第45話 歪んだ関係柊視点
未来の家の最寄駅前の喫茶店で実父と二十時半待ち合わせをした。
店内の一番奥の窓際の席を指定され、五分前に到着するとすでに座っていた。
元々時間には厳しいタイプだった。幼い俺が幼稚園に行くのに起きなかったりすると、かなりきつめに叱られた記憶がある。
待ち合わせ等も約束の時間前に現地に到着していないといやなタイプなようで、いつも早め行動をさせられていた。
くたびれた感じの薄いグレーのジャケットにワイシャツ、濃いグレーのスラックス。
この前はこんなにじっくり見ている余裕がなかった。髪はかなり白髪混じりである。改めて見るとまだ四十八歳くらいだと思うのに年齢よりずっと年を取っているように見えた。五十代と言ってもおかしくない。
だけど壮年期にしては元々の顔の造りがいいせいなのか、それなりに見れる年の重ね方をしているようだった。
「おまえ……この前のっ」
俺が無言で向かいの席に座ると、父は驚きの声を上げた。
テーブルの上に載せられた手も声も震えている。その表情は驚愕を隠しきれず、わなわなと唇を震わせている。
「あんなに酔っているふうだったのに殴った男の顔は忘れない……か」
「柊なのか?」
再度確認され、うなずいて返事をした。
しばらくお互い無言のまま時間が過ぎた。
注文したコーヒーにも手をつけず、黙り続けている。いつの間にか双方のカップから立ち込める湯気がなくなっていた。長く時間を取りたくはなかったが、お互い声をかけるタイミングを探っていたのだと思う。
店内で小さく流れるピアノジャズのBGM。この曲が終わったら、と思いつつすでに二、三曲完奏している。
このまま黙っていても埒が明かないので、意を決して俺が口を開いた。
「写真ってなんだ?」
怪訝な表情で睨まれた。
だけどここでやめてしまったら来た意味がない。
「この前、父さんが未来に送ったメールを見た。あの子は風呂に入っていたから見てないけど、勝手に削除した」
「……だから返事が来ないのか」
父が小さく舌打ちをして、すでに冷めているであろうコーヒーを飲んだ。
とてもおいしそうには見えなかった。首をかしげながらあからさまに不愉快そうな表情を浮かべて、上目遣いで鋭く睨めつけられる。
昔からこの、人を射抜くような鋭い視線が苦手だった。
思えば絵を描く時、いつもこんな目をしていた。母と離婚して俺とふたりで暮らすようになってからさらに酷い形相になったような……幼心にもそんな気がしていた。
「あんな脅しのメールするなよ。情けない」
父は何も言わずコーヒーカップの中身を見ていた。
すると、いきなりジャケットの内ポケットからおもむろに何かを取り出し、「おまえもほしいか?」とそれをテーブルの上に投げ捨てた。
無造作に散らばった写真を見ると、未来が横たわって目元を隠している上半身ヌードの写真だった。
隠しているとはいえ、撮った角度から未来だということはすぐにわかる。数枚顔が写っているものもあり、その頬は涙で濡れていて、唇は痛いほど噛みしめられていた。
それを拾い集めて全てビリビリに破くと、父は口元だけで笑ってその様を見ていた。
「破いてもネガがあるから意味がない」
「ネガをよこせ!」
静かな店内に俺の声が響いた。
少ししかいない客がビックリしてこちらを見ている。だけどそんなのに構っていられなかった。
「これはオレの大事な資料だ。本当は実物を見て描くのが一番だが」
俺を再び上目遣いに見て、父がニヤリと笑う。
その顔に鳥肌が立った。悪いことをしているという自覚を全く感じさせないその表情に反吐が出そうだ。
「なんで娘にそんなことができるんだ……」
俺は口惜しさを抑えきれず、声を可能な限り潜めて必死に訴えた。
そのまま目の前の父を殺してやりたい気持ちだった。
「キレイだろう? 未来は。オレはあんなに美しい人間を見たことが……いや、いい。早く返せ。あれはオレのものだ」
未来を思い浮かべながら陶酔したような表情を浮かべている。
しかも何を言っているのかさっぱりわからなかった。気が狂っている、そうとしか思えない。
未来を『
あれ』呼ばわりするのも許せなかったが、娘を『
オレのもの』と言い切る精神が理解できなかった。あの子はものなんかじゃない!
