第41話 さよなら未来視点
部屋に押し込まれてからすでに一時間以上は経っている。
わたしは着替えもせず、ずっと立ち尽くしていた。壁にかけられた時計の秒針の音が妙にうるさく聞こえる。気が気じゃなくて、何もできなかった。
お兄ちゃんは佐藤くんになんて話しているんだろう。
母を説得したように、性虐待のことは黙っていてくれるのだろうか? それとも全て包み隠さず話してしまうのだろうか。わからない。ただ時間が経つのを、話が終わるのを待つしかない。
大きなため息が自然に漏れて、ふと我に返る。
考えてみたら嘘をついてもらってもしょうがないのかもしれない。
佐藤くんは特待生の制度を蹴るくらいだから、きっとお金持ちの家の息子なんだろうと思う。
現にお兄ちゃんが住んでいるこのマンションだってこんなに大きくて広い。ひとりで住むにはもったいないくらいだ。わたしとは住む世界が違うんだ。
ほんの少しの間だったけど、楽しい思い出を作らせてもらえた。
そう思えば幸せなことだったのだろう。こんなハンデを持っているのに、初めて優しくしてくれた男の人。もう二度とないことだろう。
佐藤くんにはこんな穢れたわたしより、もっと素敵な恋人がすぐにできるはず。
そう考えたら、安心しなきゃいけないことなのに……なぜか涙が止まらなくなってしまった。
**
わたしの部屋の扉がノックされたのは、それから三十分くらい経った後だった。
実質一時間半以上お兄ちゃんと佐藤くんは話していたことになる。時間は二十一時を過ぎていた。扉を開けると、佐藤くんが悲しそうな表情で立っていた。
「僕、帰るから」
佐藤くんはわたしを見ないようにしているようだった。
わたしも佐藤くんから目を逸らして、一度だけうなずいた。
もう、終わりなんだよね。そうだよね。わたしは穢れてるから。
すでに乾いた涙が再び頬を伝いそうになるのを必死で堪えた。ここでわたしが泣いてしまったら、佐藤くんは優しいからほっとけなくなってしまうはず。
「弓月……」
“今までありがとう。さよなら”
唇の動きで佐藤くんに伝える。
これ以上佐藤くんに辛い思いをさせたくない。だったらわたしから別れを切り出そうと思った。
フラれるのがいやなんじゃない。その言葉を佐藤くんに言わせたくないだけ。
そんなことをしたら、彼はきっと罪悪感を抱くはずだから。
部屋の扉を閉めようとして一歩後ずさると、佐藤くんがわたしの部屋に入ってきた。
予期せぬ出来事に驚く間もなく両手で頬をしっかり包まれ、すぐにわたしの唇に彼の唇が押し当てられた。しっかりと閉じた佐藤くんの瞼は小さく震えていて、眉間にはシワが濃く刻まれている。
――目くらいつぶって――
そう言った佐藤くんの言葉を思い出して、わたしはゆっくり目を閉じた。
佐藤くんの唇はやっぱり柔らかくて優しかった。
彼のすべての温もりが伝わってくるような、そんなキス。
わたしの閉じた目から自然に涙が溢れた。
「弓月のこと、嫌いになったりしない」
目の前の佐藤くんはとっても穏やかな顔をしていたけど、すごく悲しそうだった。
彼の顔に手を伸ばすと、その手をとって自分の頬に当てる。その頬もすごく暖かかった。
泣いてはいない、だけど心の中で泣いているように見える。
「ずっと弓月の傍にいる。全部聞いた。だけど何を聞いても、気持ちが揺らぐことなんてない」
「――!!」
きつく佐藤くんの腕に抱きしめられ、このまま消えてもいいとさえ思った。
わたしのことを全部聞いても、傍にいてくれる。その気持ちがうれしかった。
しがみつくように抱きつくと、頭の上で佐藤くんが小さく笑う声が聞こえる。強く握りしめた彼の茶色のブレザーがわたしの手の中でぎゅうっと音を立てた。
ありがとう、佐藤くん。大好き。
→ NEXT→ BACK
Information
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学