。
“怒られちゃった……気に入ってたのに”
未来の唇がそう動いたのがわかった。
唇の動きをだいぶ読めるようになってきてうれしかったが、悲しそうに微笑む彼女がかわいそうにもなった。なんで兄貴はあんなにも怒ったのか、理解不能だった。
「そっか、気に入ってたのか」
なるべく優しく声をかけると、こくんとうなずくその姿がかわいくてしょうがない。
こんなに健気な未来が哀れになって、僕はそっと彼女の頭を撫でた。サラサラの未来の髪に触れていると、さっきのことを思い出してしまう。本当は抱きしめて慰めたいけど、抑えがきかなくなると困る。
“悠聖くん、寝ちゃってごめんね”
「いいんだ。疲れてたんだよ」
未来が少し照れたようにはにかんだ。
兄貴が風呂から出てきたのに気づいて、僕は鞄を持って立ち上がった。
頭をバスタオルで拭いながらこっちに歩んでくる兄貴は、やっぱり浮かない表情をしていた。心ここにあらずといった感じだ。
「帰るよ。何があったかは知らないけど、未来にあたらないで。あんなふうに怒られたら彼女だって萎縮してしまうよ」
リビングの入口に立つ兄貴を軽く睨みつけ、念のため再度訴えかけた。
少し俯いた兄貴が、神妙な顔つきで小さくうなずいた。反省しているのだろうか。それならいいんだけど。
「悠聖、もう遅いから泊まっていけば? 部屋も布団も余ってるし、パジャマも貸すし」
「え? いいけど」
「そうしろ、ゆっくりしていけ」
兄貴が僕の背中を叩いてリビングの奥の和室に入り、布団を敷き始めた。
なんとなくだけど、兄貴のその背中が悲しそうに見えた。僕の気のしすぎなのだろうか。
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