「……もうやめろよ! 実の娘だろう!」
頼むから目を醒ましてくれ――
昔の面影すらない父を目前にして泣きそうな気持ちを押し殺しながら情に訴えた。
そう祈ることしか出来ない自分が嘆かわしい。同時にこんなふうになってしまった父を心のどこかでほんの少し憐れに思っていた。
テーブルの上で震える自分の拳を必死に押さえ、父に視線を移すと驚いた様子で俺を見ていた。
「……違う、未来は
万里の連れ子だ。オレの実の娘ではない」
「――!!」
俺は言葉を失った。
未来は実父の子どもじゃない?
つまり、俺の妹でもなんでもないってことじゃないか。
「……そんな」
今度は俺が震える番だった。
今まで妹だと思って……そう思い込んで数日接していた未来が、そうじゃないなんて信じたくなかった。
「未来はオレが『実の父親』だと言ったのか? おまえ、兄貴気取りでいたのか」
再びニヤリと勝ち誇ったような笑みを浮かべる実父を見て、ハッとした。
そうだ、確かに未来はこの男を『おとうさん』としか表現していない。盲点だった。
『兄貴気取り』と言われ、その通りな自分が恥ずかしかった。そして何も言い返せずにいた。
だけどまさか、未来の母親が実父の前に別の男性と結婚していたとは思わなかったから、疑うことすらもできなかった。
「未来は知らないかもしれないけど、オレと万里は結婚もしていない。つまり未来はオレの娘でもなんでもない」
父がコーヒーを飲んで笑った。
しかもそれだと未来にとっては義父でもなく、ただの養父になるんじゃないか。
「……内縁だったのか」
「まぁ、そんなところだ」
未来は本当の父でもない男を父と呼び、育てられた。しかもあんなにも酷い性虐待を受けて。
しかも母親とは籍も別な内縁の夫。それなら別姓なのも納得できる。だけどそれなら話は早い。
「もう、未来とお母さんを解放しろ」
俺がそう言うと、父は空になったコーヒーカップを雑にソーサーの上に戻した。
ガシャンと割れそうな音が響く。
「断る! 未来はオレのものだ。話は済んだ。返せ! あれがいないと仕事にならない。あと一週間以内に家に戻せ。いいな」
父がこれ以上用はないと言わんばかりに先に席を立った。
それを引きとめようとして、俺が身を乗り出すと、目の前にあったコーヒーカップが音を立てて中身が揺れた。少しソーサーに零れたかもしれない。
「待ってくれ……父さん」
「そんなふうに呼ぶな!」
「父さんは風景画専門だったじゃないか! また描けばいいじゃないか」
俺から目を逸らして悔しそうに窓の外を見る父。その身体は小刻みに震えていた。
本当は俺自身、目の前の男を『父』と呼びたくなかった。だけどもしかしたら情に流されてくれるんじゃないかとかすかな期待を抱いていた。そして大好きだった風景画――
少し心が揺れてくれるのを祈った。しかし「描けるものなら描いてるさ」と簡単に返される。
その表情は悲愴感を漂わせていた。本当は描きたいんだって気持ちが伝わってくる。だから「また描けよ」と諭すも、「無理だ」と拒絶された。
どうしても確認したいこと、だけど口に出してはいけないような気がして今まで尋ねなかった。
だけど今しか聞くタイミングはないだろう。躊躇いながらも勇気を奮い立たせてそれを口にした。
「盗作なんて嘘だろう?」
俺の言葉に父の身体がぐらりと揺れた。
目を見開いて俺を見据える父の表情には怒りが込められているように見えた。
「俺は父さんを信――」
「おまえが返さないならどんな手段を使ってでも連れ戻す!」
「待てよ!」
『信じている』そう伝えたかったのに、遮られた。
引き止める俺の声は聞こえているはずだ。それなのに聞こえないフリをして、実父は足早に喫茶店を去って行ってしまった。
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