うちの職場は十五時から十五分間の休憩時間がある。
各々お茶をしたり、少しでも横になりたい人は更衣室に畳の小さな部屋があるから使っているらしい。
わたしはいつも通り、席で自販のカフェオレを飲みながら携帯小説を読む。
持っていた携帯が震えて、メールを着信した。
知らない番号の羅列が表示されている……携帯に登録していない人……まさか……。
『今外回り中なんだけど、帰り待ってて。正門前嫌なら駅前のシズールで。十八時には行ける。翔吾』
……やっぱり雨宮翔吾。
よく見たら、これ携帯番号で送られてきてるメールだ。
携帯会社一緒なのか……全く誰よ! 人の番号リークしたの。訴えてやりたい。
それに何が“翔吾”よ。自分で自分を翔吾だなんて書くのありえないし。
二十三歳のいい年のくせにばかじゃないのばかじゃないの。
“メールを削除しますか?”の表示に一瞬躊躇う。
これを消してしまうのは簡単……でも、証拠はなくても残るものがある。
雨宮翔吾の頭の中に、このメッセージを送ったという記憶。そして履歴。
メールって便利なようで意外に不便だったりするんだな……。
第一シズールって駅前のコーヒースタンドのチェーン店なんだけど、あの辺だといつ社内の人に遭遇してもおかしくない。
この誘いは却下だ。断ろう、うん、断る。
『今日は予定があります』
そこまで打ってストップ。予定って何? って聞かれるかな?
わたしの予定なんてたかが知れている。お風呂入って夕食食べて、携帯でネット小説読んで……。
枯れてるな……自分。
でもそれでいいんだもん、今までの生活が一番楽なんだもん。
自分のペースを雨宮翔吾に乱されたくない! 乱される必要もない。
携帯電話の番号、かえようかな……。
新しい番号にしたって教える人は少ない。
短大時代の友人が数名、高校時代の友人が数名……そのくらいの手間ならわけない。
帰り携帯ショップによって新しくしよう。年も変わったし、心機一転の意味も込めて。
もう社内の人には教えない。またリークされても困るし……。
でも、社内にだってわたしの携帯番号知っている人なんて数少ないと思うけど?
入社した後の一週間の研修の時に同じ班だった子と交換したのと、あとは同じ部署の同期……と言ってもそんな数はいない。もしかしたら教えた人はわかるかもしれない?
ぐるっとオフィスを見渡すと、席でお茶をしながら喋っている人、休み時間でも仕事の電話をしている人様々。
オフィス内の小さな休憩室に高畑さん率いる営業管理課女性社員メンバーが入っていく。
その中に咲子の姿を見た。
まさか……咲子? の、はずないか。
咲子だって雨宮翔吾カッコイイって言ってたし、わたしの電話を聞かれて教えることはないよね。
もういい、犯人探しなんてやめやめ。
携帯かえるんだし、こんなこともう起きないから。
昨日のキスは犬に噛まれたと思って忘れ……。
られるかあ! ばかあ!
一発殴ってやりたい。でも、でも……。
じゃあなんでわたしはあいつのスーツのボタンをつけてあげたの?
みっともないって言われながらも……ほっとけばいいのに。
うん、あいつのじゃなくてもつけてた! これが結論。
他の人のスーツでも目の前であんなボタンブラブラだったらつけていたはず。そうに違いない。
考えるのやーめた。
第一あの男、おかしいとしか言いようがない。
傍に秘書課のあんな美人もいるし、高畑さんだって少し年上だけど美人だし慕われているじゃない。
……考えるのやめた、はずなのに。
結局小説ひとつも読み終えることができなかった。
更新楽しみにしてた話で、すごく読みたかったのにな。
帰り、わたしは駅前の携帯ショップに寄った。
アドレスはSDカードにも入っているし、新しい携帯に移行してもらえた。
あとはわずかな知り合いにに新しい番号を教えるだけか。
新しい番号ってなじみがないから覚えるまでが大変だな。
とりあえず、友達への報告は家でゆっくりメールを打つとして昼間更新されたはずのネット小説を読みながら――
「どういうこと? 電話繋がらないんだけど?」
ギリッと右肩に痛みが走る。
ものすごい力で掴まれていることが容易に伺えた。コートの上からでもそのくらい感じるのだから相当の力。
胸の奥の方でズグンと音を立てたかのような違和感を覚え、恐る恐る振り返る。
このバリトンボイスは――
「シズールで待ち合わせなのになんで駅にいるわけ? 返信もないし嫌な予感してたんだよね」
「あ……めみやさ……」
「何? その携帯、かえたの?」
わたしが左手で握りしめている携帯を冷たい目で雨宮翔吾が見つめている。
真新しい、まだ画面にフィルムがついた状態に気づいたのか眉を寄せて睨むように。
……そっか、わたし十五時休憩の時メールを作成したけど躊躇ってて送信するの忘れていたんだ!
「貸して」
するっとわたしの左手から携帯が奪われた。
雨宮翔吾が慣れた手つきでわたしの新しい携帯を弄っている。
スーツの上着からすっと自分の携帯を取り出して、何かを入力している。たぶんわたしの新しい番号。
「携帯買い換えるなら、ひと言言っておいてほしかったな。登録したからいいけど」
手元に携帯が戻って来た。
これじゃ何の意味もない。せっかく携帯番号かえたのに……。
「腹減ってない? どこかで食べようか?」
ニッコリ微笑んだ雨宮翔吾がわたしの腕を引く。満足そうなその表情にわずかに苛立ちを覚えた。
何がなんだかわからなくてわたしは呆然とその場から動けなくなった。
「外食嫌ならウチ来る? 俺の手料理結構いけると思うよ? あーでも着替えたいかな? 下着どこかで買ってく?」
腕、引かないで。
これ以上巻き込まれたら戻れなくなりそうだからいやなのに。
掴まれた腕が熱い、もう触れないで――
「和食がいいよね。昨日と被らないメニューだと……和風ハンバーグにしようか?」
「は……なして」
「って和食じゃないか。でも和風だし……」
わたしの声なんて聞こうともしていない。
ああ、こういう人なんだ。そうだよね、イケメンは自己中でも嫌われることないもんね。
――でも、でも……。
自分の中でフツフツと湧き上がる怒りをどうにも抑えることができなくて。
「雪乃?」
「離せ! この傍若無人男があっ!」
いきなり限界に達したわたしは雨宮翔吾のその腕を振り払って怒声を上げていた。
その時、何かが音を立てて落ちた。
カラカラと小さいものが転がっていく……ボタン?
「あーあ、また取れちゃった」
雨宮翔吾が落ちたボタンに手を伸ばした。
「どうかされましたか?」
「ああ、すみません。ただの痴話ゲンカです。お騒がせしました」
怪訝そうな顔で去って行く駅員さんに会釈する雨宮翔吾。
痴話ゲンカじゃない。そんなんじゃない。だってわたし達はただの同僚で……。
「行こ」
ポケットに取れたボタンを押し込んでその手で再びわたしの左手首を引いた。
わたしがつけたボタン、つけ直してもらったんじゃないの? みっともないから。
なんでそんなに簡単に取れちゃうの? きれいにつけてもらってもすぐに取れちゃうんじゃ意味ない。
「雨宮さん、離して」
わたしの前を歩く雨宮翔吾の背中に向けて声をかける。
だけど振り返りもせず、わたしの手を引いて歩く。
「雨宮さん!」
絶対聞こえているはずなのに無視してる。
電車のホームに向かう上りのエスカレーターに乗せられたけど、雨宮翔吾は前を向いたまま。
もしかして、名前で呼ばないから?
「しょ……翔吾さん……」
躊躇いながら名前で呼ぶと、雨宮翔吾が真面目な顔をして振り返った。
わたしの手首を掴む力が緩まる。だけど離してはもらえなかった。
「離すことはできないけど、痛くはないだろ?」
柔和な表情でわたしを見つめている。
背が高いくせにエスカレーターの上の段に乗ってわたしを見下ろして。
「あのボタン、つけてくれたの君だろ?」
「え……」
手首を掴んでいた雨宮翔吾の手が少しだけ動き、指を絡めるようにしてわたしの人差し指に巻かれた絆創膏に触れた。
これだけで……わかったの?
なんでそんな優しい目でわたしを見るの?
「もう一度、名前で呼んで?」
雨宮翔吾が一段降りてきた。
わたしと同じ高さの位置で並んで立つ。
真正面から見つめられて、わたしの心臓は壊れそうなくらい強く早く拍動していた。
「翔吾……さん」
吸い込まれそうな瞳から目を逸らすことができずに、上目遣いで見つめながらつぶやくような小さい声で呼ぶ。満足そうな笑みが零れ、その頬は少しだけ紅潮しているように見えた。
「雪乃。俺から逃げないで」
「しょ……」
「もし、本当に嫌なら……」
わたしの手指にそっと絡めるようにしていた雨宮翔吾の力がさらに緩んだ。
するりと抜けてもおかしくない、それくらいだ。
「振り払って、逃げて」
わたしを見据える悲しそうな表情を見て、胸の奥が疼く。
エスカレーターは電車のホームにつく直前だった。
そっと手を引かれ、エスカレーターを降りる。
わたしの家に帰る電車はこのホームではない。ここで手を振り払って階段で戻ることも、可能。
だけど……だけど……。
目を細めて悲しそうに微笑むこの人の顔を見たら――
→ NEXT→ BACK
Information
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学